『二人だけの秘密』
お母さんが連れてきたあたらしい恋人はとても良い人そうに見えた。私と弟、それからお母さんもあの人ならあたらしいお父さんでも大丈夫だと信じて結婚したけれど、それから先はあまり良いものではなかった。お父さんの仲間だという人がどこからかやってきて家族以外の誰かが家にいることが増えた。お母さんはパートのお仕事を辞めて夜働くことにしたので帰りは遅く、タバコとお酒の匂いにまみれてボロボロになっていった。私と弟は学校に行っていたけれどいつもおなかを空かせていた。家に帰ると働いているようには見えない酒臭いお父さんがやたらと体を触ってくるのが嫌だったし、弟をぶったりするのも嫌だった。お父さんが来てからこの家はおかしくなった。
どうしたらお父さんをこの家から出て行かせられるだろう。弟とそんな話をよくするようになっていた。
「家を燃やすのはどうだろう」
「それだ」
それしかないと笑って言い合ったそのときの季節は秋。もう少し待てば残暑で暑い日も収まって肌寒い季節になっていく。家の中に石油ストーブが置かれるのを耐えながら待っていた。お母さんが働きに家から出て、お父さんの仲間が誰も居なくて、ストーブの前でお父さんが酔い潰れて眠る日が来るのをずっと待っていた。石油ストーブを倒して部屋が燃え上がるのを焦る気持ちを抑えながらも確認し、怪しまれてはいけないからと寒い夜にパジャマのままで、裸足のままで、大事なものを何一つ持たないまま家を出た。涙は出たけど弟が手をしっかりと握ってくれていたから大丈夫だった。弟は泣いてはいなかったけど固く口を結んで強く手を握っていた。燃え盛る家から燃え盛る人が叫びながら出てきた時にはふたりとも声を出せずにガタガタ震えたけれど、救助の甲斐なくお父さんは全身やけどが元で亡くなった。
家族の誰も弔意を持たない葬式が粛々と進められていく。
「あのときのお父さん、襲いかかってくるかと思った」
「俺も」
お父さんの仲間だという人は式場に現れたけれど、お母さんは毅然としてその人たちの世話になることを拒んだ。ボロボロになりつつもお母さんは密かにお父さんに保険を掛けていたらしく、しばらくは3人でちゃんと暮らせるよ、と笑って言った。前よりたくましく見えるお母さんは前よりずいぶんと年を取ってしまった。
「お母さんにあの夜のこと、言う?」
「言わない。お母さんはもしかしたら分かってるかもしれないけど、二人だけの秘密にしよう」
「……わかった」
喪服を着ている弟はなんだか少し大人びて見える。弟も私のことがそんな風に見えているのかもしれない。
5/4/2024, 3:45:29 AM