『もう一つの物語』
右と左どちらへ行くか。酒場で出会った戦士と魔法使いどちらを仲間にするか。高貴な姫君と共に旅してきた仲間どちらを花嫁に迎えるか。人生には選択が付き纏い続けている。
「わしの配下に降ればお前の命だけは助けてやろう」
世界を闇に陥れた魔王は圧倒的な力で討伐隊の仲間を屠り、ひとり残した私に向かってそんな事を言う。諫言だ、と断じて歯向かった事はこれまでに数知れない。その度に私もみなと同じ運命を辿らされ、慈悲深き女神とやらに息を吹き返させられるのを何度も経験してきた。旅の仲間たちは死しても死ねぬ役目を与えられることに嫌気が差して討伐隊を辞していった。最初から残っているのは私と妻だけ。
「またふたりだけになっちゃったね」
「……あのとき姫さまと結婚していればよかった」
笑いかけた妻はその一言で表情を凍らせ、そして去っていった。
ひとりきりで魔王の城へと赴く。道中に魔王の手下が何度も立ちはだかったが、羽虫のごとくに煩わしいだけだった。それほどまでに私は強いのに、どうして魔王を倒すことが出来なかったのか。胸に決意を秘めて先へ先へと進む。
旅の伴を連れずに現れた私に魔王は愉快そうに笑いかける。
「わしの配下に降りに来たのか?」
「そうだ」
その返答に一層笑みを深めた魔王が手招きをした。私は魔王の胸に抱かれる。
魔王を倒す物語は私の物語ではなかった。そうとしか考えられない状況に最初から提示されていた選択を受け入れる。これまで描いてきた魔王を倒した後の世界のことが一抹思い出されたが、闇に身体を融かす感覚の心地よさににすべて飲み込まれていった。
私の前にかつての私のような目の輝きを宿した者が立ちはだかる。あれが魔王を倒す物語を紡ぐ者ならば、羨望とも嫉妬とも言える感情を掻き立てられるのも納得がいく。私の成り得なかった存在は私を容易く倒し、魔王にも打ち勝つことができるのか。見届けるために全力を賭すと決めて柄を握った。
『暗がりの中で』
街道の灯籠を巡っていけば次の宿場に辿り着けると教わったのだが灯籠に化けた獣のせいで道に迷わされ、気がつけばあたりは暗闇に包まれていた。しかし日の暮れまではもう少し猶予があったはずだし、伸ばした手のひらすらもわからないほどの闇とは少し出来すぎている。これも獣の仕業だなと当たりをつけるがどうしたものか。うかうかしているといつの間にか胃の中に収まっているということにもなりかねない。
思案の末に大きな声で独り言をつぶやく。
「あぁ、腹が減ってきたし寒くなってきたな。ここらで火を起こして闇をやり過ごすとするか」
荷物から火打ち石を取り出すと辺りの闇ににわかに緊張が走った。燃やすものなどないだろうと高を括っているようだが、誰を相手にそんなことを思っているのか。
鳥の形の形代に息を吹き当て、石を打った火花を載せる。轟々と燃え盛る鳥と化した形代が羽ばたくと火は闇に次々に燃え移り、ついに獣が正体を現して散り散りに逃げていこうとした。その一匹をむんずと捕まえる。
「たぬき鍋にちょうどよいな」
ドスを効かせた声でにやりと笑うと小さな獣は震え上がって泡を吹き、気を失った。散り散りに逃げたはずの獣たちは焦げながらも戻ってきて嘆願するかのように震えながら揃って鳴き出した。
「人を食わぬと約束すれば、鍋にするのはよしてやろう」
何度か頷くように頭を振るのを是とみて解放すると、獣たちは今度こそ散り散りになって逃げていった。
あたりはすでにとっぷりと日が暮れていたが空には月も星もあり、遠くには灯籠のぼんやりとした明かりが街道沿いに続いている。
「……鍋は惜しかったかな」
腹の虫が鳴くのを聞きながら、気を取り直して歩き始めることにした。
『紅茶の香り』
奥さまがメイドを伴って焼き菓子をカゴいっぱいに持ってきたのを旦那さまもこどもたちも目を輝かせて歓迎した。
「わしの手腕を見せる時が来たようだな」
