『澄んだ瞳』
「まぁ、こんにちは。はじめまして」
老人ホームで穏やかに暮らす母からの何度目かもわからないあいさつには傷つくよりも安心する。いつ見ても険のある顔をしていた母は今では何にも恐れず何にも怯えていないためかいつでも機嫌の良い老人のひとりとなっていた。母につけられた傷は体の至る所にあるけれど、職員さんたちから親切にされて自分のことも娘のこともわからなくなった母は少女のように素直で愛くるしい。
「わたしにも娘がいたのよ。小さくてかわいくてねぇ」
目の前にいる娘のことを映さない澄んだ瞳は遠い日の美しかった記憶を見ていた。母にとってそれは美しかったのかと小さくてかわいい子の話を聞きながら思ってしまう。私にとって美しかった記憶はあっただろうかと考えてしまう。
「わたしのお母さんも、そんなふうに思ってくれたことがあったのかしらね」
母の体には私の祖母にあたるひとから受けたらしい傷がいくつも残っている。それは私が老人ホームに来るようになってから知ったことだ。澄んだ瞳はいつもそこで翳りを見せて、けれど明るく笑ってみせる。
何度目かもわからない明るい笑みに、今こそが美しい記憶になるのかもしれないといつも少しだけ悲しくなった。
7/31/2024, 12:08:18 AM