『さよならを言う前に』
明日顔も知らない男の元へ恋人が嫁いでいってしまう。彼女の親からはもう会いに来るなと手切れ金まで押し付けられたけれど、それでも諦めきれずに会いたい気持ちが収まらない。気がつけば満月の明かりを頼りに彼女の屋敷の庭へと忍び込んでいた。
彼女の部屋のある二階のベランダの窓へと小石を投げ続けているとやがて窓がひっそりと開き、驚きと喜びと涙を浮かべた彼女がこちらを見つめていた。ふたりを隔てるものは目に見えない。互いにその壁がなくなってしまえばいいのにと思っていることは言葉を通さずとも明白だった。
すると彼女が何かを決意したような顔を見せて部屋へと戻っていき、また姿を見せるとひらりとハンカチを落とした。拾い上げたハンカチには走り書きがある。
“私を攫ってくれますか?”
目に見えない隔たりを彼女はぶち破ろうとしている。戸惑いや恐れよりも喜びが勝って、ただ頷いていた。
窓の下に最初に投げ込まれたのは空のカバン。それからいくつかの服や小物が投げ込まれて、最後には彼女がベランダを伝って降りてきたのを体で受け止めた。
「さよならを言いに来たのかと思いました」
「そんな言葉はもう失くしてしまったよ」
なんの隔たりもないふたりは思うだけ抱き合ったあとに、満月に導かれて歩き始めた。
8/21/2024, 4:58:47 AM