『裏返し』
夕暮れに涼しい風の吹く頃に家へと帰り着くと、玄関先に一匹のセミが裏返っていた。反射的に声が出そうになるのをこらえ、どうにか視界に入れずに家へと入る方法を模索するがどう考えてもルート的に無理だった。
家には母がいるはずなので、インターホンを鳴らして出てきてもらい、ついでに排除してもらうのはどうだろうと脳内会議から意見が出て採用される。裏返ったままのセミに近づくのすら寒気が立つが、手を汚さずに家に入るためには手段を選んでいられない。
よそ行きの声を出しつつ現れたエプロン姿の母は、外に立っていたのが娘の私だと気づいて声のトーンが一段低くなった。それはさておき。
「お、おかあさん!セミどっかやって!!」
玄関を開けてすぐのところに裏返っているセミを一瞥した母はそれを造作もなくむんずと掴むと夕闇の彼方へと放り投げた。み゛み゛っと短く鳴いたセミか空中で羽を広げ、そのままどこかへと羽ばたいていく。生きているとは思っていなかった私は反射的に声が出そうになるのを今度こそは抑えきれず、あまりの驚きに動悸を感じて胸に手をやっていた。
「セミファイナルじゃなかったね」
軽く手を払った母はそれだけ言うと何事もなく家の中へと戻っていった。
8/23/2024, 4:08:34 AM