『高く高く』
書の先生には息子がいて、私が教室に入った時から教室の中では誰よりも書が上手かった。先生の書が大好きで教室に入った私からすると同じ屋根の下で誰よりも長く先生の指導を受けられるそのひとのことは妬ましく羨ましい存在だった。
「君はいいね。先生に褒められて」
彼が少し寂しげに言ったことを聞いてから教室をよくよく見てみると、書の上手下手に関わらず生徒を褒めがちな先生は彼のことを一切褒めてはいなかった。彼のことを見ていると先生の背中ばかりを見つめているようだった。
「お父さん、って呼んだことないの?」
「もう10年以上は呼んでない」
「書を書くのは、好き?」
「……嫌いになりかけてる」
洗い場で俯きながら筆を洗う彼をこのままにさせてはおけない。
「私、これからはもっと高みを目指す。あなたより書が上手くなってみせる!」
洗いたての筆を突きつけて宣言すると、彼は何言ってんだこいつという目で私を見た。
「だからあなたはいつも私より上手い存在でいて。ずっと私の上にいて」
「何それすごい勝手」
呆れながらも少しだけ笑った彼は、それ以降先生に言われるだけだった姿勢をあらためて書に取り組み始めた。どこへたどり着いても先を行く存在の彼には引き離されてばかりな気がしてこちらの気がめげそうになったりしながらも、私は追いつくことをやめようとはしなかった。
私が見上げているところにいる彼は今日もどこかでもっと高くに向かって走っている。立ち止まっていては彼に追いつけない。
「やるか」
真白い紙の上に墨を含んだ筆が躍りゆく。心の揺れもそのままに、私の軌跡はさらなる高みを目指し続けていた。
『子供のように』
殺し屋へ暗殺の依頼をしにやってきたはずなのだが、案内された部屋にいたのは小さなこどもだった。
「はじめまして」
「あぁ、どうも……」
「殺しの依頼ですか?」
こどもの口からこどもにはそぐわない言葉が出てきて面食らう。しかし上司から指示された場はここで間違いはないし、屋号も合っていたはず。純真無垢にしか見えない目で見つめられるが、心中には逡巡の嵐が吹き荒れていた。
そんな様子を見てくすくすとこどもが笑い出す。
「お宅のところは今も肝試しに私を使いたがるんですね」
「どういう、ことです」
「その前に自己紹介を」
年端もいかないこどもにしか見えないその人はその昔、夜に生きるものの牙を受けて夜に生きるものの眷属となったのだと語った。
「うんと昔には教会で賛美歌を歌ったりもしたんですよ。でも今は聖なるところへは近づけないし、お歌を歌っても具合が悪くなってしまう」
にわかには信じがたい話を屈託なくころころと笑い話すこどもはふと笑みを収めると、それまでになかった凄みをあらわにしてこちらを見つめた。全身が総毛立つ感覚に、目の前にいるこどもはまさしく底しれぬ怪物なのだと悟らされた。
いつの間にか、テーブルの前にカップがことりと置かれていた。
「粗茶ですが、どうぞ」
先ほどまで発せられていたプレッシャーは嘘のように消え去っていて、目の前にいるのはただのこどものように見える。喉は渇ききっていたが居住まいを正すのも震える手を伸ばすのも気力が削られていてなかなかままならなかった。
「……肝試しと仰った意味がよくわかりました」
ようやく茶を口にして出た言葉はそれだった。
「あなたの上司も若い頃に似たようなことを言ってましたよ」
数百年の夜を生きるおそるべき殺し屋はこどもらしく可笑しそうに笑っていた。
『放課後』
校庭でけいどろをして遊んでいると用務員のおじさんがやってきて尋ねられた。
「いまけいどろやってんのか」
「あっ、はい」
「何人でやってる?」
「えっと、8人、です」
するとおじさんはちょっと怖い顔になって、俺には7人に見えるのだと言った。
「放課後はここであんまり遊びすぎるなよ」
それだけ言うとおじさんは去っていき、言われた僕のほうは話し終えるのを見計らっていたけいさつ役が捕まえに来たので寸でのところでかわして走って逃げた。走って逃げるうちに用務員のおじさんに言われたことはすっかりと忘れてしまった。
日が暮れてきて人の顔も分かりづらくなってきたので次の回で終わりにしようということになった。じゃんけんで勝った僕はまたどろぼう役。少しでも長く逃げ切ってなかなか終わらせないようにしようと意気込んでいたけれど、ひとりふたりと捕まって、残りは僕ともうひとりになっていた。うっすら影のようになったけいさつ役がどろぼう役を取り囲んでくる。そのときにけいさつ役が4人より多いことに気づいた僕は用務員のおじさんに言われたことをふと思い出した。捕まったら帰れなくなる。そんな気が起こってゾッとしたのを見計らっていたかのように、けいさつ役が僕のほうに狙いを定めて捕まえに来た。
