『君の奏でる音楽』
会社の有志が集まり、ライブハウスを借りて定期的に行われているかくし芸大会。やる方も観る方も固定しがちでもうただの発表会と化していたのだが、中途採用で入ってきた新人さんが新たに演者として加わることになった。長年現れなかったニューカマーの登場にやる側には気合いがみなぎり、みな練習にも熱が入っていた。
そして当日。かくし芸大会なので何をやるかはやる方も観る方もステージが始まるまでわからない。幕が開いて舞台に現れた新人さんは緊張した面持ちで、笛を吹きます、と宣言した。出てくるのはフルートのような横笛なのか、クラリネットのような縦笛なのか、それとも尺八のような和楽器なのか、変化球でオカリナや篠笛なのか。みなが固唾を飲んで見守る中、取り出されたのはちくわ。楽器ではない練り物を笑っていいものかどうか戸惑う空気が流れたが、それを切り裂いたのはえも言われぬ澄んだ音色だった。一曲、二曲と演奏されるたびにちくわで涙する人があとを絶たない。やがてラスト一曲となり、ちくわから醸し出される最後の一音が余韻を残して消えていく。
「ありがとうございました」
新人さんが深々とお辞儀をすると拍手と喝采が渦を巻いた。涙を流した人たちはステージに駆け寄って握手を求め、新人さんはそれに真摯に応えていた。
それから後の演目はちくわで温まった客席と、ちくわに負けてはいられないという熱意で大いに盛り上がった。後に伝説の一夜と呼ばれることになったのは言うまでもない。
『麦わら帽子』
お盆の時期は父の実家に親戚一同が集まる。どの人が誰と兄弟なのか、誰のこどもなのか詳しく知らない中で仲良くしてもらっていた人がいた。父より年下でどうやら独り身でいわゆるちょい悪オヤジながら、こども相手にはひょうきんなところを見せる人だった。会えるのは決まって夏だったので麦わらでできたカンカン帽にアロハシャツ姿が見えると小さな頃には駆け寄っていたものだ。もう高校生なので行きたくない気持ちもあったけれど、あの人に会えるならと今年もやってきた。実家の祖父や祖母とそのきょうだい、叔父や叔母といとこたちに一通りあいさつをしていると声を掛けられる。
「よう、久しぶりだな」
今年もカンカン帽にアロハシャツ姿のおじさんが気さくに片手を上げた。もう高校生なので大人向けな対応をしてくれるかと思ったけれど頭を撫でくり回される。
「ちょっと!せっかくセットしてきたのに」
悪い悪いと言いながらも悪びれずに笑みを見せるおじさんは去年と比べると痩せているように思えた。
それから仏間で酒盛りが始まったのでそっと抜け出すと、抜け出た先でおじさんとばったり会った。ビールをよく飲んでいた記憶があるけれど片手にあるのは炭酸水。
「医者から酒止められてんだよ」
「体、どこか悪いの?」
「あぁ。体中全部悪いらしい」
ぐいと飲んでみせるけれどあんまりおいしそうでもない。
「好き勝手生きてきた罰が当たった、なんてオヤジからは言われちまったが、好き勝手生きて何が悪いって話だ」
炭酸水がビールみたいにどんどん減っていく。酔っ払いが管を巻いたようになってきたおじさんは、おもむろに被っていたカンカン帽を脱ぐと僕に手渡した。
「なぁ。この帽子もらってくれねぇか」
「えっ、でも」
「けっこういいやつなんだぜ、それ。大事にしてくれよ」
言葉を返す暇を与えずに立ち上がったおじさんは、そのままふらりとどこかへ行ってしまった。手元に残ったカンカン帽を見つめたり匂いを嗅いでみたりしたあとに被ってみるけれど、今着ている服ではあんまり似合わなかった。
次の年のお盆はおじさんを迎える形になった。僕はファッションの好みが少し変わって、今はカンカン帽が似合う服装を模索している。
『終点』
夏休みのある日、親の寝ている隙に財布からくすねたお金を持って兄妹ふたりで家を出た。夏休みに売り出されている全線乗り降り自由というきっぷを買って駅に来た列車に乗り込むと、いい思い出のひとつもない生まれ育った街が遠ざかっていく。列車の終点に辿り着いては遠くに行ける列車を探しまた終点まで乗り続ける。未成年ふたりの姿は昼間は怪しまれなかったけれど、夜になればなるほど視線を感じることが増えていった。
「君たち、どこへ行きたいの?」
