友達と女子2人旅をした。
わたしたちは繁華街へきた。
繁華街の街はネオンカラーに染まっていて、田舎に住むわたしはこれが眠らない街かと思った。
私は、この街のネオンカラーの光と、きれいで高級そうな服を着ている人たちが眩しくて、友達の横について歩くことに精一杯だった。
わたしたちは、早朝に家を発ったが、移動に時間がかかったため、目的地のホテルに着いたのは午後5時を過ぎていた。
昼食は電車の中で軽食をとっていたが、地元とは比べ物にならないくらい大きな駅の構内をたくさん歩き、結構お腹が空いていた。
地元にもある某大衆居酒屋で、枝豆や鶏皮串、ポテトサラダなどのおつまみを生ビールで流し込み、お腹はいい感じで満たされた。
折角だから、もう一軒いこうという話になり、友達が見つけてくれた一軒目の店から1番近い、徒歩5分の距離にあるバーに入った。
わたしのバーのイメージは、カウンターの席が1列にズラッと並んでいて、白シャツに黒いベストを着たバーテンダーがいて、重厚な雰囲気があるだった。
少し緊張しながら扉を開けた。
目の前にあったのは、明るく開放的な空間だった。
カウンター席よりもテーブル席の方が多く設置してあり、店員さんはその店のロゴが入ったオリジナルTシャツにジーンズ、頭にはキャップ帽という、ラフなスタイルであった。
わたしが想像していた、テレビドラマのワンシーンのようなバーの雰囲気とは全然違って驚いた。そして、わたしのような、時々中学生と間違えられる成人にとって、とても過ごしやすい空間で安心した。
店員さんの、元気がいい「いらっしゃいませー空いてる席どうぞ!」という声が店内に響いた。
店内は最近よく聴く曲が流れている。お客さんはカウンター席が8席あるなかに5人、その奥の4人掛けのテーブル席が3つあるなかの1つのテーブル席に3人と、静かすぎず騒がしすぎず、人口密度も高すぎず低過ぎずといった感じで、ゆっくりできそうだと感じた。
友達と私は、カウンター席を通り過ぎて、空いているテーブル席へと腰を下ろした。
友達とわたしは、メニューを見て驚いた。夜限定のパフェがあるというではないか。
わたしも友達も甘いものが大好きで、パフェももちろん大好きだった。うれしいサプライズに心が踊った。
友達とわたしは、それぞれ季節のフルーツパフェを頼んだ。また、わたしはカルーアミルク、友達はサングリアを頼んだ。
友達とたわいない近況を話しているうちに、パフェとドリンクがキャップ帽を被った店員さんによって運ばれてきた。
パフェは小さすぎず大きすぎず、わたしにとってちょうどいい大きさだった。店員さんがテキパキかつ丁寧に、友達と私の前に置いた。
店員さんがパフェのなかに入っている季節のフルーツについて説明してくれる。
そのときの季節は秋だったので、フルーツは柿、シャインマスカット、ぶどうだった。説明をしている感じから、この店員さんがパフェを作ったんだろうなと推測した。
店員さんが笑顔で説明した後、ごゆっくりどうぞと言ってカウンターの方へ戻っていった。
友達とわたしは、わずか3秒でパシャリと写真を撮った後、スプーンでパフェの上に乗っているフルーツとクリームを一緒に掬って食べた。
口のなかにしあわせな甘さが広がった。
甘いお酒を間に挟みつつ、パフェをペロリと平らげた。
お酒をちびりちびり飲んで、さっきよりも少しお酒が回った感じになり、テンションが若干上がっていた。
そろそろ出ようかとなり、レジの方へ行き、お会計をお願いした。パフェを運んできてくれた、キャップ帽の店員さんが対応してくれた。
わたしは、お会計のときに、パフェすごくおいしかったです!とキャップ帽の店員さんに伝えた。すると、店員さんは、よかったです!もう少ししたらフルーツ変わるので是非また来てください!と言った。
よくみると、頭に被ったキャップ帽にも、お店のロゴが小さく入っていた。その店員さんが他の帽子を被っているところをみたことがないが、なんとなくこの店員さんには、帽子のなかでもキャップ帽がよく似合う帽子の種類の一つではないかと、ふと思った。
わたしはシラフだったら店員さんと話すことができないが、ほどよくお酒が脳を刺激していたからか、話すことができた。
