『落下』(ゼルダの伝説 ティアキン)
ハイラル城の上空に生きているのかいないのかもわからない姫様が現れ、地上へ向かって落ちていく。どうすれば空を速く駆けられるかはここに至るまでの道のりで身についた知識と技術が教えてくれるけれど、もう会うことも叶わないかもしれないと思っていた人が目の前にいて気が逸りそうになる。幾度となく空を巡り、空を渡ってきたのはきっとこの瞬間のためだったのだろう。地下遺跡の足場が崩れて姫様の手を掴み損なった記憶が蘇る。もうあの喪失感を味わいたくはない。今度こそはあの手を掴むのだと心が叫んだ。
『未来』
ほんの少しだけ未来が見えることがある、と昼休みに友人に打ち明けた。購買で買ったサンドイッチの包装と格闘しながら友人が尋ねてくる。
「見えるときもあるし、見えないときもあるってこと?」
「そう」
「へぇ~」
コンビニで買った5個入り薄皮あんぱんの包装を破っているさなかに突然に訪れた見えるときの前触れ。気づいて意識をやると、友人の持つサンドイッチの具がこぼれる場面が見えた。はっと意識を戻してとっさに手を伸ばすと地面に落ちるはずだったハムやゆでたまごが手のひらに乗ったが、自分の持っていたあんぱんがひとつ地面に転がってしまった。
「あぁ……」
「あー」
未来が見えたことで手に乗ったハムとゆでたまごを差し出すと、友人は悩んだ末につまんで食べた。
「その能力、磨いてもっと役に立てられるといいね」
拭いた手のひらの上に慰めのように友人のカバンから探り出されたキャンディがひとつ置かれる。
「ありがと。……がんばる」
打ち明ける前と変わらない接し方の友人に信頼感を覚えながら、奇しくも4個になってしまったあんぱんに手を伸ばした。
『1年前』
1年前の6月ももう今年が半年過ぎたのかと言っていた気がする。今年の抱負を思い出そうとするけれど何を決めたのか忘れてしまった。花見はしたのだったか、連休はどう過ごしたのだったか。1ヶ月前どころか昨日に何を食べたかの記憶もおぼつかない。
「年かな……」
日曜の夕暮れも近づく頃、ゴロゴロしながらテレビをエアコンの効いた部屋で眺めていると、買い物に出ていた妻とこどもたちが帰ってきた。
「お父さんたら、いつまでそんな格好してるの!今日は出かけるって言ってたでしょ」
「えぇ、そうだっけ」
「そうだよお父さん!早く髭剃って寝癖直して着替えて!」
「いつもみたいにビシっとして!」
たまの休みにゴロゴロダラダラするのが生き甲斐なのになぁと思いながら身支度を整えてリビングに戻ると妻もこどももきれいめな格好に着替えていた。
「えっと、今日何かの記念日?それか誕生日?」
「お父さん、去年も同じこと聞いてたね」
「忘れちゃったの?」
妻のほうを見ても微笑むばかりで答えを教えてくれる気配はない。1年前の今ごろに何があったか頑張って思い出してみると、ちょっと豪華な晩ごはんとケーキが出てきた日があった。同じようなことをこどもたちに尋ねて返ってきた答えは。
「……父の日?」
「あたり!」
「早く行こ!」
こどもたちにぐいぐい引っ張られながら玄関へ向かうのを、妻はおかしそうに笑っているのだった。
『好きな本』
こどもの頃に読んでいた絵本が好きだったけど、いつの間にか無くなっていた。こどもの頃に遊んでいたおもちゃも気に入っていた服も気づけば家からなくなっている。
母にどうして勝手に捨ててしまうの、とは聞いたことがない。一度似たような質問をして、だってもういらないでしょと答えられたことがあるから。もういらないのは母の都合だ。少しずつのこれはおかしいが積み重なってこの家を早く出たいになっていった。
一人暮らしをしたいという私を母は引き止めはしなかったけど、周りには不満を漏らしていたようだ。どうして直接言わないの、と思ったけれどあの母だからこの娘になったのだろう。結局聞かないままに時は過ぎた。
本屋に入ってあの頃の記憶を頼りに絵本を探してみると、私の好きだった本は今もまだ売られていた。手にとって眺めるけれど本の端々はきれいなまま。結局元に戻してその場を去る。私の好きな本がもうこの世にないことを、母が謝る日は来ないように思う。
『あいまいな空』
雨が降るでもなく晴れるわけでもないぐずついた曇り空を部屋に無気力に転がりながら憂鬱な気持ちで見ている。あの人のことが好きなのにいつまでも言い出せないでいる俺みたいな天気だった。お前はずっとこのままだよと言われている気がしてきて、そんなわけがあるかと身を起こした。
“今何してる?”とメッセージを入れて、返事を待つ時間から逃げるように家を出て歩く。気を紛らわせていたかったけどスマートフォンの通知を気にしてはポケットから出しては仕舞うのを繰り返して、何度めかのうちに手の中で通知を受け取ったときは取り落としそうになった。
“今ヒマ”
曇り空が画面を覗き込んでくるのを睨み返してメッセージを打つ。
“好きなんだけど、どうしたらいい?”
送信ボタンを震える指で押すと体中の熱がカッとあがった。今度は怖くてスマートフォンを見ていられない。足が向かう先はもうよくわからなくなっていた。
ふとポケットの中でスマートフォンが長く震える。それはメッセージではなく通話の合図だ。ディスプレイにはメッセージを送ったあの人の名前が映し出されている。
「も、もしもし」
「あー、送る人間違えて無い、よね」
「間違えてない、です」
「なんで敬語?」
ふふ、と笑う声が聞こえるので少しだけ緊張がほぐれる。
「今ヒマだからさ、どっかで会おうよ」
「えっ」
「ダメ?」
「ダメじゃない、」
「じゃ、準備できたらまたメッセする」
通話が切れた画面を見つめて立ち尽くしているとディスプレイに水滴がついた。あいまいだった空からついに雨が降り出して、あたりには湿気た土のような匂いが漂っていた。