『子猫』
帰ってくると薄汚れた白い毛玉が家の中にいた。まだニャーとも鳴けない小さき命を拾ってしまい、連れていった先の病院で指導を受け、必要な道具一式を買って今ここにいるのだと同居人は説明してくれた。傍には真新しい子猫用の授乳器具が開封されて置いてある。何か言おうとしたものの、続いて彼がぽろぽろと涙をこぼしたのでぎょっとして次の言葉を待つと、箱の中にいた毛玉のきょうだいたちの命はついえてしまい、今さっき墓を作ってきたのだと彼は時間を掛けてようやく言った。彼の手指は汚れていて、ほのかに土の香りがしていた。ただ一匹の生き残りは病院で実演されたミルクの与え方によって満腹になり、親兄弟ともう会えなくなっていることを露ほども知らずに迫っていた死の影から遠ざけられてすやすやと眠っている。私の言おうとしたことはもう言えなくなってしまった。
「……病院で名前決めた?」
「暫定でシロちゃんって書いた」
シロちゃん(仮)は2時間おきに腹をすかせてけたたましく鳴くらしい。それが2週間ほど続くという。子を持たない我々は世の親という存在のほんの一端を理解して育児とはこういうことなのかと戦慄したが、しかし覚悟を決めた。天涯孤独だった子猫に家族が増えた瞬間だった。
『秋風』
日の沈む頃に吹いた風がベンチに座る言葉少なになったふたりの間を駆け抜けていく。ふたりの微妙な距離感は出会った頃とよく似ている間隔だと思った。近づきたいけどもじもじとして近づけず、けれど離れたくもない。付き合ってからはふたりに空間など存在してはいけないというぐらいに四六時中ベタベタとして白い目で見られていても気づかないぐらいだった。それがいつどのぐらいから心が離れていったのか。
離れたいひとりと離れたくないひとりの間の距離感はもう修復できないのだということが、お互いの視線の合わないまま言葉だけでやりとりされる。さようならと告げられて視線を上げても振り向きもしない背中はどんどんと離れていく。追いかけようという気になれなかったことが別れを決定づけた。
ベンチの隣には秋風ばかりが吹いている。メソメソと泣くことも立ち上がることも億劫になって、ただ寒いと思いながら時が過ぎていった。
『また会いましょう』
私の体はいつ大人になるのだろうか。私が幼子であるから神様は私に懸かってくれる。そのために力を使うこともできる。けれど、私はお役目から少しでも早く離れてあのひとと一緒になりたかった。
「戦に出ることになりました」
私に跪いて別れを告げるそのひとの顔は私が泣くのを耐え忍んている顔を見るとさらに悲嘆に暮れた。私にはわかっている。これが最期になってしまうことを。行かないでほしい。私を攫って逃げてほしい。そう言っても何も変わらないことを私も彼もよく解っていた。
私の力が消えてなくなる前にどうしてもまた彼に会いたい。そう思った。
「いつかまた会いましょう。私の体やあなたの体ではなくなってしまうけれど、また必ず」
抱擁を交わすことすら許されないまま、彼は旅立っていった。
その遺跡で見つかった土人形は古代にはなにかしらの儀式に使われていたという。もろく壊れやすい物のはずなのに時の重みなど寄せ付けぬように欠けや傷のひとつもないそれをハケで丁寧に土を払い、手袋越しに手のひらに載せる。奇妙な既視感と幻視がここをどこであるかを惑わせて、私は見覚えのある少女の前に立っていた。一目見て、あのひとだと判った。
「ずっと、待っておられたのですか」
「ええ、神様が離してくれなかったの。でも、見つけてくれたのね」
戦に向かう前、幼きそのひとのことをどれほど胸に抱きたかったのかを思い出して衝動に駆られるように腕を伸ばした。思いのほか小さく華奢な体におそろしくなって壊れないように抱きしめる。
「また会えました。あなたの言った通りに」
「そうよ。だから、また会いましょう。必ずね」
うれしそうに言ったあのひとは悲しげに儚く消えた。遺跡の跡にいたのは私ただひとりで、手のひらに載せていた土人形はもろく壊れやすいもののように砕けていた。知らず流れた涙を不思議な気持ちで拭いながら、私は胸に残った言葉を思い返していた。
『スリル』
私の盗癖の始まりは些細なことだったと思う。老人の経営する商店からりんごを盗み出すことを思いつき、それを実践したら誰にも咎められずポケットにりんごは移った。違う店に行って少し大きなものを盗み出しても結果は同じ。初めて入る店なら、初めて来た国ならと段階を踏んで規模を大きくする度に逐一それは成功してしまった。私には盗みの才能があるのだと気づいた。
小説に描かれているような怪盗になったのはそれからいくらも経たないころ。盗みの才能にあぐらをかくことなく、技術の研鑽も積んできた私に盗めないものはないと自負しては私を追う警察たちをからかっていた。
そのうちに、どこの国へ行っても同じ刑事に出くわすこととなる。変装して現場を下調べしているとき、ひとり熱心にうろついていたり、盗み出したあとにすぐ駆けつけてきた警察の一団の中で声を張り上げていたり。今まで私の影を踏むことのできない人たちばかりの中に私に並び立ちうる存在が現れたことに私は戸惑った。その戸惑いに名をつけるならば、喜びが一番近いように思えた。
盗みの計画を練っているときなどにふと彼の顔が思い浮かぶことがある。盗むこと自体も楽しいことだが、最近はそれに加えて彼がどこで私を捕まえうるかを想像してはその対策を打つことにも楽しみを見いだしている。捕まれば一巻の終わり。今までにない危機感すらも不思議と楽しい。
飛行船の眼下には綺羅びやかな街に無粋な回転灯があちらこちらに光って警戒している。あれがあるということは、彼もいるということだ。そのことを思うと知らず身震いが起こり、口元には笑みがともる。彼との逢瀬を楽しみに、私は目標へ向かって颯爽と飛び降りた。
『飛べない翼』
動物園の檻の中に鋭い目をした鳥がいた。鋭いのは目だけではなく、黄色い爪もくちばしも鋭く尖って格好良い。鳥の説明が書かれたプレートには彼の暮らしていた国やどういうものを食べるのかという生態が書かれていたのだが、今の状況と違う一文に目が留まる。
“雄大に空を飛び回る姿は空の王とも呼ばれる”
檻の中に佇んでいた鳥はおもむろに翼を広げ羽ばたかせた。翼には不自然に切られたような箇所がいくつもあり、その身を浮き上がらせることすらもできないようだった。
「空の王にならせてくれないか」
鳥はまっすぐにこちらを見て話しかけてきたけれど、私にはその力も権限も備わっていない。視線を振り切って檻の前をあとにしたが、背中には鋭い視線がいつまでも突き刺さっているかのようだった。