なんとなく、”約束“は、他人としかできないと思っていた。
これをしない約束、これをする約束、約束にはいろんな種類があるが、そこには「これが起こるのを防ぎたい」、「これをしてほしい」という”想い“がある。
その“想い”は、自分が他人、他人が自分に対して向けるものであって、自分が自分に向けられるわけではないと思っていた。
しかし、最近思うのは、自分が自分に、こうなりたいという“想い”を向けて、自分が自分と約束をすることが、自分を大切にするために重要かもしれないということである。
特に、わたしはこれまで、自分が我慢して解決することであれば、自分の“想い”を押し殺してきた。それは、いい意味でいえば『協調性がある』というけれど、悪い意味でいえば『人の意見に流されやすい』ともいえる。
人の意見に流されると、そのうち自分の意見がなんなのかわからなくなってくる。自分の意見がないと、自分を大切にできない。自分を大切にできないと、他人も大切にできない。
他人のためによかれと思ってやってきたことが、巡り巡って他人に迷惑をかけてしまうことにつながったということを、わたしは身をもって経験した。これは、なんとも残念だし、悔しい。
自分の命は自分のためにあるのだと、そして、自分のことを大切にできて初めて、他人を大切にできるのだと。改めてそう思った。
自分が自分を幸せにすると”約束“しよう。自分なんて価値のない人間だと思って、楽しいことを避けるべきと思ってじっとし続けていたらもったいない。
自分が自分を幸せにするために、身構える必要はない。
自分の好きなお菓子をたべたり、好きな音楽を聴いたり、毎日やっているちょっとしたことでも、自分を幸せにするという目的を意識してやってみる。
そうすると、これまでよりももっと、毎日がきらきらと輝き出すだろう。
_____約束______________________________________。
ひらりと舞い落ちる桜の花びらに、どんな想いを乗せるだろう。
桜の花は、ひとときの間、美しく咲き誇る。そして、桜の花は、花びらとして散っていく。
このひとときは、人間の“生きる時間”と比べると、瞬きをするくらい一瞬なのかもしれない。
ファンタジーの物語に登場するエルフは、不老であり、死ななければこの世が終わるときまで生きることができるという。
エルフと人間の“生きる時間”を比べたときに、人間の”生きる時間“は、人間と桜の花を比較したときの桜のように、一瞬なのかもしれない。
しかし、エルフであっても、生まれてすぐに死んでしまうことがあるとどうだろう。エルフは桜の花よりも“生きる時間”短い場合もあるのかもしれない。
人生百年時代を念頭に、自分も百歳くらいまで生きるだろうから、最期まで幸せに暮らせるように、人生設計や老後について考えることがある。
しかし、あくまで平均寿命が伸びているだけであって、自分が長生きできる保証は一つもない。
どれだけ準備をしていても、その準備が報われる前にこの世から旅立ってしまうかもしれない。
人生設計や老後について考えることは、自分の人生なかで自分の目的を果たすために重要である。しかし、最も重要なのは、”今できることに集中すること”だと思う。
“生きる時間”はいつ電池が切れて止まるかわからない時計のようなもので、実際に今この瞬間も動いてはいるが、あと1分後も絶対に動いているとは言い切れない。
桜の花びらが舞い落ちるとき、間違いなく儚い思いがするが、それ以上に美しいため、目が桜の花びらに釘づけになる。
桜は花を咲かせてから散るまでの期間は、ほんの何日間しかない。満開になる期間は、さらに短い。
この桜の花として“生きる時間“は、人間からみると決して長いとは言えない。しかし、桜は、たとえ短い時間であっても”生きる時間“に集中して”生きている“と思うのだ。
ひらりと舞い落ちる桜の花びらに、”今生きている喜び”を乗せよう。
一つも悔いがないように生きることは難しいし、今の状況を悲観的に捉えることをやめられないときもあるだろう。
