最近は寒いので、ほぼ毎日浴槽に湯を張る。
湯を張った浴槽に入ったとき、身体が冷えていて、温度が熱く感じるため、ゆっくり足から入る。
心臓よりも少し下あたりまで湯に浸かったとき、全身が温まる瞬間が訪れる。
その瞬間、時間がゆっくりと進んでいるような気がする。
自分の身体の半分以上を占めている水分と、身体の外にある水分が、“共鳴“して、自分と世界の境界線が消えかけているような感覚を憶え、しばらくするとまた境界線が引かれ直される。
境界線が引かれ直されたあと、この世界の素晴らしさや厳しさ、喜びや悲しみについて思いを巡らせる。
巡らせた思いの内容は毎日異なるが、浴槽を出るときには毎日必ず同じ終着点に辿り着く。
「嗚呼、なにはともあれ今日もいい湯だった。」
________嗚呼___________________________________。
うれしいときも悲しいときも、どんなときでも、一人でそこにいるだけで、“わたしの魂が自由になるような”不思議な力を感じることができる。その場所がわたしを受け入れてくれている感じがする。
そんな場所が、一人に一つあればいいなあと思う。
実際に、アメリカの先住民ような、大地のなかで生きる人々は、一人ひとり自分だけの“秘密の場所”をもっていたのだという。
自然のなかに、自分のお気に入りの場所を見つけ、できるだけ多く(毎日のように)その場所に通うのだという。
最近、”自分の居場所ってなんだろうと考えることがある。
現在住んでいる家は、これまでの人生のなかで一番長い時間、同じ時を過ごしてしてきたと思う。
しかし、自分で家を選んだわけでもなく、親が選んだ家に私も一緒に住んでいるという感覚であるため、”自分の居場所“なのかと考えると疑問が残る。
学生、社会人と通して、通う場所はあったが、そこに所属はしていても”自分の居場所“だと心から思える瞬間は少なかった。
わたしは、家族や友人など、だいすきな人と一緒にいる時間がとても大切で、こうやって”人との関わり“をもっているときに、そのコミュニティが”自分の居場所“だと思える。
一方で、”人との関わり“を一分一秒も途切れずに続けるとなると、わたしはそのコミュニティを”自分の居場所“だと思えないだろう。
わたしは実際に、一分一秒ほどでもないが、ほぼ丸一日”人との関わり“を継続したときに、その人との関わり方がわからなくなり、”自分の居場所“を見失いそうになったことが何度もある。
先人たちの意図に対してずれる部分があるかもしれないが、わたしは”人との関わり“を持ちつつ、自分一人の時間も大切にすることで、”自分の居場所“を常に持ち続けることができるのではないかと考えた。
だから、わたしも先人に倣い、自分だけの“秘密の場所”をみつけたいと思い立った。
わたしは住居の周辺の自然のなかに“秘密の場所”を探してみたけど、なかなかここだという場所は思い浮かばなかった。そもそもこの現代は、人工的につくられたものが徐々に溢れていっているため、その分自然が少なく、縁のない場所になりつつあるから、見つからなくて当たり前なのかもしれない。
自然がみつからない、そういうときには、人工的につくられたもののなかから、なんとなく落ち着けるところや、楽しい思い出があるところを見つけるといいかもしれないと気づいた。
わたしが思い浮かんだのは、図書館のこの一角のスペースや、近所にある川にかかった小さな橋などだ。
その場所は、自分にとって不思議なオーラを放っているかのような、神聖な場所のような、そして自分を受け入れてくれるような、そんな場所だ。
この場所がだいすきだなって思いながら、深呼吸をする。わたしはまた社会に揉まれるけど、あの場所を思い出して少し安心できる。だいすきな人との時間辛い時間ではなく、大切な時間にできる。
わたしにとって、”秘密の場所“は、人間社会のなかで生きるわたしの”こころ“を、凪のような穏やかな気持ちにして、人間社会に戻してくれるような、こころの休息の場所だと思う。
その場所に一人で行ってみた。そこにいるだけで、わたしのこころが、そして魂が自由になった気がした。
______秘密の場所_______________________________。
夜は、度々“悪い”意味を表現する。
