『裏返し』
夕暮れに涼しい風の吹く頃に家へと帰り着くと、玄関先に一匹のセミが裏返っていた。反射的に声が出そうになるのをこらえ、どうにか視界に入れずに家へと入る方法を模索するがどう考えてもルート的に無理だった。
家には母がいるはずなので、インターホンを鳴らして出てきてもらい、ついでに排除してもらうのはどうだろうと脳内会議から意見が出て採用される。裏返ったままのセミに近づくのすら寒気が立つが、手を汚さずに家に入るためには手段を選んでいられない。
よそ行きの声を出しつつ現れたエプロン姿の母は、外に立っていたのが娘の私だと気づいて声のトーンが一段低くなった。それはさておき。
「お、おかあさん!セミどっかやって!!」
玄関を開けてすぐのところに裏返っているセミを一瞥した母はそれを造作もなくむんずと掴むと夕闇の彼方へと放り投げた。み゛み゛っと短く鳴いたセミか空中で羽を広げ、そのままどこかへと羽ばたいていく。生きているとは思っていなかった私は反射的に声が出そうになるのを今度こそは抑えきれず、あまりの驚きに動悸を感じて胸に手をやっていた。
「セミファイナルじゃなかったね」
軽く手を払った母はそれだけ言うと何事もなく家の中へと戻っていった。
『鳥のように』
空を飛ぶ鳥が幼い頃から好きだった。だから軍艦よりも戦闘機が好きになった。戦闘機に乗ることが出来たなら鳥のように空を駆け巡れるし、お国のために敵機を撃ち落とすことだってできる。外国で戦っていた大人たちが華々しく凱旋してくるのを見たときには誇らしい気持ちになり、その夢に一層強く憧れたものだった。
人ひとり分としてはとても狭い操縦席に体を押し込めて耳を澄ませると、エンジン音に紛れてかすかに万歳三唱の声が聞こえてくる。滑走路から重たげな機体が地上を離れる感覚に憧れていた飛行機乗りになったという実感は湧いたが、心はつめたく冷えていた。
機体に積まれた爆薬と僅かばかりの燃料に鳥のような自由さは無く、迎撃用の機銃さえ積まれていない戦闘機では敵機を撃ち落とすことは不可能だった。目の前に広がる大空は青く美しいのに、それを美しいとも思えない。悲しいのかも分からず涙も出てこなかった。
燃料の底が見えてきた頃に特攻目標の軍艦も見えてきた。軍艦から放たれる対空砲にいくつもの翼が爆風に散っていく。思い残してきたことがいくつも脳裏を駆け巡り、空を飛ぶ鳥のように自由でありたかったと最後に思った。
『さよならを言う前に』
明日顔も知らない男の元へ恋人が嫁いでいってしまう。彼女の親からはもう会いに来るなと手切れ金まで押し付けられたけれど、それでも諦めきれずに会いたい気持ちが収まらない。気がつけば満月の明かりを頼りに彼女の屋敷の庭へと忍び込んでいた。
彼女の部屋のある二階のベランダの窓へと小石を投げ続けているとやがて窓がひっそりと開き、驚きと喜びと涙を浮かべた彼女がこちらを見つめていた。ふたりを隔てるものは目に見えない。互いにその壁がなくなってしまえばいいのにと思っていることは言葉を通さずとも明白だった。
すると彼女が何かを決意したような顔を見せて部屋へと戻っていき、また姿を見せるとひらりとハンカチを落とした。拾い上げたハンカチには走り書きがある。
“私を攫ってくれますか?”
目に見えない隔たりを彼女はぶち破ろうとしている。戸惑いや恐れよりも喜びが勝って、ただ頷いていた。
窓の下に最初に投げ込まれたのは空のカバン。それからいくつかの服や小物が投げ込まれて、最後には彼女がベランダを伝って降りてきたのを体で受け止めた。
「さよならを言いに来たのかと思いました」
「そんな言葉はもう失くしてしまったよ」
なんの隔たりもないふたりは思うだけ抱き合ったあとに、満月に導かれて歩き始めた。
『空模様』
ジリジリと肌を灼くような熱気が黒土と芝生の広がる野球場を包んでいるのがテレビ越しにもよくわかる。地方大会を勝ち進み、全国大会へと進出した母校の野球部には想い寄せるひとがいて、そのひとがいつ映るともわからないせいで試合中はテレビの前から離れられない。
野球場へは気軽に応援に行くには遠く、天気予報も変わるほど。雨が降ったら洗濯物を取り込んでおいてねと母からの厳命に試合を応援しつつも窓の外から見える空模様も一応気にはしていた。目が離せない試合展開に手に汗握り、一時とはいえ危機を脱した瞬間に何か忘れている気がしてふと窓を見ると、先ほどより暗い雲の立ちこめた空から雨が勢いよく降りしきっていた。
弾かれたように立ち上がりドタバタと洗濯物を取り込もうとするのを阻むように試合が動きを見せ始める。早く取り込めばいくらでも見られる、と自身を奮い立たせたけれど、あの人がバッターボックスに立ち、大写しになった瞬間に完全に足が止まった。そして、よく晴れた青空に大きく打ち放った白球が映えてやがて柵を越えていくのを目撃した瞬間にすべての意識を野球場に持っていかれた私は、降りしきる雨のことと濡れそぼりゆく洗濯物のことなどすっかり忘れてしまうのだった。
『鏡』
永遠の若さと美しさを追い求めた結果、人を捨てて人ではないものに成った。夜の社交場にも以前と変わりなく出られると思っていたけれど、由々しき問題のためにそうはいかなくなった。
その問題とは鏡を覗いても自分の姿が映らないこと。自分の身ひとつでは身だしなみを整えることすらできなくなった私は、仕方なくしもべを増やして髪を整える係を命じてみた。鏡に映らない以上自分だけでは判別がつかないけれど、どうやら壊滅的な出来栄えだということは手触りだけでわかった。
まずは教育からだ。人よりも知能の劣るしもべたちにセンスが良いとはどういうことかをみっちりと教え込むこと十年ほど。同じ要領で化粧をする係、服を選ぶ係を育て上げるのにさらに十年ほど。夜の社交場での実践を経て、どこに出しても恥ずかしくないしもべを育て上げられるようになった。
この数十年の間に美しさへの探究よりも育て上げることの喜びに目覚めた私は美容学校を起ち上げ、しもべのみならず普通の人に対しても広く門戸を開いた。
あれから何年が経っただろうか。今年も新入生達の前に現れ、年齢不詳の学園長としてどよめいた場の挨拶を締めくくる。
「鏡に映る美しさはもちろん、鏡に映らない美しさまでもを表すのです」