わたしは、正直にいうと、テレビドラマのワンシーンにあるような、重厚な雰囲気のあるバーにいくことに密かに憧れがあった。俳優さんみたいに、バーでかっこよくお酒を嗜むと、大人の階段を一歩登れるような気がしていた。
しかし、今回このバーに出会い、自分にとって居心地のいい空間で過ごせることの喜びを感じた。このとき扉の先にあったのが、重厚な雰囲気のバーだと、わたしはずっとそわそわして落ち着かなかったかもしれない。
いつか、重厚な雰囲気のバーデビューをするときがくるかもしれないが、それはわたしが無理に背伸びしなくてもできそうと思ったタイミングにしたい。
大人の階段を早く登ろうとして、無理に背伸びしなくても、自分らしく大人を楽しめばいいのだと思った旅だった。
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_________帽子かぶって____________________。
「勇気とは、無鉄砲と臆病のちょうど中間のことである。両極端の悪い例と等しく距離をおくことを最善とする。(アリストテレスより)」
無鉄砲だと、何も怖くない状況であるため、不安な気持ちはない。だた無謀な行動を起こすだけで、その行動からなんの学びにもならない。また、臆病すぎると、勇気のある行動を起こすことが困難になる。
不安を感じつつも、それに打ち勝って行動しようとすることが、“勇気”である。
この“勇気”の初めの一歩を踏み出すことが、“小さな勇気”というのではないだろうか。
“小さな勇気“のある行動をしようと思っても、わたしの緊張は大きくなっていき、次第に不安も膨らんでいって、一歩を踏み出すことを何度もためらってしまう。
この一歩を踏み出すまでが、最もエネルギーを使うときだと思う。
また、この一歩を踏み出すのに、多くの時間と心の準備が必要になる。
しかし、一歩を踏み出した後は、”小さな勇気“のある行動をできたという自信になり、心が落ちつかせた状態で冷静に考えることができる。
そのため、一歩を踏み出したあとは、何度か後ろの方向へ戻ることのあるものの、少しずつ前の方へ進んでいっている。そして、進んでいったところで、これまでとは別の、”小さな勇気“のある行動をできると思う。
わたしはこれから、どんな”小さな勇気”のある行動をして、一歩を踏み出していこうか。
__________________小さな勇気___________________。
一年前の冬、わたしは試験を受けた。
試験会場が自宅から遠かったため、宿に前泊した。
宿に着き、テキストを開くが、そわそわしてあまり集中できない。
一人で過ごすなかで、緊張が膨らんでいった。
弟に電話して、たわいのない話をすると少し心が落ち着いた。
夕食をとって、最後の追い込みをした後、翌朝早起きするために早めに床についた。
床についたものの、いつもと寝具が違うこと(特に、まくらがいつもと高さが違うことと、布団が若干薄くて寒いこと)と、なにより緊張していて心音が身体全体に響いていた。
目を閉じていても、なかなか眠れなくて焦った。試験のためにも、少しでも寝ておかなくては。
結局、寝れたのはニ時間くらいだっただろうか。
四時過ぎに、かけていた目覚ましの音で起きた。念の為に二つ目覚ましをかけておいたが、一つ目の目覚ましの音で起きることができた。すぐに二つ目の目覚ましが鳴る前に止めておく。
まだお腹は空いてないが、今食べておかないと食べるタイミングがない。
試験の途中にお腹が空いて、集中できなくなったら困る。
わたしは、先に荷物をまとめて身支度をして、起床後三十分くらい経ったときに朝食をとることにした。
もう今日が試験だから、やるしかないという気持ちになったためか、昨日よりは緊張が和らいだが、それでもかなり緊張していた。
これ試験に出るかな、あれも最後に目を通しておかないとな、いろいろ考えながらテーブルの上に朝食を並べた。
わぁ!なんだこのモチモチした食感は!黒豆と餡子ともちのバランスが最高だ!こんな美味しい食べ物があったんだ!
