わをん

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8/21/2024, 4:58:47 AM

『さよならを言う前に』

明日顔も知らない男の元へ恋人が嫁いでいってしまう。彼女の親からはもう会いに来るなと手切れ金まで押し付けられたけれど、それでも諦めきれずに会いたい気持ちが収まらない。気がつけば満月の明かりを頼りに彼女の屋敷の庭へと忍び込んでいた。
彼女の部屋のある二階のベランダの窓へと小石を投げ続けているとやがて窓がひっそりと開き、驚きと喜びと涙を浮かべた彼女がこちらを見つめていた。ふたりを隔てるものは目に見えない。互いにその壁がなくなってしまえばいいのにと思っていることは言葉を通さずとも明白だった。
すると彼女が何かを決意したような顔を見せて部屋へと戻っていき、また姿を見せるとひらりとハンカチを落とした。拾い上げたハンカチには走り書きがある。
“私を攫ってくれますか?”
目に見えない隔たりを彼女はぶち破ろうとしている。戸惑いや恐れよりも喜びが勝って、ただ頷いていた。
窓の下に最初に投げ込まれたのは空のカバン。それからいくつかの服や小物が投げ込まれて、最後には彼女がベランダを伝って降りてきたのを体で受け止めた。
「さよならを言いに来たのかと思いました」
「そんな言葉はもう失くしてしまったよ」
なんの隔たりもないふたりは思うだけ抱き合ったあとに、満月に導かれて歩き始めた。

8/20/2024, 4:20:54 AM

『空模様』

ジリジリと肌を灼くような熱気が黒土と芝生の広がる野球場を包んでいるのがテレビ越しにもよくわかる。地方大会を勝ち進み、全国大会へと進出した母校の野球部には想い寄せるひとがいて、そのひとがいつ映るともわからないせいで試合中はテレビの前から離れられない。
野球場へは気軽に応援に行くには遠く、天気予報も変わるほど。雨が降ったら洗濯物を取り込んでおいてねと母からの厳命に試合を応援しつつも窓の外から見える空模様も一応気にはしていた。目が離せない試合展開に手に汗握り、一時とはいえ危機を脱した瞬間に何か忘れている気がしてふと窓を見ると、先ほどより暗い雲の立ちこめた空から雨が勢いよく降りしきっていた。
弾かれたように立ち上がりドタバタと洗濯物を取り込もうとするのを阻むように試合が動きを見せ始める。早く取り込めばいくらでも見られる、と自身を奮い立たせたけれど、あの人がバッターボックスに立ち、大写しになった瞬間に完全に足が止まった。そして、よく晴れた青空に大きく打ち放った白球が映えてやがて柵を越えていくのを目撃した瞬間にすべての意識を野球場に持っていかれた私は、降りしきる雨のことと濡れそぼりゆく洗濯物のことなどすっかり忘れてしまうのだった。

8/19/2024, 6:27:57 AM

『鏡』

永遠の若さと美しさを追い求めた結果、人を捨てて人ではないものに成った。夜の社交場にも以前と変わりなく出られると思っていたけれど、由々しき問題のためにそうはいかなくなった。
その問題とは鏡を覗いても自分の姿が映らないこと。自分の身ひとつでは身だしなみを整えることすらできなくなった私は、仕方なくしもべを増やして髪を整える係を命じてみた。鏡に映らない以上自分だけでは判別がつかないけれど、どうやら壊滅的な出来栄えだということは手触りだけでわかった。
まずは教育からだ。人よりも知能の劣るしもべたちにセンスが良いとはどういうことかをみっちりと教え込むこと十年ほど。同じ要領で化粧をする係、服を選ぶ係を育て上げるのにさらに十年ほど。夜の社交場での実践を経て、どこに出しても恥ずかしくないしもべを育て上げられるようになった。
この数十年の間に美しさへの探究よりも育て上げることの喜びに目覚めた私は美容学校を起ち上げ、しもべのみならず普通の人に対しても広く門戸を開いた。
あれから何年が経っただろうか。今年も新入生達の前に現れ、年齢不詳の学園長としてどよめいた場の挨拶を締めくくる。
「鏡に映る美しさはもちろん、鏡に映らない美しさまでもを表すのです」

