わをん

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7/31/2024, 12:08:18 AM

『澄んだ瞳』

「まぁ、こんにちは。はじめまして」
老人ホームで穏やかに暮らす母からの何度目かもわからないあいさつには傷つくよりも安心する。いつ見ても険のある顔をしていた母は今では何にも恐れず何にも怯えていないためかいつでも機嫌の良い老人のひとりとなっていた。母につけられた傷は体の至る所にあるけれど、職員さんたちから親切にされて自分のことも娘のこともわからなくなった母は少女のように素直で愛くるしい。
「わたしにも娘がいたのよ。小さくてかわいくてねぇ」
目の前にいる娘のことを映さない澄んだ瞳は遠い日の美しかった記憶を見ていた。母にとってそれは美しかったのかと小さくてかわいい子の話を聞きながら思ってしまう。私にとって美しかった記憶はあっただろうかと考えてしまう。
「わたしのお母さんも、そんなふうに思ってくれたことがあったのかしらね」
母の体には私の祖母にあたるひとから受けたらしい傷がいくつも残っている。それは私が老人ホームに来るようになってから知ったことだ。澄んだ瞳はいつもそこで翳りを見せて、けれど明るく笑ってみせる。
何度目かもわからない明るい笑みに、今こそが美しい記憶になるのかもしれないといつも少しだけ悲しくなった。

7/30/2024, 12:24:11 AM

『嵐が来ようとも』

台風が近づきつつある我が家から外に出せと吠える犬が一匹。
お外危ないよ、と宥めても雨ひどいから明日ね、とすかしてもごはんの次に散歩が好きな柴犬3才は外に出たいと言って聞かない。正直、合羽を着込んでもずぶ濡れになることが決定的で、愛犬から犬ドリルを食らいながらの犬洗いコースも確定する散歩に繰り出す元気が我が家の雨戸閉めや植木鉢の収納で気力が削られた今は全然湧いてこない。誰か私の代わりに行ってくれる猛者はいないだろうか。
「俺が行く」
夏休み入りしている息子が玄関口に勇ましく立っていた。しかしその出で立ちはTシャツにハーフパンツ。
「そんな装備で大丈夫か」
「大丈夫だ、問題ない」
安全面も雨対策も全然大丈夫ではないけれどそう返した息子ははしゃぐ犬にリードを取り付けると玄関を開けて風雨の舞う中を颯爽と走り出していった。その背中を眩しく思い少し涙ぐみながら給湯器の風呂張りボタンをオンにする。
「無事に帰ってくるのじゃぞ……」
変わり果てた息子と充足感に満ちた愛犬が帰ってくるまでにやることはまだ残っている。萎えつつある気力を振り絞った私は大量のタオルを用意するためにまた立ち上がった。

7/29/2024, 12:11:53 AM

『お祭り』

夜の広場に櫓が組まれ、吊り下がった提灯が盆踊りの輪を照らしている。太鼓と囃子は昔から変わらず、小さな頃に見様見真似で手足を動かしていたのが今では体に染み付いた踊りになっている。浴衣を纏った人の中には今はいない人たちもちらほらとおり、けれど皆気にせずにそれぞれの踊りを同じ調子で踊っている。
長い長いお囃子が終わりに近づく頃に最後まで踊っていたのは数えるほどにまばらな人数。祭りの終わりはいつも寂しい。とっぷりと暮れた夜の涼しさを感じながら次の夏に思いを馳せて帰り道を歩いていく。

7/28/2024, 12:16:21 AM

『神様が舞い降りてきて、こう言った。』

いつものようにくわで畑を耕していたとき、耳元で囁かれた気がして後ろを振り返ってみたがそこには誰もいない。収穫時を迎えてたわわに実る野菜を採る手を止めた家内が不思議そうにこちらを見つめていたのでなんでもないと声を掛けた。近頃そういった空耳が多くて妙に思っているが医者にかかるには山を越えなければいけないのもあり、それ以外の不調を特に感じていないのでほったらかしになっている。
とんぼを追いかける子を微笑ましく眺めてから畑仕事に戻ろうとしたが、見慣れない鎧姿の男が視界に入り緊張が走った。抜き身の刀を持ち髷が解けてざんばら頭となった男が幽鬼のように佇んでいる。ただの流れ者ならば介抱してやるところだが、正気の光とは思えない目をした男は刀を振りかぶって雄叫びをあげた。
争え、と声が聞こえて驚きや戸惑いで動けずにいた誰よりも早く動けていた。手にしたくわを男の脳天に振り下ろした後からはあまり記憶が定かではなく、家内や村の連中が腕に追い縋っていることに気づいてやっと意識が戻った。ざんばら頭の男は絶命していた。
村の婆様は国のあちこちで起こっている戦から逃れてきたのがあの男であり、おれが空耳のように聞いていたあの声はそのいくさばで囁かれていた声ではないかと言った。耳に入れば我を忘れて見たものを倒せと言う神様の声を、おれはたまたま耳に拾ってしまったのかもしれない。
「いくさばの神様は惨いことをしなさる」
落ち武者の亡骸は村の皆で丁重に葬った。くわを握っていた手に残った感触はそれから先もずっと残り続けた。

7/27/2024, 8:35:01 AM

『誰かのためになるならば』

私の血を材料にした薬を作りたいと、人間の男は言った。人魚の肉を食べれば不死の体を得ることができる。その噂が真実であると突き止めたその人は人魚の里へとやってきて一人ずつに頼み込んでは断られ巡り巡って私のところへとやってきたそうだ。里のはずれに住んでいる私には身寄りがない。彼が頼み込む先の最後の一人と知った私はなんのためにその薬を作りたいのかと尋ねた。彼は、長く続く戦争を終わらせたいのだと言った。肉に及ばずとも血にも傷を癒やし病を跳ね除ける力が備わっている。その血の力を増幅させる形で戦争へと向かう兵士たちに薬を配れば数に劣る我が国にも勝算が見いだせる。男が熱を入れて語った真摯な願いを聞き届けた私は男に協力するために里を離れることにした。もとより里からはつまはじきにされてきたようなものだから、ここにいるよりは誰かのためになれるのだとその時は嬉しさすら感じていた。
男に連れられ大きな工場の地下深くに押し込められ、腕に繋いだ管から血を採られるだけの日々がもう何日も何ヶ月も続いている。入れ替わり立ち替わり私の世話をする人たちにあの男に会わせてくれないかと何度か尋ねてみたがなにかと理由をつけられて会うには至らなかった。
ある日にふと思い立って別のことを尋ねた。
「あなたの国の戦争はいつ終わりましたか」
「この国の戦争はもう70年近くは起きていませんよ」
私の時間の感覚がおかしかったのか、男が私に語ったことがすべて嘘だったのかは今となってはわからない。それまで大人しく血を抜かれ続けていた私はその時にようやくいいように使われていたのだと気づき、力の限りに暴れ回った。地下深くから地上に至るまでのすべて壊して外へと出ると、何もなかった工場の周りは繁栄を極めた街となっていた。私の血は見知らぬ誰かのためとなっていたらしい。ならばそれをどうこうする権利が私にはあるのではないか。腕から血を垂らしながら私は街へと向かうことにした。

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