『冬になったら』
冬になったら私にはやりたいことがある。
秋になっても秋らしくないような気候が続いていた。紅葉もしないし霜も降らないおかしな気温は日が沈むと途端に冷え込んで情緒もおかしくなっていく。そのせいで同居する姑はいつにも増して機嫌が悪く、その腹いせのとばっちりが私に来る。
けれどいくらなんでも冬になれば氷は張るだろうし雪も降り積もるだろう。夏とは違って簡単にはものは腐らないし、日は短くて夕暮れも早い。死体を隠しておくにはうってつけの季節だ。
きょうも不機嫌な姑が声を荒げて私を呼んでいる。私がいつものように明るく返事をしていられるのもいずれは冬がやってくるとわかっているからだ。道具はすでに揃えてあり、荷物もちゃんとまとめてある。心離れた夫は家に寄り付かないから発見はきっと遅れるに違いない。
あぁ。冬が待ち遠しくてたまらない。
『はなればなれ』
この手を離せばそれで終わり。一緒に旅をしてきた勇者の仲間たちはそれぞれ魔王を倒した英雄と呼ばれる一個人となる。旅の最中に育まれた絆とは別に生まれた勇者への好意は日に日に大きくなっていたけれど、それをどうにもできぬまま平和は訪れ、それぞれの故郷へと帰る日となってしまった。
「今までありがとう」
握手を求められて、それに応じる。
「君のこと、わたし好きだったよ」
手を離さぬままぽつりと零した告白を、勇者は笑って答える。
「うん。僕もあなたのこと好きだよ」
それぞれの故郷に戻れば彼には幼なじみとの婚姻が、わたしには族長との婚姻が待っている。勇者はわたしの手をぐいと引くと、胸に収めた。
「……さようなら」
わたしの言葉を待たずに彼は体を離し、手を解く。転移の魔法は一瞬にして彼を遠くへと運び、行動の意味を問うことを阻んだ。
彼には想い人がいると知っていたから、わたしのことなど見ていないと思っていた。それなのに彼にも旅の最中に生まれた好意があったというのだろうか。
「なんで今なの」
彼からわたしへの最初で最後の接触は心を乱し、故郷へと向かわねばならない足をその場に縫い止めた。わたしには魔法が使えないから追いかけられない。追いかけられたとしても、別れの言葉は告げられ、この手は離れてしまった。
「なんで……、」
わたしが泣いている間に故郷に辿り着いた彼は彼を愛する幼なじみに迎えられていることだろう。今までも想像していたことなのに今は自らの心がひどく傷つく思いだった。
『子猫』
帰ってくると薄汚れた白い毛玉が家の中にいた。まだニャーとも鳴けない小さき命を拾ってしまい、連れていった先の病院で指導を受け、必要な道具一式を買って今ここにいるのだと同居人は説明してくれた。傍には真新しい子猫用の授乳器具が開封されて置いてある。何か言おうとしたものの、続いて彼がぽろぽろと涙をこぼしたのでぎょっとして次の言葉を待つと、箱の中にいた毛玉のきょうだいたちの命はついえてしまい、今さっき墓を作ってきたのだと彼は時間を掛けてようやく言った。彼の手指は汚れていて、ほのかに土の香りがしていた。ただ一匹の生き残りは病院で実演されたミルクの与え方によって満腹になり、親兄弟ともう会えなくなっていることを露ほども知らずに迫っていた死の影から遠ざけられてすやすやと眠っている。私の言おうとしたことはもう言えなくなってしまった。
「……病院で名前決めた?」
「暫定でシロちゃんって書いた」
シロちゃん(仮)は2時間おきに腹をすかせてけたたましく鳴くらしい。それが2週間ほど続くという。子を持たない我々は世の親という存在のほんの一端を理解して育児とはこういうことなのかと戦慄したが、しかし覚悟を決めた。天涯孤独だった子猫に家族が増えた瞬間だった。
『秋風』
日の沈む頃に吹いた風がベンチに座る言葉少なになったふたりの間を駆け抜けていく。ふたりの微妙な距離感は出会った頃とよく似ている間隔だと思った。近づきたいけどもじもじとして近づけず、けれど離れたくもない。付き合ってからはふたりに空間など存在してはいけないというぐらいに四六時中ベタベタとして白い目で見られていても気づかないぐらいだった。それがいつどのぐらいから心が離れていったのか。
離れたいひとりと離れたくないひとりの間の距離感はもう修復できないのだということが、お互いの視線の合わないまま言葉だけでやりとりされる。さようならと告げられて視線を上げても振り向きもしない背中はどんどんと離れていく。追いかけようという気になれなかったことが別れを決定づけた。
ベンチの隣には秋風ばかりが吹いている。メソメソと泣くことも立ち上がることも億劫になって、ただ寒いと思いながら時が過ぎていった。
『また会いましょう』
私の体はいつ大人になるのだろうか。私が幼子であるから神様は私に懸かってくれる。そのために力を使うこともできる。けれど、私はお役目から少しでも早く離れてあのひとと一緒になりたかった。
「戦に出ることになりました」
私に跪いて別れを告げるそのひとの顔は私が泣くのを耐え忍んている顔を見るとさらに悲嘆に暮れた。私にはわかっている。これが最期になってしまうことを。行かないでほしい。私を攫って逃げてほしい。そう言っても何も変わらないことを私も彼もよく解っていた。
私の力が消えてなくなる前にどうしてもまた彼に会いたい。そう思った。
「いつかまた会いましょう。私の体やあなたの体ではなくなってしまうけれど、また必ず」
抱擁を交わすことすら許されないまま、彼は旅立っていった。
その遺跡で見つかった土人形は古代にはなにかしらの儀式に使われていたという。もろく壊れやすい物のはずなのに時の重みなど寄せ付けぬように欠けや傷のひとつもないそれをハケで丁寧に土を払い、手袋越しに手のひらに載せる。奇妙な既視感と幻視がここをどこであるかを惑わせて、私は見覚えのある少女の前に立っていた。一目見て、あのひとだと判った。
「ずっと、待っておられたのですか」
「ええ、神様が離してくれなかったの。でも、見つけてくれたのね」
戦に向かう前、幼きそのひとのことをどれほど胸に抱きたかったのかを思い出して衝動に駆られるように腕を伸ばした。思いのほか小さく華奢な体におそろしくなって壊れないように抱きしめる。
「また会えました。あなたの言った通りに」
「そうよ。だから、また会いましょう。必ずね」
うれしそうに言ったあのひとは悲しげに儚く消えた。遺跡の跡にいたのは私ただひとりで、手のひらに載せていた土人形はもろく壊れやすいもののように砕けていた。知らず流れた涙を不思議な気持ちで拭いながら、私は胸に残った言葉を思い返していた。