sairo

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5/9/2024, 1:53:03 PM

あと、一年。

あれから何回も指折り数えた。
彼女達にとっては特別な、私にとっては終わりの日を。
後悔のないようにと。そう思っていた。
はずだった。


最初に感じたのは、強い痛み。
身体の中にある何かを無理やり引き千切るような、そんな無慈悲な痛み。
ただ、名前を呼ばれただけ。彼女達には伝えなかったはずの名前を、目を合わせながら呼ばれた。

『これはもう必要ないわね』

痛みに滲む視界。その隅で、彼女が握り潰した何かを見た。

次に感じたのは、熱。
千切れて痛むその場所に入り込む、何かが発したものか。それとも、その何かを身体が拒んでいるからなのか。
痛みにのたうち回る私を引き寄せ、彼女がもう一度視線を合わせ囁いた言葉。その知らない名前に、生じた熱と共に酷く眩暈がした。

「…っぐ…ぅ…」

少しでもこの苦痛から逃れたくて、背中を丸めて蹲る。
痛い。熱い。苦しい。
入り込んだ何かが心臓を喰い破り、そこから血に混じって身体中を巡っているようだ。
そうして、私という存在を人から人でないモノに変えてしまう。
そんな気がして、只々怖かった。

「少し急ぎすぎだ。壊してしまったらどうする」

低く落ち着いた声音。

「長く苦しめるよりはいいじゃない」
「痛みが増すのは可哀想だ」

抱き起こされて、彼の腕の中。そのままゆるりと背中を撫でられれば、ほんの僅か痛みが消えた気がした。

「いい子。怖くないから、ちゃんと受け入れて」

囁かれる言葉。背中から感じる、手のひらの熱。未だ身体を蝕む痛みと熱に混じり合って、少しずつ波が引いていく。

「翠雨」

名前を、呼ばれた。知らない名前。

「…ゃ……かえ、て…っ…かえ、して……」

うわ言のように、かえして、と繰り返す。
昨日までの私をなかったようにされているようで、苦しかった。
戻れなくなりそうで、怖かった。

「駄目。拒んでも、苦しむ時間が長くなるだけだ。ほら」
「ーーーっ!?」

背中を撫でていた彼の手が離れる。瞬間、全身に走る激痛に、声にならない叫びを上げた。
先程とは比べ物にならない程の、痛みと熱。けれど、その苦しさに喘ぐその背中に再び彼の手が触れれば、痛みも熱も静かに引いていく。

「結局、五月雨も泣かせているじゃない」
「こうした方が分かりやすいだろう」
「残酷ね」

不意に聞こえた彼女の声。次いで伸ばされた腕に抱き寄せられる。
彼の手が離れた事でまたあの痛みを覚悟し身を竦めるが、不思議と痛みも熱も訪れる事はなかった。

「大丈夫よ、ほら。ちゃんと抑えてあげるから」
「…ぁ」
「ねぇ、翠雨」

顎を掬われ、背後の彼女と視線が合わさる。蛇のような深紅の瞳が、ゆるりと弧を描いた。

「わたし達が今まで与えたものを覚えている?そして、それを全て受け入れたのも、ね」

もがいた事で乱れた髪から簪を引き抜き、口付け笑う。
忘れてはいない。その鼈甲の簪も、黒の着物も、櫛も紅も何もかも。
全て、彼女達から与えられたものだ。

「それがどこから持ち込まれたのか、気づいているでしょう?何を食べ、身に纏っているのか」
「ぁ…や、だ……やめ、て…」
「『黄泉竈食ひ』、知っているでしょう?」

聞きたくなかった言葉。
常世の竈門で煮炊きした物を口にすると、現世には二度と戻れないという。
けれど、何故。

「少量なら、身につけた常世のものの気配で誤魔化せるの。ずっと身につけてくれていたものね」
「そうだな。だからこうして馴染んで、今狂いも壊れもしていない。苦しいのも、受け入れればそれでおしまい」
「分かった?翠雨はもう戻れないの。それに、これが翠雨の望みに応えた結果よ。」

