弟が、“神隠し”から帰ってきた。
7日前、姿を消した弟。
その時と何も変わらず、7日経った事すら知らず。
周囲が奇跡だと騒めく中で。
弟だけは静かに、その琥珀色の瞳で古びた鳥居の先を見つめていた。
「ねえ、にい」
歌うような囁きが、夜の静寂に解けていく。
なに?と応えれば、虚な琥珀が僅かに揺れる。
「あのね、ないしょだけどね。にいはとくべつ」
人さし指を唇に当てて、内緒話でもするかのように顔を寄せた。
「にい、あのね。おにさまがいたよ」
囁く声には、隠しきれない喜びが滲んでいる。
感情の起伏が乏しい弟には珍しい、年相応の無邪気な笑み。
久しく見ていなかったその表情に驚くと、その反応に満足したらしい弟は、跳ねるように一歩だけ距離を取る。
そのままくるりと背を向けると、手を伸ばして空を仰いだ。
「ほおずきは、なかった。でも、ちゃあんとつれてきてくれたよ」
鬼灯、の言葉で、弟の言う『鬼様』が『導の鬼灯様』だと気づく。
導の鬼灯様。
村に伝わる、いくつかの言い伝えの一つ。
山で迷った人の元に現れ、道標となる鬼灯を与える美しい鬼。
その鬼灯が明るく灯る方へ歩いて行けば、必ず山から出られるのだという。
「きれいで、やさしくて。つのはね、ひんやりだったよ」
流れる星に手を伸ばし、それを乞うような弟の。
その声音もまた恋いているようで。
「おにさま、とってもきれいだった」
ほう、と息を吐くその後ろ姿に。
会いたい?と、無意識のうちに尋ねていた。
「うん。あいたい」
伸ばした腕を下ろし、こちらを振り返る。
琥珀が、揺れる。
「あいたいよ。あいたい。こんどは、にいもいっしょに」
伸ばされる手。
けれどもそれを、握り返す事は出来ず。
「ねえ、いいでしょう?」
願う言葉には応えずに。
弟の横を通り過ぎ、歩き出した。
帰るよ、と伝えれば、慌てたように駆け寄る足音。
「にいは、いじわるだ」
単調な声音で、表情も変えず不貞腐れる弟を横目に。
今日の事も二人だけの秘密だよ、と呟けば。
惚けたように瞬く琥珀が、微かに煌めいた。
「わかった。にいとだけのひみつ」
きっと、弟はまだ気づかない。
二人だけの意味。
失った感情の理由。
応えた言葉に変化する瞳。
月の光に伸びた影の数。
差し出されるその手を握り返せないこの哀しみを、
自分だけが知っている。
20240504 『二人だけの秘密』
「ごめん」
小さな謝罪の言葉には何も答えず、彼から距離を取る事で反抗する。
実際にはほとんど変わらない、僅かな隙間。
その僅かな抵抗すら、背後から腕を引かれ抱き留められて、零に戻る。
「……っ」
「いかないで。お願いだから」
懇願する声音は、どこか甘さを孕んで目眩がした。
「そばにいて。もう離れないで」
『もう二度と俺に関わるな!』
静かな懇願の言葉に重なる、かつての彼の拒絶の言葉。
今さらだと思った。
最初に手を振り払ったのは彼の方だった。
ようやく、一人でいる事にも慣れてきたのに。
忘れられるとすら思っていたはずなのに。
今さら、
関わるなと拒絶したその唇で、依存を乞うというのか。
「…やめて」
「ここにいてくれるなら」
「やめて。ここから出してっ」
「ごめん」
優しささえ感じる謝罪の言葉とは裏腹に、抱き留める腕の力は強く。
もはや拘束でしかないそれは、息苦しささえ覚えるほどで。
「それだけはだめ」
拘束していた右腕が離れ、けれどもその指はいたずらに首筋をなぞり、そのまま唇に触れる。
それ以上の拒否を咎めるような彼の指に、思わず息を呑んだ。
「それ以外なら何でもあげる。一緒にいてくれるなら、望むところに連れて行く」
変わらず囁く声音はどこまでも甘い。
その甘さは背中から感じる熱と混じり合い、何もかもを分からなくさせていく。
