『いつまでも捨てられないもの』
捨てたいと思いつつも捨てられなかった指輪。暗い夜の海辺に向かって腕を振りかぶったことがあるし、山裾に広がる樹海の茂みに紛れて落としてみようと思ったこともある。どちらもなぜか寸でのところで躊躇う気持ちが強く出て、結局今も手元に残っている。
指輪を贈ってくれた人はもういない。けれど自分の伴侶であったというわけでもない。交通事故であっけなくこの世を去ってしまった彼にはプロポーズの用意があったのだろうか。それともただの気まぐれだったのだろうか。何を思って私にこれを贈ってくれたのか、知りたいと思うけれど知りようがない。
彼がいなくなってからは何も手につかなくなり、あちらこちらを彷徨っては死に場所を求めていた。けれどどこへ行ってもなぜか人に見つかって保護されてしまう。気をしっかり持って。つらいことがあればここに電話しなさい。そう言ってもらったカードは溜まりに溜まり、手元の指輪と同じように捨てられないでいる。
今日もまた、手元にあるのは指輪と新たに貰った番号が書かれたカード。目の前に広がる硫黄の山からは水蒸気の煙があちらこちらから上がっており、観光客の姿もちらほらとある。異界の景色とはこういうものなのだろうかとぼんやり眺めていると隣に誰かが立つ気配があった。
「旅行ですか?」
「……えぇまぁ。そんなところです」
視線を上げる気になれず、景色を眺めたままで答える。
「僕も旅行なんです。連れにあちらこちらへ付き合わされてヘトヘトですよ」
ヘトヘトなのに付いて回るのは随分と惚れ込んでいるのだなと答えはせずに思う。返事も相槌も返さないのにその人はいろいろとよく話した。連れと呼ぶ人が常日頃から危なっかしいので目を離せないとか、行く先々でも危ないところへ行ったり物を落としかけたりするので気が抜けないとか、自分ひとりでは手が回らないから助けの人を探すのも大変だとか。
「……大変ですね」
「えぇ、それはもう」
つい返してしまった言葉にその人は万感こもった溜息を吐いた。
「だから今日はガツンと言おうと思ってるんです」
異界のような景色の中でいつの間にかその人と私は対峙していた。目の前にいるのは指輪をくれた彼だった。
「僕がいなくてもちゃんとしなさい!」
ハッと意識が立ち返ったときには目の前にも隣にも人の気配は無く、手元にある指輪からやけに重みを感じた。今までのすべてを理解した私は、言い逃げのような形になった彼に向かってありとあらゆる暴言を吐いた。その後には涙がこぼれて止まらなくなる。縋る先の指輪は何も答えず、けれどどこか温かみを感じられる気がした。
『誇らしさ』
双子の兄はよくできた人だった。文武ともに優れていた自慢の兄に幼い頃から抱いていたのは誇らしさ。けれど齢を重ね、成人が近づくにつれてそれに比べてあの弟は、と囁く声に気づくようになった。自分は兄と比べて、世間一般と比べても凡庸であった。文武ともに中途で放り出してなにを成すでもない箱入り息子。囁かれる声は真実であった。
成人を迎えた兄は生まれ育った領地を家督を継ぐ形で治めることになり、私は僻地にある小さな飛び地を治めることになった。体の良い厄介払いだと誰もが理解していた。僻地へと向かう馬車を見送る際の兄の目にあったのは昔と変わらぬ慈愛。今の私が兄に抱いているのは、劣等感。けれどそれを兄に悟られたくないが故に目を合わせたくなかった。
「手紙を書くよ」
兄の声につい目をやると、別れを心から惜しむ涙が一筋見えた。私にも別れを惜しむ心はあった。けれどそれよりも早くここから立ち去りたいと願ってしまった。涙も流さず曖昧な返事だけを残して馬車が進み出す。
馬車の中で俯いた私はかつて抱いていた誇らしさがどこから変質してしまったのだろうと思い出せる限りの記憶を遡っていた。そんなことをしても無為であると知りながら、止め処無い記憶に溺れていった。
