どこかで鳥の鳴き声がした。
娘は反射的に上半身を起こし、身体のあちこちが痛んだ。部屋は温かく、サイドテーブルには飲みかけの飲料が置いてあった。
嫌な夢を見た。
手が震え、握り込むことで抑える。
こんなときでも空腹を感じた。
乱れ落ちている衣服を拾い、着られるか確かめながら身につける。
自分だけが彼女の力を知っていることは、優越に浸れた。
惨たらしく殺された家族の身代わりをさせたのは事実だ。
数年前…と言っても昨日のことのように思われるが、諸国で起こり始めた反乱の火種が、何も関係のない自分の村さえも、交通の要所であるというだけで焼き打ちにされた。
外見でそしりをうけた自分たちは、彼女…スズカは妹であると身代わりを引き受ける。
皮肉なものだ。自分が仲間や家族を殺したようなもの。
本当の妹が亡くなったのは言っていない。ただ命が天に消える時だけは安らかで、それだけが救いだった。
「…ここ」
掠れた声がした。もう陽は高い。
「スズカ」
取り乱すかと思ったのだが、彼女は腫れ上がったまぶたのままあちこちを見回して、状況を悟ったらしい。
「ジョル…」
とまで呟いて、兄さん。と繋いだ。
柔らかい温かな手を取り、もう大丈夫だと。自分の声も掠れていた。彼女の受けた屈辱と痛みを思うと声が出ない。
色素の薄い髪が動く。
「ごめん、兄さん」
「いいや」
何を謝っているのか分からずに。ああ、進行が遅れたからか。
「前線は。増援は…出発しましたか」
「ああ。俺たちは午後に出る」
本来なら兄妹で抱擁を交わすところだろう。他の人の目もある。唇がゆがんで、身じろいだ瞬間、自分は包帯だらけの彼女の上半身をそっと寄せた。
ひどく臭いがして、怪我をもう少し治したら真っ先に風呂に入れてやりたい。
石畳に靴音が響き渡る。
軍服と寒冷地対応のマントを身に着けた小隊長に昇格したミリルだった。
年の頃は25.長身で、薄い髪色は肩より下まである。細身で甲冑よりも貴族方の上質なタイのほうがずっと似合いそうだ。
「ジョルの妹は!」
尋ねられて、医務室から出たばかりの治療員は口ごもった。
「レイシー」
再度尋ねられて、ぺこりと治療員のレイシーは頭を下げた。
こちらもまだ若い。戦時に駆り出されるぐらいだ、高位の者はそもそも温かい屋敷。中間層も街での院の維持。いつも戦場に呼ばれるのは若い命だ。
女性は、黒髪とフードの中にからやっと尋ねられた事を答える。
「彼女はまだ目を覚ましません、明け方からは熱が出て…。懸命に治療しましたが…その、裂傷や感染症がひどくて」
対する青年はよく分からない顔をしている。最後女性が口ごもった理由が分からなかったのだ。
何度かほかにも見舞いに来るものがいたが、みんな追い返しているが上司となるとまた難しい…。 ジョルの妹の、命だけは助かった。命だけは。
救いなのか、そこに妹の兄が次いでやってきた。
「公子!会議の時間が」
「分かっている。だがお前の妹が」
彼ら2人の執着は深夜に運ばれた今高熱で寝込んでいる少女。ジョルの妹のこと。
「お兄様なら…少しなら」
医務室の女性レイシーは、やっと絞り出すようにして処置室のドアを開いた。
男達は目を見合わせて、「行けよ」「分かりました…」という会話をしている。
レイシーは入室する兄の方をじっと見る。
「深夜に申し訳なかった、助かった。妹を診てくれてありがとう」
「いえ…」
似てない兄妹だなと思ったのだ。がっしりした肩と、背中まで張り詰めた筋肉。弓兵らしい腕のしなやかさが目立つ。衣服は昨夜のままだ。
「優しくお声がけしてあげてください…」
「あ、あ」
「ひどい状態でした。傷はできるだけ塞ぎましたが…」
ジョルもレイシーも、治療室の前から入れず、けれどなかなか下がれないでいる公子にはもはや構えない。
「だ、大丈夫、か…スズカ」
ひとこと、ふたこと。彼は横たわる小さな妹に声をかける。投げ出されたままの彼女の手を触る。裂傷だらけだった腕はもう治っている。
指だけがぴくりと動くがそれだけ。体温は高い。
地下に降りると、かび臭さと湿気が一気に充満した。折りたたみ式の弓が岩や梯子に引っかかるので脱ぎ捨てるように手放す。
冷たくて暗い洞穴。敷いた布も薄く、人間が住まうような場所じゃない。まるで獣の巣だ。
「おい、ここに居るのか」
声は闇に吸い込まれ、跳ね返ることはない。広く抜ける洞窟であるのには違いないのに。
だいぶ経ってから彼の耳に布擦れの音が届いた。彼は生来目がいい。動くものを見つけるのは得意だった。
「おい!」
意外にも近くに居た。彼女を抱き上げるとどろりとした液体が手につく。
いったい何日間…!?
抱き上げた冷たい体がとつぜんこわばった。青年は彼女が生きていることに安堵する。
「に、兄さん…?」
娘の声は小さく掠れている。ランプの明かりをつけて周りを見ると、周囲はひどい状態だった。奥で動かないものもいる。人とは思えなかったが脳が勝手に理解していく。
「お前が生きててよかった」
「ん…」
娘の服は破れ、ほぼ裸に近い状態だった。下半身からの血がおびただしく、体のあちこちの痣は腫れ上がり、場所によっては青く変色している。それは尋常じゃない乱暴の後だと気付いた。青年の背中には冷たい汗が落ちていく。
娘の声がした。
「みんな、無事に、逃げた?」
「ああ!みんな元気だ」
「よかった…」
咄嗟についた嘘。もう動かない仲間たち。
荷物を置いて、ランプだけ携帯し軽い体を抱き上げた。来た道を戻る。妹は生きていた。ただ、どうしょうもない後悔が追いかけてくる。もう取り返しがつかない…。
君はたぶん忘れちゃうんだろうな。
バスに間に合わなくて、今日は幼稚園まで子供をお迎えに。
肌寒くなってきた午後の光の中、幼稚園から帰る道。自転車の後ろに乗せた次男坊は今日もずっしりと重たかった。
突然始まった電車ごっこは本格的で、薬局、お店、車屋さんを次々通過していく。
「お降りのかたは、おあしもとにごちゅういください」
難しい言葉もすらすらと出てくる。
後少しでお家だね。少しの坂道も息が切れる。
「しゅうてん、しゅうてん〜」
大きくなったね。
「ご乗車ありがとうございました」
君を後ろに乗せるのが今日こそ最後なのかもしれないと思いながら。