大きな手が、恐々と触れてくる。
彼は私の肩を触れて腰を撫で、温かい腕に閉じ込める。けれど泡を潰さぬように遠慮がちに囲むのだ。
(もどかしい…)
と、思うのも仕方ないではないか。
この人は今まで誰とも触れ合わなかったのかと心配になるほどに。
裸の肌がさらりとなじんで髪が落ちてくる。なんて静かな世界なんだろう。
背中に手を回すと大きな身体がびくりと揺れた。
「あったかいな、お前」
生きていますからね。そう言うと顔を背けて喉を嚥下するような音が聞こえた。
先に帰っていた彼を待たせて風呂から戻ると…
ほんの少しのローストビーフとサラダと、野菜いっぱいの熱々のスープ。安物だけど意外に美味しいワインが机に並んでいた。
「えっ…ありがとう。今日なにかの記念日だっけ」
いつものように自分の席に座ると、こっちおいでと手招きをされる。
大きなちょっと荒れた手に促されるまま彼の膝に座った。
「いい匂い」
くんと首元を嗅がれてくすぐったい。
やだ、ちょっと…と言ってもびくともしない。あったかいなと手のひらがあちこちを撫で回してくる。
ああ、これ罠だったのかな。
風の音が少し前と変わったことに気付いた。かたかたと窓を揺らす。
少し冷たい頬を寄せた。
ご馳走が遠のいていく。久しぶりの泊まりで、かく言う私もなんの抵抗もできなくなっていた。
帰りたくない。
ミルキーブルーの綺麗な空と岸壁の荒々しさのミスマッチが、私を夢か現実の狭間に押し込める。
「誰も知らない南の海に行きたい」
ぼやいて二時間で、今日の予定も明日の予定も隅にやり旅に出た。
太陽の反射が眩しくて海は穏やかだけど風は冷たくて。
午後の潮騒だけでとても静かだった。
この時間がずっと続けばいいのに。
やっと涙がでて。
このまま溶けてしまいたいと思ったんだ。
失敗したくない。特に好いた女の前でなら尚更。
悪友にあれこれ入れ知恵され、親友にも世話を焼かれ
それでも踏み出せず。
彼女は野菊だ。踏み荒らしてはならない。手を伸ばしても届かないこの関係ままでいいとさえ思った。
ある晩に彼女が囁く。
「貴方の本当のお嫁さんにして下さい」
茶を吹いた。
「は、はぁ!?意味わかってんのかよ?!」
頬を染めてこくんと頷く彼女が煩わしい。
言わせてしまった。
「やめろ、そういうこと言うのやめろよ…」
燃え滾るような欲が抑えられなくなる。情けない口許を隠す。
耐えてきた。蹂躙してしまう。手折ってしまう。
それさえも言い訳だ。ちくしょう格好悪いな。
ただ私は彼とたくさん話をしたかったのだ。
黙ったままで本当に大事なことは何一つ言ってくれない。
私もそうなのかもしれない。
「そりゃ、あれだ…」
「あれじゃ分かりませんもん」
頭をかいて、目線をウロウロさせて、なぁなぁで終わらそうとしないで。
彼のひんやりした頬を両手で触れる。
「きっと私達は、分かってくれているはずだからと闇雲に信じて、大事な言葉を避けていたんですね」
一番大切な人にこそ、思いを違えてはいけないはずなのに。