『光と闇の狭間で』
頭上の木に留まった黒い鳥が鳴くと遠いどこかから同じように鳴き声が返ってきた。辺りは夕暮れ。あの鳥には仲間がいて帰るところもあるのだろう。私に仲間はもういない。どこに帰ればいいのかもわからない。
ある日突然聖堂へとやって来た勇者と呼ばれる人は魔王を倒すために力を貸してほしいと言った。その人の素性もよく知らず、勇者という肩書きにつられてついていくことにしたのが間違いの始まりだった。過酷な旅に無謀な挑戦を重ねる勇者は誰よりも強かったが、周りの損害を省みない人だった。死んでも生き返らせればいい。そうすればまた戦える。その考えに異を唱えた瞬間に私は一度殺された。
蘇生魔法で目覚めさせられた私は衰弱したままその場に置き去りにされていた。完全に日が沈んでしまえば魔物が湧く。武器も防具も剥がされた私は太刀打ちできずそのまま胃に収まるか、あるいは野垂れ死にして蘇生の間に合わない状態になるだろう。私を見限った勇者はそうなるようにこの場に切り捨てたのだ。
為すすべのない私の祈った先は女神ではなく魔王だった。勇者と呼ばれる者が私よりも酷い目に遭って苦しめばいいと、心の底から願い、呪った。祈りのさなかに魔物に身を食い破られても、血を失い倒れても構わず口元から呪詛を吐き続けた。
やがて意識が途切れる間際、私は夜の闇よりも濃い影が体を包むのを感じ取っていた。知らず浮かんだ笑みを見たのかおかしそうに笑う声は妙に心地よく耳に馴染んでいた。
『距離』
学校に近いところに住んでいたから友達と帰り道を歩くのはせいぜい校門を出て3分ほどの距離。自転車通学で颯爽と校門をくぐり抜けたかったし、帰り道にクラスのうわさや恋バナで盛り上がりたい人生だった。
「自転車は自転車で大変だっつーの」
校門を出て3分ほどの距離を自転車通学の友達は一緒に歩いてくれる。
「天気予報常にチェックしなきゃだし、ダサいヘルメット被れとかうるさいし」
「そのダサいヘルメットにすら羨ましさを憶えているのだが?」
「じゃあ、好きなだけ被れよ」
言って被せてもらえたヘルメットは意外に重たい。これを毎日被って、時にはカッパや長靴を履いて登校するのはなるほど確かに大変そうだった。3分間はあっという間だったけれど、自転車通学者のことを少し理解した帰り道だった。
翌日。
「クラスのうわさ話か恋バナ、どっちか聞きたいな」
「じゃあ恋バナ。まずはおまえから」
突然の恋バナ指名を受けたものの、特に話すこともない。
「……わたし今彼氏いません」
「知ってた」
しばし無言の帰り道。部活に向かう人たちの声や自転車がカラカラ鳴る音がよく聞こえる。
「好きな人は?」
「いない、かな」
「俺はいる」
「えっ、誰!」
自転車を押すダサヘルメットを被った彼は立ち止まらずに前を向いたままおまえ、と言った。私の帰り道はここで終わり。彼は自転車に颯爽とまたがると振り返らずにそのまま長い帰り道を走っていった。立ち止まった私はダサヘルメットから覗いた耳が赤くなっているのに気づいて、顔が熱いと思いながら何も言えずに背中を見送っていた。
『泣かないで』
ゆりかごですやすやと眠っていた赤子が急に目覚めて泣き出した。この子とは二度と会えないかもしれないという後ろ髪を引かれる想いを捨ててここから旅立とうとした矢先のことだった。
「あなた、」
「……決心が鈍ってしまうな」
泣き喚く赤子を胸に抱くと不思議とぴたりと泣き止み、また眠りに落ちていこうとする。これから向かう先で私の手は血に染まるだろう。その前に無垢な我が子は私を引き留めたというのだろうか。
「この子を頼む」
妻の腕へと引き渡す。赤子は目覚めなかったが、妻は俯いて涙を零した。
生きて帰ることはないだろう。もし生き延びたとしても、その時の私はふたりに会う資格を失っている。
妻の涙をそっと拭う。
「今までありがとう」
振り返らず歩きながら、背中越しに妻が漏らす嗚咽をただ聞いていた。指先を濡らした温かみはすぐさまに冷えて消えていった。
『冬のはじまり』
ある日いつものようにコンビニに入るとこれまでなかったガラスケースがレジ前に鎮座していた。もうそんな時期なのか、と思わず声に出し、そしておもむろに近づく。ケースは内側が水滴で曇っているところもあり、内部の湿度の高さを物語っている。中におわすのはふくよかなボディに肉やあんこやピザを内包したバラエティに富んだ饅頭たち。そう。コンビニ肉まんの季節がやってきたのだ。
「肉まんください!」
思ったより大きな声が出て顔なじみの店員さんに笑われたけれど一切かまわない。会計を済ませて店の外に出るやいなや、火傷しそうに熱い肉まんに早速かぶりついた。およそ1年ぶりの邂逅に過去の記憶の中で消えつつあった肉まんの味が新たに書き込まれる。
「始まったな、冬」
ひとり呟いたあとは肉まんのおいしさに感謝を捧げつつ、無心に味わい尽くすばかりだった。
『終わらせないで』
国を勝利へと導いた陛下と私と、謎の余所者。功労者は数多といたが、特にこの3人は凱旋のときから民衆に英雄だと讃えられるようになった。
素性の知れぬ異国の者が領内にやって来たとき、私は速やかに排除すべきだと進言した。しかし陛下は私を制し、それどころか参謀に迎えると言った。
「長く膠着の続いた戦局には新たな風が必要だ」
正直言って承服しかねたが、陛下の意向を覆すことはできない。結果としてはあの決断がなければ我らの国は今も敵国と睨み合いを続けていたか、或いは敗残国となっていた。私の目よりも陛下の目が遥かに優れていたということになる。
陛下と私とは幼少の頃からの主従であった。主従ではあったが、こどもの頃にはこどもらしく戯れ、互いに好意を抱き合っていた。こどもらしい恋に耽ってはいたものの、身分のことを思えば婚姻は叶うこともないと徐々に理解し、そしてそれぞれの婚約が決まりつつあった頃に戦争が起こった。発端は彼女の父君が弑されたことであった。皇女である彼女は婚約を取りやめて女王となり、国を率いる立場になった。私は婚約を破棄し、陛下のあらゆる補佐を務めるために奔走した。
戦争の終わった今も私の想いはあの頃のまま。しかし陛下は国を救ったあの余所者に心を傾けているのかもしれない。もし彼が陛下に求婚することがあれば、陛下は迷わずその手を取るのだろうか。もしそうなれば、ただの臣下の私には何も覆すことができない。平気な顔で祝福できる気もしない。
王の間には私と陛下がいる。心の靄を何ひとつ言葉にできないまま、私は参謀である彼が部屋へと入ってくるのをただ見つめていた。