しかし、今この瞬間に死んでしまうかもしれないという一見絶望的な状況は、後悔や悲観という感情を通り越して、”今生きている喜び”を噛み締めるために重要な、希望のような状況でもあるのかもしれない。
_____ひらり___________________________________。
夢のなかで何度か訪れた場所がある。
その場所は、現実の世界でみたことも行ったこともない場所で、なんでわたしはその場所を知っているのか、訪れるのかわからない。
そもそも、今その場所を思い出そうとすると、もやがかかってしまい、具体的にその場所がどんなところかを話すことができない。
それなのに、なぜ何度か訪れたといえるのか。「ここに来たことが何度かある」と思った記憶が、夢から覚めたあとにあるからだ。
現実と夢の境界、つまり”ゆめうつつな状態”のときに、だれかがわたしを呼ぶ声がきこえる。
そして、わたしは夢のなかでその人物に問う。あなたはだれか、と。
その人物の姿は一つだけど、いくつかの魂を宿している。
そして、その人物は過去の住人であり、未来の住人でもある。
いつか、現実で生きていくなかで、その人物がだれか、わかるときが必ず来る。そんな根拠のない確信がある。
それまでは、いつかこの世界であなたに会えることを楽しみにして待つことにする。
今日、また夢の世界であなたと出会うかもしれない。
______誰かしら?_______________________________。
春は、別れと出会いの季節であり、何年かに一回は自分の生きる環境ががらりと変わる。そのなかの一回が今年である。
暖かくて気持ちのよい春の風と優しい熱を帯びた太陽の日差しを受けると、根拠のない安心感に包まれるのと同時に、底のない暗闇に落ちたような不安に襲われる。
そんなときに、寒い冬を超えたたくさんの命が目を覚まし、息を吹き返したかのように芽を萌え出していく過程は、わたしに勇気をくれる。
これまでの自分の選択が、そしてこれからの自分の選択が正解か間違えかは、今はわからない。
けれど、学校のテストみたいに、すぐにその答えを出す必要はないし、そもそも、”人生の答え合わせ”において正解か間違いかは大して重要ではない。
一番重要なのは、「心から”わたしにとって”いい人生だった」と思えることだ。
今、自分の選択が正解か間違いかを答え合わせすることにこだわるのではなく、未来に丸投げして、先送りにしておく。
今は、”今、自分ができることに集中する“ことしかできないし、できなくていい。ただ”今この瞬間“だけに全力を注ぐ。
今、自分が置かれている、投げ出したくなるような状況は、いつか”人生の答え合わせ”をしたときに、「人生全体を要約したときに、心から”わたしにとって”いい人生だったという思いを導き出すための、一つの伏線なんだ」そう信じることはわたしの自由だ。
わたしは、半信半疑になりながらでも、命の灯が消えるそのときまで、信じ続けたい。
このことを忘れないように、わたしの”こころの羅針盤”となってくれる言葉がある。
「自分にコントロールできないことは、いっさい考えない。考えても仕方ないことだから。自分にできることだけに集中するだけです。(松井秀喜)」
松井秀喜さんは、語りきれないほど多くの功績を残し続けている方だ。
しかし、わたしがこの言葉を”こころの羅針盤”にする上では、功績は全く関係していない。
功績は”他人からの評価”を受けたものであり、他人から高い評価を受けていても、”自分の評価”も同じくらい高いとは限らないから。
松井秀喜さんは、「残した結果に満足しないこと」とも述べている。
功績は、あくまで”他人からの評価”でしかなくて、”自分の評価”とぴったり一致することはないことを表していると思う。
わたしはこの言葉を胸に刻んで、いつか”人生の答え合わせ”をしたときに、「人生全体を要約したときに、心から”わたしにとって”いい人生だったという思いを導き出すための、一つの伏線なんだ」と思える生き方をしたい。
_______芽吹きのとき____________________________。
わたしはこの”記憶”を思い出す度に、”温もり”を感じずにはいられない。