最終列車のアナウンスが聞こえるホームに降り立つと声を掛けられた。振り向いた先が駅員さんなら走って逃げようかと思っていたけれど、そこにいたのは人ではなく、ぬいぐるみのようにふわふわとした生き物だった。後ろに隠れた妹がそのかわいらしい生き物を熱心に見つめている。自分もかわいらしさにほだされて、それまで誰とも話してこなかった旅路を口にしていた。
「……わからないです。とにかく家から逃げ出したくて、来る列車を乗り継いでここまで来ました」
「そうなんだ。ここまでがんばってきたんだね」
不意にかけられた優しい言葉にまぶたが熱くなって鼻がつんとする。我慢しようと思ったけれどふわふわした温かいものに体を抱きしめられて無理だと思った。妹は体いっぱい使ってふわふわとしたものに抱きついて笑っていた。
「次の列車に一緒に乗るかい?その列車が終点まで行ってしまうと、この世界ともお別れになってしまうけれど」
今日までいい思い出のひとつもなかった兄妹ふたりは迷うこともなく頷いていた。すると見たことのない色の列車がホームに音もなく滑り込んできて3人の前に停まる。一度だけ後ろを振り返ってその列車に乗り込むと、列車は来たときと同じように音もなく動き出し、そして終点に向かって真っ直ぐに進み始めた。
『上手くいかなくたっていい』
淹れたての紅茶を執事長が口に運ぶのをじっと見つめて評価を待つ。
「うん、美味しくないね」
「ど、どこがダメだったでしょうか……」
「うーん」
紅茶をもうひとくち口に運んだ執事長はカップをソーサーに置くと、全部かな、と執事見習いの僕にニコリと微笑んだ。
練習用の茶器を洗いながら溜息を吐く僕に食器を拭く執事長は笑いかけてくれる。
「まぁ、君は新人だからね。最初は上手くいかなくたっていいんだよ」
「はい……」
でもね、と執事長は続ける。
「上手くいかないままで放っておくのは良くない。人間、向上心が大事だよ」
拭きあがった練習用の茶器を手にした執事長はおもむろにお湯を沸かし、紅茶を淹れる準備をし始めた。僕のやっていた手順と違うところがいくつもあり、僕の知らない細かな技術が散りばめられている。そうして淹れられた紅茶は先ほど自分が淹れたものとは色も香りもずいぶんと違っていた。促されて口にすると味までも違う。
「すごく……美味しいです……」
「それは良かった」
満足気に微笑んだ執事長は誇らしげだ。
「執事長の向上心はどこから来たのですか?」
すると執事長は幾分遠い目をして言葉を探し、奥様のためだと言った。
執事長は現当主である奥様がまだ少女の頃にこの屋敷に雇われたのだという。そういえば奥様が執事長に対しては気安く接しているのを見たことがある。
「かつてのお嬢様に喜んでもらいたい一心が、今の私を形作っているんだ」
それを聞いて思い浮かんだのは今のお嬢様のこと。執事の中では一番の年下であるためにお嬢様との遊び相手になることは度々あり、ときにはお茶会に相伴することもあった。紅茶を美味しく淹れることができれば、お嬢様のお茶会の時間はきっともっと楽しくなることだろう。
「君にも、向上心の出どころがありそうだね」
「……はい」
見透かされているような言葉に照れながらも頷いた。
『蝶よ花よ』
私の大叔母は身の回りのことを自分で何ひとつできないひとだ。それなのに人の好き嫌いが激しいためにお手伝いさんを雇ってもすぐに追い出してしまう。そのために私は祖母から頼み込まれ、少ないながらも給金をもらって身の回りの世話をしていた。
大叔母の若かりし頃はとびきりの美人だったらしい。昔の写真と今を見比べても美貌は変わらず。しかしそれはとるべき齢を重ねないまま老いてしまったとも言える。
「私の若い頃は殿方からひっきりなしに声をかけられていたのよ」
社交界の華と呼ばれ蝶よ花よと持て囃された栄華も今は昔。今日も耳にたこができるほどには聞かされてきた自慢話を聞き流しながら一日の家事をなんとか終える。一人には身に余るぐらいに重い仕事ではあるけれど、辞めようとは一度も思わなかった。大叔母の少女のような可愛らしさは時折うざったく、しかし庇護欲を掻き立てられる。大叔母に恋をしてきた殿方の気持ちがわかると同時に、生涯を共にしたいとは思われなかったのだろうかと余計なことを思ってしまった。