わをん

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8/2/2024, 11:53:53 PM

『病室』

黄色い花瓶に据えられた花が萎れて項垂れている。自分で変える気力もなくもうずっとそのままにしてあるのを看護師が見かねて処分してくれた。
最後に身内が見舞いに来てからもう1ヶ月が経つだろうか。花なんて珍しいものを、といつもの調子で言ったときにいつものように黙りこくった彼女とはそれきりになった。いつものやりとりと思っていた。それがいけなかったのだろうか。
入院するに至ったのは好きなものを好きなように食べた結果だった。彼女に諌められたことも何度かあったような気がするけれど意に介さずにしていたらいつしか何も言われなくなってしまっていた。いつもの彼女を造ったのは自分だった。
看護師以外には誰も来ない病室でどうにかしてくれと当たり散らすこともできないぐらいに身体の不調が訴えかけ精神が削られてくる。何もかもがおまえのせいだと自分自身が問い詰めてきて苛まされる。
すまなかったと声に出しても黄色い花瓶に花は戻らなかった。

8/2/2024, 1:09:12 AM

『明日、もし晴れたら』

明日の夏祭りのために仕立ててもらった浴衣を見ながら、明日の天気予報を映すテレビをじっと見ている。明日の予報は曇り時々雨。このところの暑さが和らぐのは助かるけれど、夜店に行く頃には星が見えるほどには晴れてほしい。
夏休みに入る前にクラスの間で噂になっているおまじないを耳にした。その内容は夏祭りの開催される神社で星空の下で告白すると結ばれるとかなんとか。普段なら茶化す側だけれど、私には好きな男子がいたのでふうんと興味ないふりだけしておいた。
そして今の私はスマートフォンを手にしてメッセージを送る寸前でもだもだと迷っている。文面はもう打ち込んであるのであとは人差し指で紙飛行機のアイコンをタップするだけ。
“明日、もし晴れたら夏祭りに行かない?”
その一動作を断られたらどうしようとか、明日晴れなかったらどうしようとか、いろんな不安が降り積もって行動に移せない。天気予報は終わってニュース番組が始まる。ごはんよ、と声が聞こえて晩ごはんの時間になる。スマートフォンを見つめて返信を待つ時間から逃れるためにえいやと紙飛行機を飛ばした私は、そこから逃げるように晩ごはんの準備を手伝った。
“晴れてなくても行こう”
ロック画面に映った返信を見て私が心の中でガッツポーズをとるのはもう少しあとの話。

8/1/2024, 3:37:23 AM

『だから、一人でいたい。』

いずれここを離れる身だから誰とも仲良くなりたくなかった。実際には周りの人間が世話焼きばかりで絡まれては距離を詰められ、結果的に仲良くなってしまった。
ここを離れる日。来た時よりも増えた荷物と持たされた手土産やらで手が千切れそうになりながらローカル線のホームから見送りを受ける。体に気をつけてだの、ちゃんと飯を食えだの、いい人を見つけろだの、余計なお世話ばかり。けれど自分も仲良くなった人たちに思い思いの余計なことばかりを言ってみせると、言うようになったなとみんな笑い飛ばしてくれる。少ししんみりと静かになったあと、閉まるドアをお互いが涙ぐんで見つめていた。
泣くのを見られて慰められるのもイヤだったから一人でいたいと思っていた。ようやく一人になった列車の中、持たされた手土産に堪えていた涙がぼたぼたと落ちる。みんないい人たちだった。こんなに別れがつらくなるのならやっぱり誰とも仲良くなりたくなかった。もう見ることのないかもしれない車窓からの風景を見ながら、もう会うことのないかもしれない人たちのことを想っていた。

7/31/2024, 12:08:18 AM

『澄んだ瞳』

「まぁ、こんにちは。はじめまして」
老人ホームで穏やかに暮らす母からの何度目かもわからないあいさつには傷つくよりも安心する。いつ見ても険のある顔をしていた母は今では何にも恐れず何にも怯えていないためかいつでも機嫌の良い老人のひとりとなっていた。母につけられた傷は体の至る所にあるけれど、職員さんたちから親切にされて自分のことも娘のこともわからなくなった母は少女のように素直で愛くるしい。
「わたしにも娘がいたのよ。小さくてかわいくてねぇ」
目の前にいる娘のことを映さない澄んだ瞳は遠い日の美しかった記憶を見ていた。母にとってそれは美しかったのかと小さくてかわいい子の話を聞きながら思ってしまう。私にとって美しかった記憶はあっただろうかと考えてしまう。
「わたしのお母さんも、そんなふうに思ってくれたことがあったのかしらね」
母の体には私の祖母にあたるひとから受けたらしい傷がいくつも残っている。それは私が老人ホームに来るようになってから知ったことだ。澄んだ瞳はいつもそこで翳りを見せて、けれど明るく笑ってみせる。
何度目かもわからない明るい笑みに、今こそが美しい記憶になるのかもしれないといつも少しだけ悲しくなった。

7/30/2024, 12:24:11 AM

『嵐が来ようとも』

台風が近づきつつある我が家から外に出せと吠える犬が一匹。
お外危ないよ、と宥めても雨ひどいから明日ね、とすかしてもごはんの次に散歩が好きな柴犬3才は外に出たいと言って聞かない。正直、合羽を着込んでもずぶ濡れになることが決定的で、愛犬から犬ドリルを食らいながらの犬洗いコースも確定する散歩に繰り出す元気が我が家の雨戸閉めや植木鉢の収納で気力が削られた今は全然湧いてこない。誰か私の代わりに行ってくれる猛者はいないだろうか。
「俺が行く」
夏休み入りしている息子が玄関口に勇ましく立っていた。しかしその出で立ちはTシャツにハーフパンツ。
「そんな装備で大丈夫か」
「大丈夫だ、問題ない」
安全面も雨対策も全然大丈夫ではないけれどそう返した息子ははしゃぐ犬にリードを取り付けると玄関を開けて風雨の舞う中を颯爽と走り出していった。その背中を眩しく思い少し涙ぐみながら給湯器の風呂張りボタンをオンにする。
「無事に帰ってくるのじゃぞ……」
変わり果てた息子と充足感に満ちた愛犬が帰ってくるまでにやることはまだ残っている。萎えつつある気力を振り絞った私は大量のタオルを用意するためにまた立ち上がった。

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