sairo

Open App

現世と常世の狭間。
そこには常世へと繋がる泉があるという。
泉の周囲には四季折々の花が咲き乱れ、木々には種々の果実が実る。その光景は桃源郷を思わせる程のものであるのだとか。
そして、その泉には美しい雌雄の龍が棲んでおり、雌の龍は短くも激しい雨を。
雄の龍は長く静かな雨を降らせると言われている。

そんなお伽話を、どれだけの人が信じているのだろう。



「かえりたい」

抱き抱えられ、子供にするかのように髪を撫でられながら思わず口にした言葉に、背後にいる彼女が呆れたように溜息を吐いた。

「今更現世に帰った所で、もう誰もいないわよ」

何を今更、と。
心底呆れた様子の彼女の声音に、そういう意味ではないと胸中で呟く。

かえりたい。彼女達に出会う前の時間まで。
彼女達に出会い“隠されて”から、もうどれくらいの年月が過ぎたのか。
今更帰ったところで、待つ人は誰もいないことは痛いくらいに理解している。

今は変えられない。変わらない。
それならいっそ、彼女達に出会う前であるならば。

あの時に、

『なかないで。これかしてあげるから、ね?』

雨に濡れながら泣きじゃくる彼女に声をかけ、傘を差し出さなければ。

人としての生を謳歌できたのか。
それともやはり、今と何も変わらないのか。


結局、今更どうしようもない事を考えては、意味のないその思考に落ち込んだ。

「翠雨」
「…なに?」

目の前の彼に呼ばれ、不貞腐れたように小さくこたえる。
宥めるように髪を撫でるその手に、子供扱いされている気がしてさらに気分が降下した。

「諦めろ。最初に手を差し伸べたのは翠雨の方だ。今更なかった事には出来ないし、させる気もない」
「……わかってる」
「分かってない。時雨の約束に応じたのも、俺の与えたモノを食べたのも。全部、翠雨の意思だ」
「………」

今更なのは、重々承知。
彼女の再会を願う約束に応じて縁を結び。
彼がくれた団子を食べて黄泉竈食ひ〈よもつへぐい〉をした。
差し出された2人の手を取り、新しい名前を受け入れもした。

いくつもの選択肢を間違えた結果が、今なのだから。

「まったく、一体何が不満なのよ?老いや病とは無縁だし、飢える事だってない。それって人間にとっての理想じゃないの?」

彼女の声音に苛立ちが混じり始める。
望まれていると思ってした事が一向に望まれず、反抗されているのだから当然ではある。
だからといって、おとなしく全てを受け入れる事はまだ怖かった。

「生殖行動だって、五月雨がーーー」
「時雨」
「なによ」

目の前の温もりが離れ、代わりに背後から別の温もりを感じ、所有権が彼から彼女へと移った事に気づく。
途端に機嫌を直したらしい彼女に抱きすくめられ、先程まで彼がしていたように髪を撫でられた。

「翠雨は今、拗ねているんだろう。置いていってしまう事が多いから」

彼の言葉に、背後で笑う気配がする。

「そういえば、翠雨は昔から寂しがりだったわね。だったら早く素直になってしまえばいいのに」

背後から顎を掬われそのまま上を向かされれば、機嫌よく笑う彼女の唇が額に触れた。

「意地を張っていないで、素直にわたし達の名前を呼びなさい。そうしたら常世にも連れて行けるわよ」
「そんなところ、別に行きたくもないし」
「生意気」

顎を掬っていた彼女の手が、今度は鼻に触れそのまま摘まれる。
軽い息苦しさと痛みに反抗していると、不意に聞こえたのは何かを思案する彼の声。

「強がるのも悪くはないけれど、そうだな」

彼女の手が離れ、そして、

「“翠雨”」

強い意志を持って、彼が、名を呼んだ。
彼らから与えられた、彼らの“所有物”である証。
望めば全てを奪える、不可視の鎖。

その鎖を引かれて彼女から離れると、静かに彼の前に膝をついた。

「待つのは嫌いじゃない。でも、限度はある。覚えておいて」

瞳を覗き込まれながら囁かれる警告。
それに頷いて応えると、彼は静かに笑って鎖を緩めてくれる。
そしてそのまま抱き上げられ、屋敷に向かって歩き出した。

気づけば、空はすでに茜色に染まっている。
もう帰る時間なのかと、今だにぼんやりとした意識の端でそんな事を思った。

「翠雨」

名を呼ばれて視線をやると、いつの間にか隣には彼女の姿。
少し困ったように笑って、耳打ちをされた。

「五月雨はね、普段は静かだけど粘着質だし、怒らせると面倒なのよ。だから、さっさと覚悟を決めて、その魂にわたし達を刻みつけなさい」

命令口調でありながらも、決して強制ではない言葉。
感情の起伏が激しい彼女なりの優しさなのだろう。
だから、その優しさに甘え、今だけは聞こえないふりをして目を閉じる。

最後の選択肢は、もう少し選ばないままでいたかった。



現世と常世の狭間。
常世へと繋がる泉に、美しい雌雄の龍が棲むという。
龍に見初められた者は、楽園を模した檻に誘われ。
寵愛を受ける代償に、人としての名を奪われる。
もしも龍が飽く時が来れば、その魂だけは解放されるやもしれぬ。
しかし、
雌雄の龍の名を一度でも口にすれば。
その魂は二度と解放される事なく、永久に龍のものとなるであろう。


それは、昔から伝わる雌雄の龍の言い伝え。

1人の少女の為に、常世から狭間へと棲家を移し。
少女の好きな花を集めて楽園という名の箱庭を作り上げた。

優しくて恐ろしい、雨の神様のお伽話。




               20240501 『楽園』

5/1/2024, 12:54:53 PM