くすりと笑う声。楽し気に弾んだ声音が告げる。

「ここにはわたしも五月雨もいるわ。別れを悲しむ必要はない。ただ、在る場所が現世から狭間に変わっただけ。何を拒む必要があるの?」
「っ…な、に…?」
「今の幸せが続けばと、望んだでしょう?」
「……!」

それは、二人には最後まで伝えなかった言葉。
人の身では過ぎる望みだと知っていたから。だから、口を閉ざし続けた唯一の想いだった。

「わたし達は望みに応えた。ならば、今度は翠雨が応えなさい。大人しく受け入れて」



一年前、優しい神様達との逢瀬の終わりの日を知った。
後悔のないように、笑って別れられるようにと必死で気持ちを隠した。

けれども今日、二人から贈られた黒の着物を着付けられ、簪を挿し、連れられた山奥の古びた鳥居を潜った瞬間に気づいた。
終わってしまったのは、現世で生きた時間。特別に新しく与えられたのは、神様と共に在る永久だと。

どこで間違えてしまったのだろう。
鳥居を潜った時か。二人から与えられるものを受け入れた時か。
幸せが続くように望んでしまった時か。
それとも、あの雨の日に彼女の姿に魅入ってしまった時か。


「……うん」

小さく頷いて、瞳を閉じる。


もう、何もかもが分からなかった。




20240509 『一年後』

5/8/2024, 2:31:31 PM

「はい、これ」

手渡されたのは、鼈甲の簪。
その意味を考え、記憶を辿る。
誕生日ではない。欲しいと強請った事もない。
あとは、

「何よ、嬉しくないわけ?」
「そんな事、ないよ。ありがとう。えっと」

段々に不機嫌になって行く彼女に、内心で焦る。
今日は何の日だった?何があった?
焦りのせいで纏まらない思考に、思い出せない記憶に泣きそうになっていると、呆れたような溜息が聞こえた。

「今日は、わたし達が出逢った日!あんたがわたしを見初めた記念日でしょうが!」
「あっ…」

はっとして彼女を見ると、不機嫌な様子はそのままに両頬を引き伸ばされた。

「人間って本当に分かんない!すぐ忘れるくせに記念の日を大事にするとか、意味不明なんだけど!」

痛みのない程度の力加減で、頬を捏ねくり回される。
相変わらず、彼女は人よりも人らしい。いや、人らしいというよりは、人を真似ているというべきか。上辺だけの行動のなぞりは意味を伴わず、その為にこうして叫ぶ彼女の姿を見るのはよくある事だ。

「あんたはもっと意味不明。こうして与えれば受け取るのに、何も望まないなんて」

頬から手が離れ、今度は髪を乱雑に撫で回される。

「人間なら人間らしく、欲望を口になさい。このわたしが応えてあげると言っているのだから」
「何もないよ。今で十分幸せ」
「易い幸せね」

呆れたと笑う彼女には、分からない事なのかもしれない。
人ではない彼女は、見返りを求めない。望まれれば応え、代わりに一度機嫌を損ねたら全てを奪い去っていく。
神様はそんな怖い存在なのだと。寝物語によく聞かされた。
そんな目の前の怖いほどに美しい神様にとって、この幸せは些細なものなのだろう。

「今が幸せ。これ以上はいらない」

独りではない安堵。見返りなく与えられる優しさ。
彼女にとっては些細な幸せが、どんなに尊いものか。
きっと、それ以上を望んではいけない。
望んだならば、戻れなくなってしまうだろうから。

「まぁいいわ。今はそれで。その代わり今日は好きにさせてもらうわよ」
「いいよ。惚れた弱みともいうし、どうぞご自由に?」
「なら、まずは髪結いからね。さっさと背を向けて座りなさい。簪と櫛も渡して」
「はいはい」

くすりと笑い、彼女に背を向け手頃な岩に腰かける。
簪と共に手渡した櫛も、以前誕生日の祝いとして貰ったものだ。
他にも、些細な何かしらの記念日を理由に、彼女や今ここにはいない彼から多くを与えてもらった。