彼の優しさは毒だ。
上辺だけの甘い言葉を、その行為を、愛だと勘違いさせる。
そうして勘違いしたまま、弱って一人では生きられなくなったその時に。
彼はまた、あの日のように冷たく突き放すのだろうか。
「優しくする。大切にするから」
それならばいっそ、酷く咎めて罵ってくれればよかった。
そうしたら何の期待も持たずに、彼の檻の中で生きていけるのに。
「だから、俺を愛して?」
愛を乞われ、頸に口付けられる。
まるで恋人にするような、優しいだけのそれ。
「…っ!」
深く堕ちていく感情から逃げ出すように、絡みつく全てを振り払い。
今出来る、最大限の反抗を込めて。
その優しさを拒むように。
背後の彼に、噛み付くように口付けた。
20240503 『優しくしないで』
赤、紫、橙、白。
鮮やかに咲く花々を、空の墓標に手向けていく。
雛芥子、紫苑、金盞花、白百合。
己を慰めるだけの、そんな愚かな行為を繰り返す。
「花曇」
名を呼ばれた。
「花曇」
応えずにいれば、静かに近づいてくる足音が一つ。
「帰れ」
振り返る事も出来ずに吐き出した言葉は、滑稽な程に掠れていて。
「花曇」
それでも、名を呼ぶ声は止まらない。
そのまま声は背後まで近づき、いつかのように袖を引く。
「おにさま」
懐かしい呼び名。
もう一度袖を引かれれば、もうこちらが折れるしかなかった。
大人しく振り返れば、そのまま縋るように抱きしめられる。
「帰れと言ったはずだ」
「嫌です。貴女を置いて帰りたくない」
「我儘を言うな」
「置いていかないでください」
有無を言わさない強い言葉。
しかしその言葉と裏腹に、抱きしめているその腕は微かに震えている。
それでも、言葉に応える事は出来ず。
震える腕を解いて、一歩だけ距離を取った。
「ならぬ。人と妖は、共には生きられぬ。主も解っただろう?」
もう一歩。
今度は、背後の墓標を見せるように移動する。
「もう私に吾子を殺させないでくれ」
鮮やかに咲く花に彩られた、空の墓標。
己が産んだ子らは皆、胎より出た刹那に銀の焔に包まれ燃えた。
遺されたものは何もなく、それ故に墓標の下に埋まるものはない。
墓標すら、己が角を見立てた紛い物。
古き知人には「人間の真似事」と嗤われ。
けれども、代わりに手向けの花を譲られた。
そんな己が未練と知人の優しさで作り上げた光景に、人である目の前の彼は何を思うのか。
言葉なく墓標に見入る彼を思い、静かに目を伏せた。
「…いや」
微かに呟かれる言葉。
「嫌、です。喪いたくない。独りにはしたくない」
空いた距離を詰めるよう腕を引かれた。
伏せていた目を上げ彼を見れば、強い瞳に射竦められる。
「ここでしか生きられないのなら、ここで生きる。人として生きられないのなら、貴女と同じ鬼になる。だから、どうか」
かつて、彼と共に現世で生きると決め、角を手折った己のように。
後戻りの出来ない覚悟を携えて、請われる。
「どうか、お願いします。もう一度だけ、僕に花曇と赤ちゃんを守らせてください」
どこまでも真っ直ぐな願いは、幼子だったあの頃から何一つ変わらない。
変わったのは、年月と共に成長した身体と、低くなった柔らかい声。
そして、幾分か変化するようになった彼の表情。
泣きながら、燃える子に手を伸ばすその姿を思い出す。
子を喪い泣いたのは、己だけでなく。
これ以上喪う事を恐れたのは、お互い同じだった。
なれば、彼の願いに応える言葉は決まっている。
「ーーー誉」
それは、呼ぶ事のなかった彼の名。
「!おにさま、今」
驚き惚ける彼の、力を失った腕から抜け出す。
そのまま背を向けて歩き出せば、遅れて駆け寄る足音が聞こえた。
「もう一回!ねえ、花曇」
