『初恋の日』
初恋を覚えているかと聞かれて覚えていると答えたことはない。本当は覚えているが、甘酸っぱいと形容するほど優しい思い出になってはおらず、いまだ体のどこかで燻り続けているように思えている。多感な時期に悪気なく傷つけられたはずなのにその人のことを想う気持ちは消えてはくれずいつまでも忘れられない。
こじらせた青年からこじらせた大人になったある日にコーヒーショップでノートパソコンを開いていると初恋の人が来店した。いつまでも忘れられないこちらと違って、あちらには記憶の隅にも自分の姿はないのだろう。そう思っていたのだが。
「あんた、同中だったよね」
注文待ちのランプ下からズカズカと歩いてカウンターへとやってきた彼女。ふたりに周りの視線が降り注がれている。
「相変わらず冴えない感じね」
それだけ言うと注文の品を受け取り颯爽と店を出ていってしまった。視線に耐えられず何を見るでもなかったノートパソコンを仕舞って店を出ると彼女の姿はすでにない。
長らく思い出すことのなかった初恋の思い出とよく似た状況に彼女からの言葉が新たに突き刺さっている。今も昔も冴えない自分は、このままでよいのだろうか。未だ輝いて見えたその人のことをまた改めて想い始めた。
『明日世界が終わるなら』
仕事終わりの帰り道。同期とそんな話になった。映画なんかでよくある描写には助かるかもわからないのに遠くへ逃げようとする人たちが列をなして渋滞を作り出したりしている。
「そんなことするぐらいなら、美味いもん食って死にたいよな」
きょうの晩ごはんの買い出しに寄ったスーパーで食材を吟味し、おつとめ品として値引きシールが貼られたワゴンにも目を光らせながら巡回する。ひき肉が入っていたカゴの中に新たにナスが投入された。
「僕らの世界が明日終わるとしたら、最後の晩餐は麻婆茄子になるわけだ」
「他に食べたいものあったか?」
「そうだな……」
たまたま卵コーナーを通りがかって、高級な卵が目に付く。
「卵かけご飯かな」
いつも買う12個入りのものより倍以上も高い卵をじっと見ていると、それが手に取られてカゴの中に大事そうに入れられた。
「明日の朝も世界が無事だったら、お祝いに一緒に食おうぜ」
ほほえみながらレジ列へと向かう同期に後光が差しているかのようで思わず拝んでしまう。
きょうも一日が無事に終わろうとしている。明日も無事に一日が始まることを願いながら、未知の高級な卵かけご飯に想いを馳せた。
『君と出逢って』
君と出会う前の僕は食事に興味がなかった。菓子パンでもおにぎりでもカップラーメンでも腹が満たされればなんでもよかった。職場の同期として出会った君とそういう食生活をしているという話をしたとき、君の顔がどんどん険しいものに変わっていったのはなかなか面白かった。その日の仕事終わりにうちに来いと半ば強制的に連れられ、男の部屋の割には整った台所や手際の良い調理風景を見て異世界を見ているかのように思えたものだ。出来上がったのは肉野菜炒めと味噌汁。
「……なにこれおいしい」
素朴な素材だけの料理のはずが、これまで食べて来たどの飯よりも美味かった。そうだろうそうだろうと満足そうに頷く君は言った。
「おまえに食事への興味を教えてやる」
仕事終わりに君の家へ寄ってから帰るのが当たり前になり、泊まることもしばしば。職場の周りにはデキていると思う人もいたらしいけれど、否定できないぐらいには入り浸っていた。入り浸りのさなかに食事への興味は深まり、包丁を握ったこともない人生から人に何かを作って提供できるまでになっていった。
「この肉野菜炒め美味いな!」
「君と僕との思い出の味だよ」
そういえばそんなこともあったな、なんて言いながらビールを飲む君に釣られて冷蔵庫に缶ビールを取りに行く。
「今日泊まっていい?」
「おまえビール飲んだら絶対泊まるマンだな」
今日もごはんがおいしくてビールもおいしい。君と出逢って本当によかったと思う。
『耳を澄ますと』
新築一戸建てに憧れはあるけれど、収入の低さを思うと今は夢のまた夢。妻とこどもには苦労をかけるけれど中古の戸建てを借りることにして不動産屋さんへと相談に行く。いずれお金が溜まったら家を建てることを視野に入れて、なるべく安くかつ利便性の高い物件を探していた。