それは、お母さんが前日に近所の餅屋で買ってきてくれた豆大福だった。
もちはすきでよく食べていたが、豆大福を食べたのは覚えている限り初めてだった。
このときばかりは、試験の緊張よりも豆大福がおいしいことの感動が優った。
豆大福を食べているとき、食べた後しばらく幸せな気持ちに浸ってから、試験に向けて最後の追い込みを始めた。
今でもこの豆大福を食べたときの感動は忘れない。
弟、お母さん、応援してくれた方々、豆大福、豆大福に関わった全ての方と食材に感謝。
__わぁ!______________________________________________。
わたしは幼い頃、だいすきな映画をみている途中に、終わりがこないでほしいと願った。
終わりがくると、“その物語の住人”から、“現実世界の住人”へと”心の引っ越し”をしなくてはいけない。
わたしは、映画がずっと続いてほしい、終わらないでほしいと願った。
映画のエンドロールが流れているときには、”現実世界の住人”に戻ることへの拒否反応からなのか、この物語の続きはどうなるんだろうかと“想像”をして、なんとか”その物語の住人”であり続けようとした。
“想像”することは楽しかった。その反面、“想像”しても現実の世界は何一つ変わらないことに打ちのめされていた。
やがてわたしは気づいた。映画が終わり、物語が終わっても、”その物語の住人”になった“記憶”は残っているということを。その“記憶”がわたしに勇気をくれた。
映画が終わった後に“想像”することは、”その物語の住人”から、”現実世界の住人”へと、”心の引っ越し”をするための、猶予期間なのかもしれない。
すぐに気持ちを切り替えることが苦手なわたしが、現実世界から逃げないようにするために、この猶予期間が必要だったのだと思う。
また、物語がわたしに強く語りかけてくる”想い”が、わたしを”まだ終わらない物語”に連れていってくれた。
この期間を経て、わたしは”現実世界の住人”であることを少しずつ認めて、これからも生きていこう、生きていけると思った。
“終わらない物語”はない。“わたし”という物語にも、いつか終わりが訪れる。
始まりがあるものには、必ず終わりがある。
このことは、絶望のようであり、希望でもある。
必ず訪れる、”わたし”という物語の終わりに向かって、わたしは生きることができる。
“終わらない物語”があるとしたら、それは“想い”だと思う。
“想い”には実体はなく、目に見えるものではない。
しかし、強い“想い”は、実体があり重さがある全てのものよりも、なによりも“重い”。
この“想い”は、いい方にも悪い方にも傾く。そして、軽くも重くもなる。
そして、強い”想い”はいつか、だれかの”記憶”として残る。
わたしは、この人生をかけて、どんな”想い”を、”記憶”を残していこうか。どんな”終わらない物語”を描いて残していこうか。
わたしがだいすきな映画をみたあとに残った“記憶”が、”想い”が、わたしを”まだ終わらない物語”へ導き、現実世界で生きる希望を与えてくれたように。
(END)
_________________________________________終わらない物語__________________________________________。
わたしは、小学校低学年の頃に、“嘘をつくとえんま様に舌を抜かれる”と友達が言っているのを聞き、嘘はついてはいけないのだと思っていた。
しかし、嘘をつかないとだれかが傷ついてしまうような状況が成長とともに少しずつ増えていき、わたしは嘘をつくことを覚えていった。このような嘘を“やさしい嘘”といったんだなと思い返す。
嘘をつくようになっても、“嘘をつくとえんま様に舌を抜かれる”というフレーズは、心のどこかに残っていた。そのため、嘘をつくたびに、悪いことではないはずなのに、罪悪感があった。
しかし、わたしが罪悪感を感じることよりも、だれかを傷つけることがあってはいけないと思った。
わたしはこのようにして“やさしい嘘”を覚えていったが、いつの間にかわたしは、自分の気持ちに嘘をつき続けていた。
わたしは、本当は大丈夫ではないのに、大丈夫だと嘘をついた。大丈夫なふりをした。このような行動の理由として、周りに心配かけたり、迷惑をかけないようしなくてはいけないという思いからだった。
しかし、『わたしは本当はどうしたいのか』ときかれたときに、何も答えられなくなっていた。他人に迷惑をかけないために、今何をすべきかを最優先してきた。しかし、それは”自分の本当の気持ち”に嘘をつき続けているということでもある。
“優しい嘘”と”自分の本当の気持ち”はどちらも大切だ。しかし、自分と向き合うときには、自分に嘘をつかずに正直でありたい。
わたしはこれからは、”自分の本当の気持ち”を伝えられるようにしていきたい。また、”誰かの本当の気持ち”を受け止められる人でありたい。
_____________________________やさしい嘘________。