酒場で男たちに絡まれる少女に声をかけてから、なんだか最近身の回りがおかしいんだ。
彼女がいつもそばにいる。やたら声を掛けてくるし、気付くと肩が触れそうな程の距離にまで近付かれている。落ち着かない。
彼女は幼さの残る顔をにこりとさせ、
「ねぇねぇ!今日はあったかいよねー!」
と、特に中身のない会話を投げてくる。
「そ、そうかな。もう少し君は服を着たほうがいいよ…見てて寒い」
「そぉ?」
1年の半分以上は雪に閉ざされるこの地は、まだ春の兆しすらない。
今日は無防備に男の部屋にまで付いてきて、流石に限界だった。
「あのさぁ!」
「なぁに?」
僕が勢いを付けて怒鳴ったのにのんびりと返してくる。毎回この調子だ。明るいというか能天気というか…。
「ほんと、やめたほうがいい、よく知らない男に…馴れ馴れしくしないでくれ」
「よく知らなくはないよ?仲良しじゃないの私たち」
彼女は小首を傾げて笑う。それが普段どうしたら自分が一番可愛く見えるか計算されたものであるのを僕は知らない。
まぁ可愛かった。上気した頬に緩く編んだ淡い髪。まだ子供っぽいけど…白いうなじや鎖骨が見える胸元。太ももまでちらちら見える。急に頭を落とす。
「私のこと、嫌い?」
「なんでそうなるの!?」
「じゃあ好き?」
喉の奥で空気がごくりと降りていく。
もう、意味がわからない…。僕は、親友が通りかかったら助けを求めてしまいそうな程うろたえていた。
小さな音がして、それが鈴の音だと分かったのはやっと寝付けた深夜だった。
さっきからずっとうるさい。
「私を望んでいたくせに」
白いカーテン越しに見た夜空は珍しく月が浮き、ぞっとするような青さだった。
「望んで…おれが?」
「そう」
夢うつつに声の主を探すと、部屋の角に居た。
声からして少年のようであったけど、重たげに布を幾重にも身体に巻いて華奢な体躯が見て取れた。ざんばらの髪に身長に見合わない長い棒のようなものを携えている。
「なんで今更」
「夢で呼んでいただろう。助けろと」
自分がけだるく起き上がると、娘は鈴を一度だけ鳴らしただけですぐに眼の前に居た。
もう終わりだ。自分など。
だが娘の黒々とした瞳には危険な光が浮かんでいる。笑っているのだ。
「連れて行ってやろう。今すぐにだ」
死神は小さな掌を見せた。
優しい人ではなかった。
非情に生きる彼は、小さな私たちについには心の内を見せることはなかったのだ。
1人では生きられぬ子供には育てまいと突き放すが、時には雨を代わりに打たれ。
痩せた身体は小さく見えたがとても強い男だった。
風が吹けば彼が笑っている声のようで、雨が降れば彼の頼もしい背中を思い出す。
私は今日、新しい道を行く。彼と同じ仕事だ。
空を見れば手が届くような夏雲だった。
男女の仲とは違うのだ。
またナナはサシェゼの後ろを付いてきた。
逃げることも「貴方なんかに」と気高く振る舞うことも出来たらだろうに。なんて愚かなのか。
中肉中背の男だった。
燃えるような赤毛の隙間から覗く獰猛さを含む金の瞳は、いつも嘲るようにナナを見る。弱みを脅して、実行にまで移せる男だ。
(また殺される)
ついには現実のものとなったのも記憶に新しい。
奴の強烈な存在感にベッドの上で身が竦んだ。
扉が開く。あの男が部屋に戻ってきた。途端に空気が凍りつく。
(まるでヘビに睨まれたカエルだ…)
「なんだお前あの戦い方は」
何か飲み物を次いでいる音がする。アルコールなのかは分からない。が、機嫌はあまり良くなさそうだ。
「まだ分かっていないみたいだな。情けない戦い方しやがって。また俺に縋り付いてくるくせに」
サシェゼはグラスを音を立てて置いた。
喉仏のある首元の服を緩め、湯上がりのような素肌が見える。そのとたんナナは本能でにげだした。
だがそれよりもサシェゼのほうが早い。あっという間に伸し掛かられベッドに引き戻された。
「や…」
「へっ…いい顔」
男の掌が衣服を無理に剥がしにかかる。
「ま、待って」
「口答えできるのか?」
顎を囚われ、金の瞳が睨みつけてくる。
(ああ…カエルって)
こんな気持ちで最後を迎えるの。
大きな掌が身体を這い回る。
言いようのない虚しさと無力感に襲われながらナナはただ痛みに歯を食いしばる。キスすらもない、当たり前だ。サシェゼにも恋人がいる。これは男女のものではない。捕食だ。
気付いていたのは自分だけだった。
咄嗟にという言葉を自分が過去から数えて何度使ったか分からないが、少なくとも考えるより先に体が動いたのだ。
巨大な蜘蛛の針が地中から伸びて彼女を突き刺す瞬間、目の前の獣兵から意識を変えた。刀を投げ落とし、彼女の名前を呼んで体当たりをする。
耐え難い痛みが脇腹を貫く。
アドレナリンが出ているうちは痛覚は鈍ると聞いていたがそんなことはない。かなり痛い。
「和樹!」
焦った彼女の声。自分は地面に突いていた手を握りしめる。
熱いというより冷たく神経をえぐる痛みだ。
「ふっく…」
痛みを逃すように息を漏らすたび身体から何かが急速に失われていく。
「ばか」
抱きしめる形になった彼女の薄い腹が震えていた。
蜘蛛は他の白兵が潰していた。横目で見て安心したがまだ油断はできない。
今度は目標を失った獣兵が血だらけでこっちに向かってくるのだ。相当キてる。あれだけ痛めつければ当然か。
「止め刺せよ」
「すいませ…」
もうすでに彼女は冷静だ。自分に押し潰されていた身体を抜き出ると、すぐさま低く飛びながらに2番手の獣兵に襲いかかり仕留めている。どす黒い血が上がる。
回復術師が来てくれたのが音で分かる。顔を向けることさえ出来ないが。彼女は落ちた自分など目もくれず次から次へと善戦していく。
判断力は流石です。いいなぁ。強い。あの人の太刀筋に惚れ惚れとする。
「蜘蛛からわざと受ける気でしたね、許しませんよ…」
戻ってきた彼女に呟くと、血のりだらけの険しい顔が一瞬、意外そうに目のまん丸な幼い顔になった。
「許さないか」
「そうですよ…」
「あまり喋るな」
そう言われたらもう黙るしかない。惜しい。彼女はもう戦士の顔に逆戻りだ。色素の薄い髪が顔に張り付き唇がやたら目立つ。