この”記憶”がいつのことだったかは思い出せない。
この世界に生まれ落ちてから何年か経ったときだったか、それとも自分を構成する細胞が存在すらしていなかったときだったか、はたまた瞬きをする前の一瞬前のときだったか、わからない。
そもそも、この“記憶”に時間という概念は存在しないのかもしれない。
わたしは、暗くて広い空間を漂っていた。わたしの周りには誰もいなくて、そこにあるのはわたしと暗くて広い空間だけだった。
今のわたしがこのような状況に置かれたら、不安でたまらなくなって必死に誰かいないか叫ぶことだろう。
そのときのわたしは、不安な気持ちはなくて、ただ漂っていた。”不安“という概念すら存在していなかった。
漂っていたのが一瞬だったのか、数え切れないくらい永遠のような時間だったのかはわからない。気がついたら光り輝く”それ“がわたしの近くにあった。
”それ“は、暗くて広い空間のなかで、光り輝いていたが、不思議と目がくらむことはなくて、その空間のなかで異質なものとしては存在していなかった。
ずっと前から”それ“は存在していたような気もするし、実際にわたしが気がつかなかっただけでそうなのかもしれない。
気がつくと、わたしは”それ“の近くにいて、磁石の力が働いたみたいに、わたしは”それ”に近づいていった。わたしは”それ“に近づいていくことを受け入れており、自らも近づきたいという思いを持っていた。そして、”それ”に近づいているとき、わたしはずっと”毛布に包まったときの安心感”のような、”温もり”をこれまでより強く感じていた。
今のわたしは、”光“という言葉から、希望を連想するように、”光“が良い意味を持つものだということを理解している。
しかし、そのときは”光“という概念すらなかったため、今のように”光“が良い意味を持つものだということは知らなかったはずである。
今だったら暗くて広い空間にひとりぼっちになったとき、光をみつけると、そこに誰かがいて助けてくれるという希望を見出し、光に向かって必死に走ることだろう。
しかし、このときは、”不安“という概念すらなく、”光“が良い意味を持つものだということは、わたしの知識にはなかった。
では、なぜわたしは”それ“に近づいていくことを受け入れており、自らも近づきたいという思いを持っていたのか。それはわからない。
けれど、今のわたしの”意識の向こう側“に、その”こたえ“があるような気がする。
わたしは、最近、ある瞬間にふと、わたしの意識の窓から、”意識の向こう側“を覗いて、その“こたえ”を垣間見ることができた気がした。
わたしは”それ“に、”自分の感受性を育てるエネルギー“を感じたのではないか、と。
わたしは、自分の高すぎる感受性が、生きづらさを生んでしまっていると思っていた。
しかし、今は、自分の感受性を高めることが、自分のこころを温めて救い、これから出会う”だれか”とともに希望ある未来を切り開ける可能性を感じている。
今のわたしの状況は、わたしの“意識の向こう側”が計画的に引き寄せた状況なのではないか。自分を肯定するための言い訳をしているような気もするが、ほんとうにその計画の最中にわたしがいる気がするのだ。
毎日、ふと今の自分の状況に焦ったり、今の自分を否定したくなるときもあるが、その頻度や時間はだんだん少なく短くなってきた。
“自分の感受性を育てるエネルギー”にわたしは近づくことができた。
”光“が良い意味を持つものだということは、わたしの知識にはなかったときから、自らも近づきたい思いを持っていたほど、“自分の感受性を育てるエネルギー”は、わたしがわたしである前から、魂すら存在していたかわからないときから、近づきたい、ともに生きたいと、思っていた“大切なもの”であると思うのだ。
わたしは、この不安定な時代を生きる上で、この高い感受性は足枷になるのではないかという思いは残っているが、それでも、わたしはこの感受性を暴走しないようにコントロールしつつ、わたしがわたしとして“生きる目的”にしていきたい。
_________あの日の温もり________________________。