「こらーっ!いつまで遊んでんだ!」
用務員のおじさんが大声をあげて懐中電灯で僕らを照らす。けいさつ役もどろぼう役もなくなって慌ててランドセルを背負うとみんな蜘蛛の子を散らしたように駆け出して解散となった。駆け出すことができずに立ち尽くしていた僕は用務員のおじさんにポンと肩を叩かれる。
「危なかったぞ。さっさと帰れ」
それでようやく動けるようになった僕はランドセルを背負って一目散に家へと駆け出していた。
『カーテン』
屋敷の奥の間で葛藤を重ね決心を着け、静かに目を閉じた私はひとの姿を捨てて本来の姿へ返った。ひとに見られてはきっと騒ぎになるだろうが、この姿でなければ成し得られない。騒ぎになればきっとこの都に居ることもできなくなるだろうが、仕方ない。ふと思い出されたのは唯一無二の友のこと。人の世にあって変わり者だと揶揄されてきた私に近づき、裏表なく接してきた男のことを思うと後ろ髪を引かれる思いだったが固く目を瞑ってそれを追いやると、私は為すべきことを為すために屋敷を発った。
人の目には見えぬ大蜘蛛が都に巣を張り人を食うさまを見るのも今日限り。都に突然に現れた大きな獣を見て人々は驚愕の声をあげたが、私が大蜘蛛の足の一本を噛みちぎったとき、あらわとなったあまりにも大きな巣のおぞましさには言葉を失っていた。闘いは長く続き、双方どちらも引けをとらなかったが、人々が大蜘蛛に石を投げ、火矢を射掛けてから流れが明らかにこちらに傾いた。石に打たれ焼けただれた大蜘蛛の体はやがて地に伏して動かなくなり、満身創痍の私だけがその場になんとか立ち尽くしていた。
歓声をあげる人々の中から見覚えのある顔がこちらに駆け寄ってきて、迷わず名を呼ぶ。ひとの姿は捨てたはずだったが、それで私の姿は獣からまた人へと成った。私の唯一無二の友は家来に人払いを命じ、人々の好奇の目を遮るように着ていた衣を私に掛けた。ひとに見せられぬ姿の私は彼の衣があらゆるものを遮るように思えてひどく安心した。
「どうして、わかった」
「見ていたらわかるさ」
彼はなんでもないような顔をして笑っているのだろう。衣に隠れた私がその言葉に胸震え、心からの涙を流しているとも知らずに。
友の助力もあってもう戻ることはないと思われた屋敷に帰りついた私はこんこんと眠り続け、目覚めたあとにも都に留まり続けている。友が語るには、都を護った獣は何処かへ去ったがいまもどこかで見守っているのであろうという伝聞が広まっているとのことだった。伝聞に彼が一枚噛んでいるのでは、と思っているが、何をどう聞いても彼は素知らぬ顔しか見せてくれなかった。
『涙の理由』
秘密を墓場まで持っていくことは難しいことらしい。母が病床で息も絶え絶えに語ったことは、罪の告白だった。語るだけ語ったあとに母は臨終となってしまったので、突然に自分の出生の秘密を知った私は気持ちの遣り場のないことや、聞き返したいことを問う相手の不在に憤りさえ憶えた。墓に向かって何を言っても徒労に終わる。仕方なくほうぼうへ聞いて回ることにした。
私の母は母ではなく赤の他人であった。金を積んで人さらいを雇い、連れられてきた赤子を母はそれはそれは大事に育てあげ、母としての役を満喫して人生を終えた。それはさておき、私には本来の母とおぼしきひとと幼少の頃に会っていたのかもしれないという記憶がある。母の用事について行き、母の手が離せないというときにひとりでふらふら歩いていた時に見知らぬひとに声を掛けられた。母と比べるとみすぼらしい身なりのその人は私を見ると手招きをして名前や年を聞き、はきはきと答えた私のことを眩しそうに見つめていた。私の話すことすべてに頷き、笑い、嬉しそうに聞いてくれたからとても楽しい時間だったのだが、血相を変えた母が怒鳴り込んできたことでご破算となった。母がなんの説明もなく乱暴に手を引いて歩いたことも悲しかったし、振り返ったときに見たひとが泣いていたらしいことも悲しかった。
うれしそうに話を聞いてくれたひとの、悲しみの涙のことを思う。役所で見聞きしたことを頼りに生みの親の所在をつかんだ私の足は一旦は鈍ったが、やがては歩き出すこととなった。