「さあ?何の事だか」
「いじわるしないでっ」
どこか泣きそうな彼の声音を聞きながら。
今は何もいない腹に触れ、この先のいつかが平穏である事をただ祈っていた。
20240502 『カラフル』
現世と常世の狭間。
そこには常世へと繋がる泉があるという。
泉の周囲には四季折々の花が咲き乱れ、木々には種々の果実が実る。その光景は桃源郷を思わせる程のものであるのだとか。
そして、その泉には美しい雌雄の龍が棲んでおり、雌の龍は短くも激しい雨を。
雄の龍は長く静かな雨を降らせると言われている。
そんなお伽話を、どれだけの人が信じているのだろう。
「かえりたい」
抱き抱えられ、子供にするかのように髪を撫でられながら思わず口にした言葉に、背後にいる彼女が呆れたように溜息を吐いた。
「今更現世に帰った所で、もう誰もいないわよ」
何を今更、と。
心底呆れた様子の彼女の声音に、そういう意味ではないと胸中で呟く。
かえりたい。彼女達に出会う前の時間まで。
彼女達に出会い“隠されて”から、もうどれくらいの年月が過ぎたのか。
今更帰ったところで、待つ人は誰もいないことは痛いくらいに理解している。
今は変えられない。変わらない。
それならいっそ、彼女達に出会う前であるならば。
あの時に、
『なかないで。これかしてあげるから、ね?』
雨に濡れながら泣きじゃくる彼女に声をかけ、傘を差し出さなければ。
人としての生を謳歌できたのか。
それともやはり、今と何も変わらないのか。
結局、今更どうしようもない事を考えては、意味のないその思考に落ち込んだ。
「翠雨」
「…なに?」
目の前の彼に呼ばれ、不貞腐れたように小さくこたえる。
宥めるように髪を撫でるその手に、子供扱いされている気がしてさらに気分が降下した。
「諦めろ。最初に手を差し伸べたのは翠雨の方だ。今更なかった事には出来ないし、させる気もない」
「……わかってる」
「分かってない。時雨の約束に応じたのも、俺の与えたモノを食べたのも。全部、翠雨の意思だ」
「………」
今更なのは、重々承知。
彼女の再会を願う約束に応じて縁を結び。
彼がくれた団子を食べて黄泉竈食ひ〈よもつへぐい〉をした。
差し出された2人の手を取り、新しい名前を受け入れもした。
いくつもの選択肢を間違えた結果が、今なのだから。
「まったく、一体何が不満なのよ?老いや病とは無縁だし、飢える事だってない。それって人間にとっての理想じゃないの?」
彼女の声音に苛立ちが混じり始める。
望まれていると思ってした事が一向に望まれず、反抗されているのだから当然ではある。
だからといって、おとなしく全てを受け入れる事はまだ怖かった。
「生殖行動だって、五月雨がーーー」
「時雨」
「なによ」
目の前の温もりが離れ、代わりに背後から別の温もりを感じ、所有権が彼から彼女へと移った事に気づく。
途端に機嫌を直したらしい彼女に抱きすくめられ、先程まで彼がしていたように髪を撫でられた。
「翠雨は今、拗ねているんだろう。置いていってしまう事が多いから」
彼の言葉に、背後で笑う気配がする。
「そういえば、翠雨は昔から寂しがりだったわね。だったら早く素直になってしまえばいいのに」
背後から顎を掬われそのまま上を向かされれば、機嫌よく笑う彼女の唇が額に触れた。
「意地を張っていないで、素直にわたし達の名前を呼びなさい。そうしたら常世にも連れて行けるわよ」
「そんなところ、別に行きたくもないし」
「生意気」
顎を掬っていた彼女の手が、今度は鼻に触れそのまま摘まれる。
軽い息苦しさと痛みに反抗していると、不意に聞こえたのは何かを思案する彼の声。
「強がるのも悪くはないけれど、そうだな」
彼女の手が離れ、そして、
「“翠雨”」