8/18/2024, 1:34:52 AM

『いつまでも捨てられないもの』

捨てたいと思いつつも捨てられなかった指輪。暗い夜の海辺に向かって腕を振りかぶったことがあるし、山裾に広がる樹海の茂みに紛れて落としてみようと思ったこともある。どちらもなぜか寸でのところで躊躇う気持ちが強く出て、結局今も手元に残っている。
指輪を贈ってくれた人はもういない。けれど自分の伴侶であったというわけでもない。交通事故であっけなくこの世を去ってしまった彼にはプロポーズの用意があったのだろうか。それともただの気まぐれだったのだろうか。何を思って私にこれを贈ってくれたのか、知りたいと思うけれど知りようがない。
彼がいなくなってからは何も手につかなくなり、あちらこちらを彷徨っては死に場所を求めていた。けれどどこへ行ってもなぜか人に見つかって保護されてしまう。気をしっかり持って。つらいことがあればここに電話しなさい。そう言ってもらったカードは溜まりに溜まり、手元の指輪と同じように捨てられないでいる。
今日もまた、手元にあるのは指輪と新たに貰った番号が書かれたカード。目の前に広がる硫黄の山からは水蒸気の煙があちらこちらから上がっており、観光客の姿もちらほらとある。異界の景色とはこういうものなのだろうかとぼんやり眺めていると隣に誰かが立つ気配があった。
「旅行ですか?」
「……えぇまぁ。そんなところです」
視線を上げる気になれず、景色を眺めたままで答える。
「僕も旅行なんです。連れにあちらこちらへ付き合わされてヘトヘトですよ」
ヘトヘトなのに付いて回るのは随分と惚れ込んでいるのだなと答えはせずに思う。返事も相槌も返さないのにその人はいろいろとよく話した。連れと呼ぶ人が常日頃から危なっかしいので目を離せないとか、行く先々でも危ないところへ行ったり物を落としかけたりするので気が抜けないとか、自分ひとりでは手が回らないから助けの人を探すのも大変だとか。
「……大変ですね」
「えぇ、それはもう」
つい返してしまった言葉にその人は万感こもった溜息を吐いた。
「だから今日はガツンと言おうと思ってるんです」
異界のような景色の中でいつの間にかその人と私は対峙していた。目の前にいるのは指輪をくれた彼だった。
「僕がいなくてもちゃんとしなさい!」
ハッと意識が立ち返ったときには目の前にも隣にも人の気配は無く、手元にある指輪からやけに重みを感じた。今までのすべてを理解した私は、言い逃げのような形になった彼に向かってありとあらゆる暴言を吐いた。その後には涙がこぼれて止まらなくなる。縋る先の指輪は何も答えず、けれどどこか温かみを感じられる気がした。

8/17/2024, 4:28:37 AM

『誇らしさ』

双子の兄はよくできた人だった。文武ともに優れていた自慢の兄に幼い頃から抱いていたのは誇らしさ。けれど齢を重ね、成人が近づくにつれてそれに比べてあの弟は、と囁く声に気づくようになった。自分は兄と比べて、世間一般と比べても凡庸であった。文武ともに中途で放り出してなにを成すでもない箱入り息子。囁かれる声は真実であった。
成人を迎えた兄は生まれ育った領地を家督を継ぐ形で治めることになり、私は僻地にある小さな飛び地を治めることになった。体の良い厄介払いだと誰もが理解していた。僻地へと向かう馬車を見送る際の兄の目にあったのは昔と変わらぬ慈愛。今の私が兄に抱いているのは、劣等感。けれどそれを兄に悟られたくないが故に目を合わせたくなかった。
「手紙を書くよ」
兄の声につい目をやると、別れを心から惜しむ涙が一筋見えた。私にも別れを惜しむ心はあった。けれどそれよりも早くここから立ち去りたいと願ってしまった。涙も流さず曖昧な返事だけを残して馬車が進み出す。
馬車の中で俯いた私はかつて抱いていた誇らしさがどこから変質してしまったのだろうと思い出せる限りの記憶を遡っていた。そんなことをしても無為であると知りながら、止め処無い記憶に溺れていった。

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