言って旦那さま立ち上がり、手際良く茶の準備を始める。その光景を見た全員が驚きの声をあげる様子に気を良くした旦那さまは私に向かってウインクをし、私は頷いてそれに応えた。奥さまが手ずから菓子を振る舞うのに対抗してひそかに執事の仕事の指南を乞うていた旦那さまの淹れる紅茶は、家族らからも絶賛を浴びるほどの腕前だった。紅茶と焼き菓子の香りに包まれた家族のお茶会はいつまでも続けばいいのにと思えるほどに幸せな時間だった。
幸せな時間は過去のものとなり、紅茶の香りを嗅いだのはいつのことだか思い出せない。私を拾い、執事として育ててくださった家族は政敵によって没落させられ、貶められた。ある人は処刑され、ある人は売られ、ある人は自ら命を絶った。私はそれぞれの墓の前に膝をついて尋ねる。
「私が復讐を請け負ってもよろしいでしょうか」
頼む、と聞こえた気がしたのを寄る辺に、私は拾われる前の手腕を解くと決めた。何十年の空白はあれど、久しぶりに手にした暗器は茶道具よりもはるかに手に馴染む。
「一切、お任せください」
『愛言葉』
愛していますと言えば客が喜ぶからと教えられてきたから言うようにしていた。私は何も知らない空っぽな人間なので言われたとおりにしかできない。言われたとおりにしていれば、ぶたれることはないし怒られることもない。
ある日にやって来たお客様は部屋に入っても私に触れることはせずに、いくつか質問をしてきた。今の仕事は好きか。ここから外に行ってみたいと思うか。もっといろんなことを知りたいと思うか。どの質問にも私はわかりませんとしか答えられなかった。
「……愛していますという言葉の意味を知っているか?」
「わかりません」
お客様は俯いてため息を吐いた後に部屋を出ていった。私は怒られてしまうのではないかと怯えたが、戻ってきたお客様からここから出なさいと告げられた。言われたことしかできない私はそうして娼館から出ることになった。
養父となったお客様のことを私はお父様と呼ぶようになり、学校ではさまざまなことを教えてもらえた。私が空っぽだったのは学びを得るこのときのためだったのかと思えるほどにどの授業も楽しいものだった。
学校での学びとお父様との暮らしで私は変わることができた。
「愛していますという言葉の意味はわかってきたか?」
かつて私の言わされてきた言葉は私のように空っぽだった。お父様がかけてきた言葉に、今の私は答えられる。
「とても一言では言い表せない想いをどうにかして相手に伝えられる言葉、です」
お父様は俯いてため息を吐いた。それが私の成長ぶりに感極まったものであることが今の私にはよくわかる。
「愛しています、お父様」
涙をこぼす私を胸に受け止めたお父様は堪えてきた涙をついにこぼしてしまった。
『友達』
中学からの同級生の彼に家族が増え、巣立ちを迎え、伴侶に先立たれても僕と彼とは友達のままでいる。
「お前は俺にいつ告白とかしてくれるわけ」
空いたグラスに瓶ビールが注がれる。昔はジョッキを何杯でも空けていたふたりはいまや大瓶一本で満足できるようになってしまった。居酒屋の隅に置いてあるテレビは野球中継を映していて、食い入るように見る人、気にせずそれぞれの酒を飲む人とさまざまだった。雑に注がれたビールの泡がすぐさま消えて炭酸が抜け出ていく。
「しないよ。友達のままでいたいから」
手酌で彼のグラスにビールが注がれて、それで大瓶は空になった。
「友達じゃなくなったらこうして瓶ビールとか枝豆とかシェアしてくれる人がいなくなっちゃうでしょ。僕らの年でそういうことしてくれる人は貴重だよ」
「確かに」
納得したようにグラスを空にしたふたりだったけれど、揃って店をあとにする間際に彼が言った。
「同居人ならビールも枝豆もシェアできるんじゃね」
「えっ」
「次また飲みに行くときまでに考えといてくれ。部屋は掃除しておくから」
この年で友達をやめてそして同居人になるという選択肢が出てくるとは思いもよらなかった僕はそれじゃと手を振る彼に手も振れず、今も言葉が出てこない。次第に胸の隅から中学生の頃から積み重ねてきた想いが大声で主張を始め、まだ遠くへは行っていない彼の行方を追おうと脚を動かし始めた。