「相変わらず、綺麗な髪ね」

けれど、今上機嫌で髪を梳いている彼女の名を、私は知らない。
知っているのは、彼女達が人ではないという事。そして、この幸せには終わりが近い事。

「もうすぐあいつも来れるだろうから、来たらお茶にしましょ」
「忙しいの?」
「別に。無駄にこだわっているだけよ。今日の茶菓子の用意も、新しい棲家の事も」

新しい棲家、と聞いて思わず眉根を寄せる。
手慣れた手つきで髪をまとめ、簪を挿す彼女の様子に変わりはない。けれども、その声音はどこか楽し気で。

「もうすぐだし、特別なのは分かるけど。こだわり過ぎるのは気持ち悪いだけね」

結い上げた髪にそっと触れ、彼女が笑う。

「次は、黒の着物にしましょ。特別だもの」
「特別…?」
「それとも、別の日がいいかしら?わたしはあんたに見初められたこの日がいいのだけれど。あんたが生まれた日でも悪くはないわ」

彼女の言葉の意味が分からない。
特別な日が、終わりの日なのだろうけれど。
彼女達は、本当に分からない事ばかりだ。

「名前はもう決めてあるの。楽しみでしょう?」

腰に手を回され、抱き寄せられる。
くすくすと、背後から聞こえる笑い声が鼓膜を揺する。

「その日まで、望みがあれば口になさい。応えてあげるから」

あの日から、繰り返される言葉。
望みはないと何度返しても、繰り返される。

もし、もしも。
今が続けばいい、と口にしたならば、何か変わるのだろうか。
彼女達の特別も、なかった事になるのだろうか。

そんな事を思いながらも、結局は臆病に口を閉ざし首を振るのだ。


今が幸せ。これ以上はいらない、と。


20240508 『初恋の日』

5/7/2024, 2:03:32 PM

明日世界が終わったらどうする?
なにそれ?へんなのー。
それってさ、どの世界?うつしよ?とこよ?
やっぱり現世のことじゃない?
お仕事大変になるのはいやだよ。
たしかにー!






「…変わりないか」

声を掛ければ、目の前の座り込む人の子は緩々と顔をあげる。

「変わらないです。僕も、花曇も」

虚いだ瞳で、傍の楡の神樹に頬を寄せた。
壊れながらも待ち続ける事の出来る強さは、驚嘆に値するものだ。
そう思い子の頭を優しく撫でると、懐より取り出した真白の風車を差し出した。

「長さま、ありがとうございます」

どこか緩慢な動作で。
小さく笑んで風車を手に取ると、そのまま楡に突き刺した。

「…」
「やはり、気休めにしか成らぬか」

花木が水を吸い上げ花開くように、黒に染まりながら朽ちていく風車。
その様を見、子は何を想うているのか。
想いを乗せぬ凪いだ瞳は、ただ楡を見つめていた。

ふと、先刻の子らの話を思い出す。
この壊れた人の子は、どのような答えを返すだろうか。

「人の子よ。一つ尋ねたい事がある」
「何でしょう。長さま」
「明日世界が終わるならば、汝は何を想い願うのか」

虚な瞳がこちらを見上げ、ゆるりと瞬く。

「珍しいですね」
「戯れ言よ。屋敷の子らが話していたものでな」

子らを思い、くつりと喉がなる。
あれらは世界の終わりを、現世の終わりと認識した。
なれば、現世に生きた子はそれを何と認識するのか。

「申し訳ありません、長さま。その問いには答えられません」
「それは何故か」

また一つ瞬く虚。
されど、その虚な黄金は瞬く度にどこか輝きを増しているかのように。

強い意志を持って言葉を紡ぐ。


「僕の世界は終わっていますから」

そうして楡に触れるその手の優しさが、答えの全てだった。


「花曇は幸せ者よな。斯様に想い、待ち続ける者があるのだから」
「待つのは嫌いではありません。大丈夫ですよ」
「否。誇れ、人の子。そうして記憶し、待てる者は稀有な存在ぞ。我らのような悠久たるモノにとっては特に、な」

