『向かい合わせ』
観覧車のモーターがゴウンゴウンと低く唸り鉄筋が時折軋む。ふたりを乗せたゴンドラは地上からゆっくり離れて車輪の軌道をなぞっていく。夜空には少し欠けた月と煌めく星が広がってロマンチックではあったけれど、夜とはいえ気温のあまり下がらない熱帯夜にほぼ密室のゴンドラに乗るのはあまり得策ではなかったかもしれない。
「ごめん。夜だったらちょっとは涼しいと思ってた」
ハンディファンをフル稼働させる向かい合わせの彼は申し訳無さそうにしている。折しも観覧車はてっぺんに近づいて、両隣のゴンドラが死角に入りかけていた。
「じゃあ、誠意を見せてもらおうかな」
言葉の意味をシチュエーションから察したらしい彼は向かい合わせの席から腰を少し浮かせると、誠意、見せます、と言ってくちづけた。ハンディファンのモーター音がうるさいはずだったけれど長く短い一瞬はさまざまなノイズを忘れさせた。
ゴンドラがてっぺんを越えて地上へと向かい始める。向かい合わせに座り直した彼と私は昇りのときより暑いねなどと言っては落ち着きなく夜空を眺めていた。
『やるせない気持ち』
見ていることしかできないことがたくさんある。駅の隅に段ボールを敷いて眠る人を見たとき。小さなこどもが親に暴言を浴びせられているのを見たとき。道に横たわって動かない猫を車が避けて通るのを見たとき。世界に目を向ければそれこそ果てのないぐらい。
さまざまなものを見て胸にわだかまりを自覚するのは、自分ではどうしようもないことだからなのか、それとも自分がいつかはあれをする、またはされる可能性があるからなのか。答えは出ない。ただやるせない。
『海へ』
瞳からこぼれる涙からほんの僅かに海の香りがする。体を巡る血の流れからほんの僅かに潮騒の音がする。海のない国に生まれ、海のない国の戦場で仰向けになって死を待つ自らの体に人が海から生まれた名残があることに今さらながら気がついた。重たさを増すまぶたに抗えず意識を手放す間際、空の青さに一目見ることもなかった海の青さを重ね合わせる。いつかは海というものを見てみたかった。海のない国で生まれて、国を出ることなく死にゆくときに思ったことはそれだった。
『裏返し』
夕暮れに涼しい風の吹く頃に家へと帰り着くと、玄関先に一匹のセミが裏返っていた。反射的に声が出そうになるのをこらえ、どうにか視界に入れずに家へと入る方法を模索するがどう考えてもルート的に無理だった。
家には母がいるはずなので、インターホンを鳴らして出てきてもらい、ついでに排除してもらうのはどうだろうと脳内会議から意見が出て採用される。裏返ったままのセミに近づくのすら寒気が立つが、手を汚さずに家に入るためには手段を選んでいられない。
よそ行きの声を出しつつ現れたエプロン姿の母は、外に立っていたのが娘の私だと気づいて声のトーンが一段低くなった。それはさておき。
「お、おかあさん!セミどっかやって!!」
玄関を開けてすぐのところに裏返っているセミを一瞥した母はそれを造作もなくむんずと掴むと夕闇の彼方へと放り投げた。み゛み゛っと短く鳴いたセミか空中で羽を広げ、そのままどこかへと羽ばたいていく。生きているとは思っていなかった私は反射的に声が出そうになるのを今度こそは抑えきれず、あまりの驚きに動悸を感じて胸に手をやっていた。
「セミファイナルじゃなかったね」
軽く手を払った母はそれだけ言うと何事もなく家の中へと戻っていった。
『鳥のように』
空を飛ぶ鳥が幼い頃から好きだった。だから軍艦よりも戦闘機が好きになった。戦闘機に乗ることが出来たなら鳥のように空を駆け巡れるし、お国のために敵機を撃ち落とすことだってできる。外国で戦っていた大人たちが華々しく凱旋してくるのを見たときには誇らしい気持ちになり、その夢に一層強く憧れたものだった。
人ひとり分としてはとても狭い操縦席に体を押し込めて耳を澄ませると、エンジン音に紛れてかすかに万歳三唱の声が聞こえてくる。滑走路から重たげな機体が地上を離れる感覚に憧れていた飛行機乗りになったという実感は湧いたが、心はつめたく冷えていた。
機体に積まれた爆薬と僅かばかりの燃料に鳥のような自由さは無く、迎撃用の機銃さえ積まれていない戦闘機では敵機を撃ち落とすことは不可能だった。目の前に広がる大空は青く美しいのに、それを美しいとも思えない。悲しいのかも分からず涙も出てこなかった。
燃料の底が見えてきた頃に特攻目標の軍艦も見えてきた。軍艦から放たれる対空砲にいくつもの翼が爆風に散っていく。思い残してきたことがいくつも脳裏を駆け巡り、空を飛ぶ鳥のように自由でありたかったと最後に思った。