『香水』
人混みの中で嗅いだことのある香りとすれ違い、記憶が遡る。都会に出てきたばかりの若かりし俺は夜の街で働く年嵩の女にいっとき飼われていた。飼われることに嫌気がさして都会を飛び出し、十年近くを経て戻って来たときにはあの人は消息不明となっていた。
何も持っていない俺のどこに価値を見いだしていたのかはあの人の年に追いつこうとしている今でも自分にはわからない。俺が女であったならわかってやれただろうかなどと詮無きことを思う。
白粉と香水の混じり合った香りが幻のように立ちのぼる。人混みの中で振り返っても、そこには俺の後悔が影のように立ち尽くして消えていくだけだった。
『言葉はいらない、ただ・・・』
部屋のドアをあけるとそこにいたのは傷だらけになった彼だった。どこから帰ってきたのかはわからないし、何があったのか誰にやられたのか、問うてはみたが彼はただ悔しさを滲ませて押し黙っている。なんだか小さなこどものようだ。そう思ってしまったので彼に寄り添って抱きしめるのも自然なことに思えた。腕の中で驚いて固まったのはしばしのことで、それから間もなく彼は静かに震えて泣いていた。
もういい、とぶっきらぼうな声が聞こえて体を離すといつもどおりになった彼がいた。なかなか視線が合わないのを微笑ましく思いつつ、傷の手当のために彼を部屋へと招き入れた。
『突然の君の訪問。』
小学生ぐらいのことだったか。学校行事で山登りをしていると登山道の傍らに小さく細いヘビを見つけた。口元からちょろちょろと舌を出してはいるがその場から動かないでいるのを、おなかが減っているからだと解釈した私はリュックからタッパーを取り出した。
「梨、食べる?うちの庭に今年初めてできたんだよ」
カットされた梨を爪の先でちぎってヘビの口元にやるとヘビはしばらくじっと見つめたあとに口へと運び、ムグムグと飲み込んだ。もっとかまってやりたかったが、先生や同級生に見つかればちょっかいを出されてしまう。梨の欠片をもう少しちぎって置いた私は後ろ髪引かれつつもその場をあとにした。
それから何年かが経って、今年も庭の梨の木に実がなり、食べ頃を迎えた。
「今年も目ざとく来たね」
あれ以来、梨の実がなる頃に現れるようになったヘビらしき生き物はふわりと浮き上がると梨の木の周りをぐるぐる回ってなにかを催促しているような動きを見せる。ひとつをもぎ取って目の前に差し出してみたけれどその生き物はさらになにかを訴えるような目でこちらを見つめた。
「相変わらず行儀がいいねぇ」
台所で梨の皮を剥き、芯を取って一口サイズにしたものをお皿に乗せて差し出すと、ヘビらしき生き物はそれでようやく梨を口にした。満足げに目を細めて梨の味を堪能するさまはなんだか神様のようだった。
『雨に佇む』
夏祭りで掬った金魚が水槽の水面近くに裏返っているのを見つけたこどもは朝からしくしくと泣いていた。湿度も気温も高い日に庭先の一角にこしらえた金魚のお墓に雨のひとしずくがぽつりと落ちて土の色を変える。まぶたを腫らしたこどもはお墓を見つめていて、一つまた一つと落ちる雨雫がアスファルトや屋根瓦の色を残らず塗り替えてもそこから動かなかった。
「涙雨が降ってきたね」
雨に佇むこどもに傘を差し出して寄り添う。
「なみだあめ、ってなに?」
「金魚の悲しい気持ちと、君の悲しい気持ちが合わさってできた雨だよ」
雨の降り続く空を眺めていると、こどもが抱きついてまた泣きはじめた。しっとりと濡れた頭や濡れそぼる体から悲しさが溢れ出ているのを傘で塞がった片手で優しくあやしながら、雨が収まるようにと願い続けていた。
『私の日記帳』
家に誰もいない夏休み。家に誰もいなくて退屈だから、家族の部屋に少しぐらい立ち入って、少しぐらい秘密がないか調べるのも許されるだろう。
そうして親の部屋から見つけた一冊のくたびれたノートは文房具屋や百均でも見るような昔からどこにでもあるようなものだった。家計簿や何かの使い差しのものだろうとなんの気なしに開いてみたところ、それはどうやら日記帳だった。
小さな頃、兄におやつを勝手に食べられて泣かされたことが文字の読み書きも知らないはずの私の文字で書き記してある。小学生の頃、初恋かもしれないときめきの様子が小学生には知りえない言い回しを使って詩的に書き記してある。書いた覚えのない日記に記されていることは私の頭にすべて記憶されていることだった。読んだページすべてがそうだったから、この先に続くページもそうなのだろう。恐ろしくなった私は震える手で日記帳を閉じて元の場所に戻し、そして今日のことを誰にも話さずに忘れることにした。