強い意志を持って、彼が、名を呼んだ。
彼らから与えられた、彼らの“所有物”である証。
望めば全てを奪える、不可視の鎖。
その鎖を引かれて彼女から離れると、静かに彼の前に膝をついた。
「待つのは嫌いじゃない。でも、限度はある。覚えておいて」
瞳を覗き込まれながら囁かれる警告。
それに頷いて応えると、彼は静かに笑って鎖を緩めてくれる。
そしてそのまま抱き上げられ、屋敷に向かって歩き出した。
気づけば、空はすでに茜色に染まっている。
もう帰る時間なのかと、今だにぼんやりとした意識の端でそんな事を思った。
「翠雨」
名を呼ばれて視線をやると、いつの間にか隣には彼女の姿。
少し困ったように笑って、耳打ちをされた。
「五月雨はね、普段は静かだけど粘着質だし、怒らせると面倒なのよ。だから、さっさと覚悟を決めて、その魂にわたし達を刻みつけなさい」
命令口調でありながらも、決して強制ではない言葉。
感情の起伏が激しい彼女なりの優しさなのだろう。
だから、その優しさに甘え、今だけは聞こえないふりをして目を閉じる。
最後の選択肢は、もう少し選ばないままでいたかった。
現世と常世の狭間。
常世へと繋がる泉に、美しい雌雄の龍が棲むという。
龍に見初められた者は、楽園を模した檻に誘われ。
寵愛を受ける代償に、人としての名を奪われる。
もしも龍が飽く時が来れば、その魂だけは解放されるやもしれぬ。
しかし、
雌雄の龍の名を一度でも口にすれば。
その魂は二度と解放される事なく、永久に龍のものとなるであろう。
それは、昔から伝わる雌雄の龍の言い伝え。
1人の少女の為に、常世から狭間へと棲家を移し。
少女の好きな花を集めて楽園という名の箱庭を作り上げた。
優しくて恐ろしい、雨の神様のお伽話。
20240501 『楽園』
空を飛びたいと願っていた。
行きたい場所に自由に行ける、そんな翼が欲しかった。
風に流されるまま、あてもなく彷徨うのでも構わない。
暗い色しか知らないあの空の、別の色を知りたかった。
遠い昔、母の先祖に妖がいたらしい。
妖と人から生まれた子の多くは、太陽の光に耐えきれず生まれてすぐに死んでしまったという。
今では妖の血の影響はほとんど弱まっているが、ごく稀にその血を濃く受け継いだ『先祖帰り』の子供が生まれてしまうのだと。
青空の下へ出る事が出来ずに泣く幼い私に、祖母はどこか悲しい瞳をして話してくれた。
空を飛びたいと思っていた。
風に乗ってどこまでも高く飛び、憧れた青空に解けてしまいたいと、そう思っていた。
思っていたはずだった。
「また変な事考えてる」
「考えてない」
「嘘つき」
隣に座る彼が、困ったように笑う気配がする。
それにあえて気付かないふりをして、流れる星々の輝きを声もなく見つめていた。
彼は知らない。
画面越しでしか知らない空の青に、ずっと焦がれている事を。
取り残される独りの時間に、静寂に怯えて、終わりを願っていた事を。
あの日。あの祭りの夜に、
『花火が見たいのか?なら、こっち』
そう言って躊躇いもなく彼が差し出したその手に、泣くのを必死で耐えていた事を。
きっと何一つ彼は知らない。
それでも彼は、ずっと欲しくてたまらなかった言葉や温もりを与えてくれるのだろう。
「ありがとう」
「気に入った?なら、また連れてくる」
「…約束?」
「ん、約束」
繋いだままの手で、器用に小指を絡めて約束する。
何気のない約束にすら、泣きたいくらいに幸せを感じでいる事を、彼はいつか知るのだろうか。
ずっと、空を飛びたかった。
けれど、
この繋いだ手がいつか離れるその時までは、地に足をつけたまま、彼のそばでその温もりを噛みしめていたかった。
20240430 『風に乗って』