『夜の海』
夏には嫌いなものが多い。暑いのも嫌い。蚊が出てくるのも嫌い。納涼はいいけどなんで怪談話を繋げてくるのか。心霊特集も最近流行りのリアルなお化け屋敷も腹が立つほど嫌い。
「肝試しに海行こうぜ」
世の中で一番嫌いなもの、肝試し。お盆真っ只中の夏休みだと言うのに海沿いのオートキャンプ場でのバーベキューのために集まった大学の同級生たちの中から片付けもそこそこにそんなことを言い出すやつが現れた。
「俺行かない」
「んだよ、みんなで行くから楽しいんじゃん」
酒も入った陽気なバカの集まりになってしまった集団は人の脇を固めると話を聞かずにズルズルと引きずっていく。キャンプ場の明かりから遠ざかる一行はスマートフォンのライトを暗い海に向かって照らし、夜間遊泳禁止の看板も見えていないように進んでいく。
浜辺に人の姿は無く、暗い海の波間からは無数の手が伸びている。見えているのは俺だけなのか、ただ暗いだけだねなどとやや気落ちした声に怯えの色は見えない。肝試しをすると言い出したやつが場を盛り上げるために服を脱ぎだし、止める間もなく海へと入っていく。何やってんの、と笑い声が起こるが、笑っていないのは俺と海に入ってしまったやつだけ。無数の手が群がるように絡みついて海の只中へと消えていった。早く上がってこいよと呼びかける声に応えられるものはいない。
「警察呼ぶよ」
だから肝試しは嫌いなんだ。いつまでも海を見つめる同級生たちは何が起こっているのかをまだ処理しきれていないようだった。暗い海はいつもと変わらず穏やかに波を寄せては返していた。
『自転車に乗って』
近所のコンビニのアイスケースにはシャーベットもありカップアイスもありコーンアイスもある。眺めているとどれもこれもがいつもの何倍にも魅力的に映るけれど、帰り道を思うとやや憂鬱になる。
コンビニを出ると雲一つ無い青空にジリジリと容赦なく照りつける太陽が輝いており、激しい気温差に冷凍室育ちのアイスたちが悲鳴を上げるのが聞こえる気がしてくる。今助けてやるからな、と心で呼びかけて意気揚々とサドルに跨ったそのとき、炎天下に晒されていた愛車が牙を剥いた。ハーフパンツからはみ出た素肌がアツアツのサドルに噛みつかれてリアルに悲鳴が出そうになり、あやうく立ちゴケまでしそうになる。ここで倒れるわけにはいかない。アイスのために。小学生のとき以来の立ち漕ぎを駆使して難局を乗り切った俺は、そのままの勢いで行くときよりも早く家へと一心にペダルを漕ぎはじめた。コンビニ内の冷房で一旦は引いた汗が溢れんばかりに噴き出してくる。普段使わない筋肉が突然酷使されて攣りはじめてくる。過酷な旅路は今始まったばかりだった。
『心の健康』
ただいま、と誰からも返事が返ってこない一人暮らしの部屋の明かりを付けると、ダイニングの椅子に座る巨大なぬいぐるみからおかえりと声が聞こえてくる気がする。通勤カバンを置き、部屋着に着替えてメイクを落とし、それでようやくぬいぐるみに顔面からダイブすることができる。
「……落ち着く」
夕飯の支度をしなければ思いつつも、もう少し、もう少しだけと思ううちに半時間ほどは経過してしまう。けれどこれは心の健康を保つためには致し方ないことなのだ。
ぬいぐるみをお迎えする前は今よりもっと自堕落な生活を送っていたけれど、ある日のネットサーフィン中に巨大なぬいぐるみが目に止まった。気づけば指が勝手にポチっており、ぬいぐるみをお迎えするために散らかり放題だった部屋の掃除に次ぐ掃除をするに至った。自分のためにはがんばれなかったけど、誰かのためならがんばれた。私にとっての誰かは偶然のような必然のような形でここにやってきたぬいぐるみだったのだ。
次なるミッションは晩ごはんとぬいぐるみの写真をSNSにアップすること。名残惜しくも立ち上がった私にはぬいぐるみから送られた拍手が確かに聞こえていた。