人はその儚さ故に、永きを待てず記憶を留める事も不得手だ。
それを可とし厭わぬとあらば、想われるモノにとってそれはどんなに幸福な事であるのか。

「よく、わかりません。けれど、花曇が喜んでくれるのならば嬉しいです」
「汝があるからこそ、花曇もまた在れるのであろうよ」
「そっか…あぁ、そうだ」

楡を見つめていたその瞳が、不意に何かを思い、瞬く。

「長さま。もしもの話ですが」

どこか遠くを想う子の、その表情は慈しみを抱き。

「もしも、世界が明日終わるのだとしても、僕は最後の時まで抗います。誰かに祈り願うよりも、微かな可能性を求めて足掻いていたい。明日のその先を諦めたくはない」

その声音は、どこまでも真っ直ぐな強さを纏っていた。


「また来よう」

暇を告げると、ゆるりと頷くその瞳は再び虚を宿している。

「楡が咲き実る時まで、何度でも」

その虚を覗き約束を告げれば、微かに表情が和らいだ。

「お待ちしています」

約束の応えに満足し、頭を少しばかり強く撫でると、子から離れ屋敷に向かい歩き出す。

とても、気分が良かった。



楡はまだ咲かない。
楡に内包された澱みは未だ、風車を朽ちさせる程に強く。
その強すぎる澱みが、楡を留めているからだ。
花が咲かねば、実は成らず。
実が成らねば、産まれるモノもない。


「さて、どれほどの時を要するやら」

とはいえど、今はとても気分が良い。
そも、約束が成されたのだから、何を思った所で詮無き事だ。

一つ頭を振り、意識を切り替えると。
屋敷へと駆け出した。





20240507 『明日世界が終わるなら』

5/6/2024, 12:24:49 PM

初めて逢った日を覚えている。

母親の腰にしがみつき、不安気にこちらを見つめていた小さな女の子。
臆病で泣き虫な年下の幼馴染。
手を差し出せば、戸惑うように手のひらと母親を交互に見、恐る恐る手を取った。

きっとその時から、手を取る瞬間の微笑みを見た時から、自分の世界は始まったのだろう。


「本当に、いいの?」
「何が?」
「本当に、後悔しない?」

何度目かの確認の言葉に、彼女は小さくため息をついた。

「ごめん」

咄嗟に謝るが、それすらも彼女を不快にさせたのではと不安になる。
ぐるぐると渦巻く感情。
それにどうすれば良いか分からず俯くと、両頬に彼女の手が添えられ目を合わせられた。

「…いっそ、なかったことにする?」
「っ、駄目だ!」
「じゃあ、ちゃんと覚悟を決めて」

どこまでも真っ直ぐな彼女の瞳。
彼女の言葉に怯えるよりも強いそれに、身体が硬直する。
どうにか視線だけでも逸らそうと足掻くも、それすら彼女は許さない。

「前にも言ったけれど、貴方の世界は広がった。今更、私の手を引く必要はないの」

自分の世界がまだ、自分と彼女とほんの僅かな周囲の人だけだった頃。
泣く彼女の手を引くのが、自分にとって大切な事だった。
あの時感じていた庇護欲と。
それに内包された、ほんの僅かな優越感と支配欲を満たすために。

「それでも、こうして手を引く理由はなに?」

どこか冷たささえ感じる声音。
鋭く射抜く琥珀色の瞳。

理由なんて、一つしかない。

「シオンが欲しい」

最初から、ずっと。
欲しいと願ったから、傍にいた。
求めて欲しくて、手を引き続けた。
もはや、理由にすらならない単純な衝動。

「…っ」
「逃げないで」

視線が逸れ自由になった手で、彼女の手を引き抱きしめる。

「他には何もいらない。シオンだけが欲しい」

顎を掬い、今度は逆にこちらから視線を合わせると、迷うように琥珀色が揺れた。

「出逢ってから、ずっとそれは変わらない。だから欲しくて、耐えられなくて、酷い事もたくさんした…そんな男に、覚悟なんて問わないで。覚悟が必要なのは俺じゃない」
「…私だって、必要ない」

