『夏』
ある年の7月に世界が終わるという噂が広まったことがある。その当時小学生だった私は成人する前に世界が終わるかもしれないということを同級生たちとよく話題にしていた。どこに逃げればいいか、どこに隠れればいいかをカウントダウンの差し迫る中でみなと考え、そういった話し合いのできないひとりきりの布団の中では涙ぐむことさえあった。
そしていよいよ迎えた世界の終わりの年の7月1日。緊張感の漂う毎日は一日また一日と日を重ね、結局何も起こらないまま7月31日を終えるという形で幕を閉じた。何も起こらず肩透かしを食らった私は無事に成人して年を食っておじさんになっていったけれど、いまだに7月になると何かが起こってしまうのではないかと少しだけ胸にざわめきを覚える。
図らずも今年の7月は同窓会がある。懐かしい噂話は話題に上がるだろうか。それとも、みなそんなことはとうに忘れてそれぞれの生活に没頭しているだろうか。いずれにしても楽しみなことである。
『ここではないどこか』
母が亡くなったときに父に訊ねた。母はどこへ行ってしまったのかと。父はここではないどこかへ行ったのだと言い、また母に会いたいとこぼした私に生きているうちには会えないのだと諭した。だからと言ってただ生きているだけでは会えないとも言った。
「おまえの生き方を母さんはここではないどこかからちゃんと見ている。だから、母さんに見られても構わないぐらい自信を持ってしっかり生きなさい」
父さんも同じようにしっかり生きるから、と震える声は強い目をして私の肩を強く抱いた。
あれから何年も経って父は天寿を全うした。父は立派に生き抜いたから、今ごろは母に労ってもらっていることだろう。私はいまだに道の途中にいる。父と母とに見守られながらしっかりと生きねばと気持ちを改めた。
『君と最後に会った日』
「こんにちは、はじめまして」
握手を求めてくる男の顔に見覚えはある。姿形も声も笑顔もよく見知った人物そのままだ。どうやら相手の記憶だけが初期化されているらしい。
「……よろしく」
宙ぶらりんになっていた右手にわずかに躊躇の混じった右手を差し出すと、握手に不自然な間が開いたことにこちらを窺うような気配を漂わせていた彼は晴れやかな笑顔になった。
「いやぁ、ごめんなさい。僕なにかやらかしたのかと思ってビビっちゃいました」
口調も人懐っこさもそのままなのかと戸惑いと諦めを抱く。
「いや、こちらの問題だ。すまない」
記憶が遡り、病床で窓辺を見ていた君との会話を思いだす。
「君をひとりで置いてくの心配だからさ、先生に置き土産を頼んだよ」
「土産なんてどうでもいい。どうにか生きられないのか」
「いろいろ手を尽くしてきた上での土産なんだよ。おとなしく受け取って。そんで、仲良くしてあげてね」
あれが“君”と最後に会った日となった。君の言っていた土産はまごう無く目の前の彼だろう。以前の君と同じように付き合いを続けていけば、以前と同じように親密になれるのかもしれない。けれど。
「……あのう、僕のことけっこう見てきますね?」
「……君は知り合いによく似ていてな。君を見ていると彼のことを思い出してしまう」
「そうですか。……大事な人だったんですか?」
「……ああ、とても」
気を遣われてか、そこで会話は途切れた。仲良くしてあげてね、と最後の会話が脳裏を掠めたが、胸のうちには君と過ごした日々がいくつも思い出されていた。
『繊細な花』
雪の結晶を初めて見たのは幼い頃のとても寒い日のこと。手袋の上にそっと落ちた雪の華はこれまでに見た何よりも精巧で美しい芸術品で、それが自然に存在していることに幼いながらも強い感動を覚えた。
その日からお絵かき帳やスケッチブックは雪の華だらけになり、冬が来るのを今か今かと待ちわびるこどもになった。雪がモチーフのアクセサリーを集めるうちに自分で作ればいいのかと思い立ち、細工キットや細かいナイフなどを揃えて試行錯誤を繰り返した。今ではネットショップでちょっとは知られているハンドメイドの人となったけれど、自分の作ったものがあの日に見た雪の結晶に並び立てているとはまだまだ思えない。
「冬が早く来ないかな~」
夏の蒸し暑い日をどうにか過ごしながら今日も手元から雪の華を造り出していく。胸に残る繊細な花をいつか完璧に再現できる日が来るまで。
『1年後』
空港から飛び立つ飛行機を見送ったのは1年前。海外出張へ向かった彼からは長くても2ヶ月ほどと聞いていたから一緒に行かなくてもいいだろうと考えていたけれど、やがて2ヶ月が経とうとする頃に出張の延長を知らされた。時差の関係で電話はたまにしかできず、やりとりはメッセージやSNSがほとんど。最初の頃のこまめな通知は次第に減っていき、不安になったし寂しくなったりもした。
そんな不安な心に2度目の延長が知らされる頃に彼からエアメールが届いた。紙で届く手紙なんてずいぶんと久しぶりで、わざわざレターセットをあちらで手に入れたのかと胸が温かくなる。懐かしい筆跡を読み進めていくと、忙しさでろくに私の相手ができていないのを気にしていることや、出張はおそらくまだ長引くこと、早くこちらへ帰りたいことなどがしたためてあった。読んだあとにはこれまでの寂しさや不安がすべて凪いでいた。メッセージで同じことを書かれていてもここまでの安心感はなかっただろう。
その日のうちにレターセットを買いに行き、厚めの便箋を初めてのエアメールで送ったのも思い出してみるともはや懐かしささえ感じる。1年前に飛行機を見送った空港で今は飛行機の到着を心待ちにしている。
彼とのエアメールの何度目かのやり取りにはこう書かれてあった。
“帰ってきたら、大事な大事なことを言います”
心の準備はたくさんしてきたけれど、いまだに心は落ち着いていない。