sairo

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あと、一年。

あれから何回も指折り数えた。
彼女達にとっては特別な、私にとっては終わりの日を。
後悔のないようにと。そう思っていた。
はずだった。


最初に感じたのは、強い痛み。
身体の中にある何かを無理やり引き千切るような、そんな無慈悲な痛み。
ただ、名前を呼ばれただけ。彼女達には伝えなかったはずの名前を、目を合わせながら呼ばれた。

『これはもう必要ないわね』

痛みに滲む視界。その隅で、彼女が握り潰した何かを見た。

次に感じたのは、熱。
千切れて痛むその場所に入り込む、何かが発したものか。それとも、その何かを身体が拒んでいるからなのか。
痛みにのたうち回る私を引き寄せ、彼女がもう一度視線を合わせ囁いた言葉。その知らない名前に、生じた熱と共に酷く眩暈がした。

「…っぐ…ぅ…」

少しでもこの苦痛から逃れたくて、背中を丸めて蹲る。
痛い。熱い。苦しい。
入り込んだ何かが心臓を喰い破り、そこから血に混じって身体中を巡っているようだ。
そうして、私という存在を人から人でないモノに変えてしまう。
そんな気がして、只々怖かった。

「少し急ぎすぎだ。壊してしまったらどうする」

低く落ち着いた声音。

「長く苦しめるよりはいいじゃない」
「痛みが増すのは可哀想だ」

抱き起こされて、彼の腕の中。そのままゆるりと背中を撫でられれば、ほんの僅か痛みが消えた気がした。

「いい子。怖くないから、ちゃんと受け入れて」

囁かれる言葉。背中から感じる、手のひらの熱。未だ身体を蝕む痛みと熱に混じり合って、少しずつ波が引いていく。

「翠雨」

名前を、呼ばれた。知らない名前。

「…ゃ……かえ、て…っ…かえ、して……」

うわ言のように、かえして、と繰り返す。
昨日までの私をなかったようにされているようで、苦しかった。
戻れなくなりそうで、怖かった。

「駄目。拒んでも、苦しむ時間が長くなるだけだ。ほら」
「ーーーっ!?」

背中を撫でていた彼の手が離れる。瞬間、全身に走る激痛に、声にならない叫びを上げた。
先程とは比べ物にならない程の、痛みと熱。けれど、その苦しさに喘ぐその背中に再び彼の手が触れれば、痛みも熱も静かに引いていく。

「結局、五月雨も泣かせているじゃない」
「こうした方が分かりやすいだろう」
「残酷ね」

不意に聞こえた彼女の声。次いで伸ばされた腕に抱き寄せられる。
彼の手が離れた事でまたあの痛みを覚悟し身を竦めるが、不思議と痛みも熱も訪れる事はなかった。

「大丈夫よ、ほら。ちゃんと抑えてあげるから」
「…ぁ」
「ねぇ、翠雨」

顎を掬われ、背後の彼女と視線が合わさる。蛇のような深紅の瞳が、ゆるりと弧を描いた。

「わたし達が今まで与えたものを覚えている?そして、それを全て受け入れたのも、ね」

もがいた事で乱れた髪から簪を引き抜き、口付け笑う。
忘れてはいない。その鼈甲の簪も、黒の着物も、櫛も紅も何もかも。
全て、彼女達から与えられたものだ。

「それがどこから持ち込まれたのか、気づいているでしょう?何を食べ、身に纏っているのか」
「ぁ…や、だ……やめ、て…」
「『黄泉竈食ひ』、知っているでしょう?」

聞きたくなかった言葉。
常世の竈門で煮炊きした物を口にすると、現世には二度と戻れないという。
けれど、何故。

「少量なら、身につけた常世のものの気配で誤魔化せるの。ずっと身につけてくれていたものね」
「そうだな。だからこうして馴染んで、今狂いも壊れもしていない。苦しいのも、受け入れればそれでおしまい」
「分かった?翠雨はもう戻れないの。それに、これが翠雨の望みに応えた結果よ。」

くすりと笑う声。楽し気に弾んだ声音が告げる。

「ここにはわたしも五月雨もいるわ。別れを悲しむ必要はない。ただ、在る場所が現世から狭間に変わっただけ。何を拒む必要があるの?」
「っ…な、に…?」
「今の幸せが続けばと、望んだでしょう?」
「……!」

それは、二人には最後まで伝えなかった言葉。
人の身では過ぎる望みだと知っていたから。だから、口を閉ざし続けた唯一の想いだった。

「わたし達は望みに応えた。ならば、今度は翠雨が応えなさい。大人しく受け入れて」



一年前、優しい神様達との逢瀬の終わりの日を知った。
後悔のないように、笑って別れられるようにと必死で気持ちを隠した。

けれども今日、二人から贈られた黒の着物を着付けられ、簪を挿し、連れられた山奥の古びた鳥居を潜った瞬間に気づいた。
終わってしまったのは、現世で生きた時間。特別に新しく与えられたのは、神様と共に在る永久だと。

どこで間違えてしまったのだろう。
鳥居を潜った時か。二人から与えられるものを受け入れた時か。
幸せが続くように望んでしまった時か。
それとも、あの雨の日に彼女の姿に魅入ってしまった時か。


「……うん」

小さく頷いて、瞳を閉じる。


もう、何もかもが分からなかった。




20240509 『一年後』

5/9/2024, 1:53:03 PM