瞳は迷いを灯しながらも、言葉に迷いは一切なく。
無理やりに視線を外すと、腕を振り解いて距離を取られた。

「あの時全部言わされたのに、何で今更」
「ごめん」
「くどい!」

不満気にこちらを睨み付け、背を向ける。
それだけで、全て否定された気がして。
思わず手を伸ばせば、振り向きざまに手を取られ指に噛みつかれた。

左の『約束』がはまるはずの場所に。

「…っ!」
「これ以上、謝罪は許さないから。それでもと言うなら、全部なかったことにできるように噛みちぎってあげる」

噛んだ指に口付けながら笑う彼女に、泣き虫だった頃の面影はない。

あの日よりも、彼女は強くなった。
一人で立ち上がり、歩いて行けるほどに。
それでも、枷をはめて世界に留まる優しさはあの頃のまま。

「なかった事にしないで。俺と、ちゃんと結婚して」
「なら、何回も何回も確認取らないで」

呆れる彼女を、もう一度抱き寄せる。
その華奢な温もりと優しさに、泣きたくなりながら。

彼女の左手を取り、薬指に口付けた。
 



20240506 『君と出逢って』

5/5/2024, 12:49:19 PM

からからと回る風車。
騒めく木々。せせらぐ川の音。

結局、戻ってきてしまった。
懐かしき屋敷を前に、一つ息を吐く。

決してこの地を嫌い、離れたわけではない。
けれども、ここでは見えぬ景色を知りたいと願ってしまい、飛び出した。

街の喧騒。無機質な雑音。
様々な地を渡り、ここにはないモノを数多に見た。
鐘の音。響く旋律。
ここに似た地にも訪れた。
けれどもやはり、ここを忘れた事はなかった。
耳を澄ますと聞こえる音を。
何より、己を呼ぶ声を常に求めていた。

結局は、この地でなくば在れぬのであろう。



「あ、おささまだ」
「ほんとだ!おかえりなさい、おささま」
「お帰りなさいませ、長」

己の姿を認め、家人が皆声をかける。

「今戻った。皆、変わりはないか」
「えぇ、何も。皆が寂しがっているくらいですわ」
「泣かなかったわ、わたし!いい子にしてたもの!」
「ぼ、ぼくだって、いい子にしてたよ?」
「そうか。寂しい思いをさせて済まなんだ」

変わらぬ皆の声に安堵しながらも、未だ己を長と呼ぶ皆に胸中で困惑する。
この地を離れる際に、長の座は退いたはずであった。

「夜半はおるか」
「ここに」

新しく長となったはずの者の名を呼べば、間を置かずに現れる男。

「ようやくお戻りになられたのですね」
「どう言う事だ」
「お帰りをお待ち申し上げておりました。我らが長」
「夜半。説明しろ」

噛み合わぬ会話に名を呼び強く問えば、笑みは崩さぬままに眼が細まった。

「私は留守居を任されただけに過ぎません。長は貴方様で御座います」

恭しく手を取り、屋敷内へ連れられる。
それに続いて他の皆も、各々の仕事に戻ったようであった。

変わらず、この男の思考は読み難い。

「さて、長旅でお疲れで御座いましょう。床を用意してあります故、お休み下さい」
「…まったく、末恐ろしい男よな」

呆れたように呟けば、深まる笑み。

本当に、この男は御し難い。
従順に見えて、その実我が強く。
されど、誰よりも信頼できる、血を分けた唯一の弟。

「戯れ言も程々になさって下さいませ。長の在るべき所は、ここ以外ないのですから」

幼子の癇癪を宥めるような、落ち着いた声音。
部屋に通され、そのまま床に寝かせられる事で、返す言葉を失くしてしまう。

「長は我々の姿を見、声を聞かねば深く眠る事も出来ないのでしょう?」

光を遮るように瞼に手を当てる男の声音は、変わらず優しい。

本当に、恐ろしい弟だ。

愚痴のような不満は、けれども今はこの手のひらと額に感じる熱に溶かして。
訪れる久方ぶりの微睡に、抵抗する気もなく身を任せた。




20240505 『耳を澄ますと』

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