『明けない夜はない』がその一つだ。わたしは、この言葉に希望を感じるけれど、自分のなかでちょっと引っかかるものがあった。
それは、わたしは夜が好きだということだ。真っ暗な空には、星がチカチカと輝いている。この、眩しさで眼がくらまない程よい小さな輝きが、心地よい。
この心地よさからなのか、理由のはっきりしない涙が、眼から溢れ出そうになる。この涙が、明日の希望を連れてきてくれるものだとそのときは知らずに。
この星の光は、夜が明けると、見えなくなってしまう。確かにそこにあるのに。
わたしは、星の光が“小さな幸せ”を表している気がする。夜に、暗い闇のなかでしか見れない、体験できない、小さな幸せはきっとある。
じんわりと身体に幸せが染みるこの日この瞬間、見えないけれど幸せは確かにここにある。
”幸せのカタチ“は一つじゃないから。クッキーを型抜きするときみたいに、幸せも既製品の型にはめようとしなくてもいい。“幸せのカタチ”は、人の数だけ想いの数だけあって、全く同じものはなに一つとしてないのだから。
今は闇のなかでも、好きな唄を歌いながら、気長に夜が明けるのを待とう。なんならずっと夜でもいいのかもしれない。夜には夜の幸せがあるのだから。
____ラララ_____________________________________。
風は目に見えないけれど、確かにそこにある。
そして、風は目では見えない姿、形を変えながら存在し続ける。
風を受けるとき、それは”生“を感じる瞬間だ。
目には見えないものを、わたしは自分の”身体“を通して感じている。”身体“が、風を受けて、”わたしは生きている“と教えてくれる。
風にもいいものとあまり好ましくないものがある。社会にもまれて生きていると、自分に強風が迫ってくることもある。その強風を受けて、目的地へ向かうのを断念することもあるかもしれない。
新たな目的地をみつけるけれど、暗い森のなかで迷子になって、森を抜け出すことができない。だから、遥か遠くにある目的地をみつめながら、暗い森の中で1人静かに泣いて、涙が溢れないように、満天の星空を眺める。永遠に続く星空は、綺麗だけどなんだか虚しい気持ちになる。
こんなときでも、優しく頬を撫でるように通り過ぎていく風は、なんでこんなに心地よいのだろう。
きっと、わたしが元気なときも、気持ちが少し落ち込んでいるときのどちらも、この風を気持ち良いと思うだろう。
だけど、”今“しかわからない心地よさはあると思う。
毎日、毎秒毎に、わたしが生きている世界で、世界を五感を通して感じる。
わたしは、瞬間瞬間で変わり続けるし、同じように世界も変わり続ける。
今の、このわたしが、身体の感覚でこの世界を捉えるとき、きっと最初で最後の感覚を得る。風だけではなくて、全ての体験は最初で最後なんだろうと思う。
風は、きっと”今この瞬間のわたしの喜びも苦しみも全部含めた感情”を運んできてくれる。
今も風は絶えず吹き続けている。
_________風が運ぶもの__________________________。
毎日、わたしはわたしに問いかける。
「わたしは、どこへ向かっているの」と。
わたしは今、半年後の、一年後の“わたし”を想像できない。笑っている?泣いている?それとも両方?
未来がわからないと不安になる。一メートル先までしか見えない、霧のかかった森を進むみたいな感覚だ。霧がいつまで続くかわからないし、霧を抜けた先がどんな場所なのかもわからない。
けれど、たどり着いた街が、大気汚染が進んでいて、自分にとって呼吸がしづらい場所だったら、呼吸がしやすいように空気清浄機をつないでもらうなど、お願いすることができる。また、それでも辛かったら、次の街へ移動することもできる。たどり着いた場所に永住しなければいけないわけでもないのだから。
半年後、一年後に、たどり着いた場所で笑っていなくても、泣いてばかりでも、いつかわたしが呼吸がしやすい場所へ辿り着いて、苦しんでいるだれかの呼吸がしやすくなるように、空気清浄機のボタンをいっしょに押してあげられるような人になりたい。
どんなに遠回りしても、わたしにとっても、誰かにとっても、息がしやすくて住み続けたくなるような街を探し続けていきたい。
_____question _________________________________。