「最近は中古でも駅やスーパーが近ければ物件の取り合いになっていますので、そのご予算でご案内できるのはなかなか……」
「あの、事故物件ていうのあるじゃないですか。ああいったところなら安く借りられるんですよね?」
担当者は尋ねた瞬間から顔を曇らせたのであるにはあるようだ。予算内にどうしても抑えたい一心で渋る担当者にしつこく問い詰めると、やがて諦めたように折れて紹介してくれた。
「……内覧はなさいますか?」
「いや、値段的にここしかないのでここにします!」
担当者は何度も考え直したほうがいいと勧めたが、契約書にサインを済ませた。
引っ越しをして数ヶ月。広い戸建ての家には自分しかいない。妻とこどもは引越し前の下見のときからこの家には住みたくないと言い張って実家に帰ってしまった。寂しくて同僚たちを家飲みに誘ってみたがどうしてだか都合がつかなかったり、この家にたどり着いても体調を悪くして帰ってしまう。春だというのにやたらと寒い家でテレビをつけたりスマートフォンを握る気にすらなれず何をする気力も湧いてこない。きっと妻とこどもがいないせいだ。どうして自分に付いてきてくれなかったのだろう。
ひそひそと、どこかから囁き声が聞こえてくる。妙な物音が聞こえてくるのはこの家では普通のことだったので慣れてしまっていたが、今日はそれが人の声のように思えてならない。耳を澄ますと確かにそれは人の声で、それを聞き取ってしまったばかりにある気力が沸いてくる。立ち上がって台所に向かい包丁を取り出す。抜き身のままで家を出て、妻とこどもがいる実家へと向かい始める。
「どうして俺に付いてきてくれないんだ!」
他のことが考えられないほど、体に怒りが沸き上がっていた。
『二人だけの秘密』
お母さんが連れてきたあたらしい恋人はとても良い人そうに見えた。私と弟、それからお母さんもあの人ならあたらしいお父さんでも大丈夫だと信じて結婚したけれど、それから先はあまり良いものではなかった。お父さんの仲間だという人がどこからかやってきて家族以外の誰かが家にいることが増えた。お母さんはパートのお仕事を辞めて夜働くことにしたので帰りは遅く、タバコとお酒の匂いにまみれてボロボロになっていった。私と弟は学校に行っていたけれどいつもおなかを空かせていた。家に帰ると働いているようには見えない酒臭いお父さんがやたらと体を触ってくるのが嫌だったし、弟をぶったりするのも嫌だった。お父さんが来てからこの家はおかしくなった。
どうしたらお父さんをこの家から出て行かせられるだろう。弟とそんな話をよくするようになっていた。
「家を燃やすのはどうだろう」
「それだ」
それしかないと笑って言い合ったそのときの季節は秋。もう少し待てば残暑で暑い日も収まって肌寒い季節になっていく。家の中に石油ストーブが置かれるのを耐えながら待っていた。お母さんが働きに家から出て、お父さんの仲間が誰も居なくて、ストーブの前でお父さんが酔い潰れて眠る日が来るのをずっと待っていた。石油ストーブを倒して部屋が燃え上がるのを焦る気持ちを抑えながらも確認し、怪しまれてはいけないからと寒い夜にパジャマのままで、裸足のままで、大事なものを何一つ持たないまま家を出た。涙は出たけど弟が手をしっかりと握ってくれていたから大丈夫だった。弟は泣いてはいなかったけど固く口を結んで強く手を握っていた。燃え盛る家から燃え盛る人が叫びながら出てきた時にはふたりとも声を出せずにガタガタ震えたけれど、救助の甲斐なくお父さんは全身やけどが元で亡くなった。
家族の誰も弔意を持たない葬式が粛々と進められていく。
「あのときのお父さん、襲いかかってくるかと思った」
「俺も」
お父さんの仲間だという人は式場に現れたけれど、お母さんは毅然としてその人たちの世話になることを拒んだ。ボロボロになりつつもお母さんは密かにお父さんに保険を掛けていたらしく、しばらくは3人でちゃんと暮らせるよ、と笑って言った。前よりたくましく見えるお母さんは前よりずいぶんと年を取ってしまった。
「お母さんにあの夜のこと、言う?」
「言わない。お母さんはもしかしたら分かってるかもしれないけど、二人だけの秘密にしよう」
「……わかった」
喪服を着ている弟はなんだか少し大人びて見える。弟も私のことがそんな風に見えているのかもしれない。