わをん

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5/3/2024, 3:43:19 AM

『優しくしないで』

今まで調子こいてた罰が当たったのか、それともこうなるように出来ていたのか、お金も部下もオトコも居場所もすべて失ってしまった。都会デビューとして振る舞っていたすべてが否定されたように感じて、気づけばもう帰るまいと思っていた故郷の最寄り駅に降り立っていた。
駅からタクシーに揺られて辺鄙な町へと辿り着き、田植えの準備をする人たちからじろじろと伺う視線を感じながら実家の前まで歩いてきたけど、扉に手が掛からない。けれどひとりでに引き戸は開けられ、中から出てきたのは母だった。野良着に日除けの付いたつばの広い帽子を被って、農作業へと出かける格好をしていた。
「おかえり」
何も言わない私の手から少ない荷物を引き取って家の中へと戻る母。かつてひどいことを言ってこの家と町を出たはずだけど、何がそんなに嫌だったのか、何を言って飛び出したのかも覚えていない。いつの間にか戻ってきた母が私の傍で手を取っていて、どうしてだか涙が出る。
「小さい頃と泣き方が変わんないわね」
優しくしないでと言いたかったけど、喉が詰まって言葉が出ない。本当はずっと、誰かに優しくされたかった。

5/2/2024, 5:43:00 AM

『カラフル』

ガラスの足つき皿にディッパーで掬ったバニラアイスがポンと載せられてウエハースも添えられている。
「ねぇお母さん。これで終わり?」
続きがあると知っているから尋ねてみると、母はにんまりと笑って戸棚から魔法の粉を取りだした。チョコレートでできたカラースプレーに銀色のアラザンが振り掛けられておやつのアイスクリームが完成する。
「さぁ、召し上がれ」
「いただきます!」
母にはいろんなことを教えてもらった。魔法の粉を欲張って掛け過ぎるとアイスの味が台無しになるとか、おやつをもうちょっと食べたいと思うところで止めておくとお腹に優しいとか。
百円均一でも製菓材料が並ぶようになってから久しぶりに魔法の粉に遭遇した。懐かしさに釣られてスーパーでバケツサイズのバニラアイスとウエハースを買って帰る。カレースプーンで格闘しながら味気ない皿にアイスを載せ、正方形のシール付きウエハースを半分に割って添える。なんとも映えないアイスにカラフルな魔法の粉を振りかけてもおやつのアイスは映えないままだった。
「……でもおいしいな」
懐かしい味を望んで再現したそれは思い出の味がした。

5/1/2024, 12:27:17 AM

『楽園』

あんまりにもひどくつらい俗世が厭で、浄土へ行くことばかりを考えていたある日にいい召し物を着たお坊様が村へとやってきた。
「補陀落渡海へ行くものは居らぬか。ゆけば浄土へと誘われよう」
ふだらくなんとかという言葉に聞き覚えはなかったが浄土という言葉は夢に出てくるぐらいに望んでいたものだった。同じような考えで手を上げる者が何人もあり、中には一家総出で付いて行く者たちもいた。
村から出てさんざ歩いて辿り着いたのは海辺の寂れた村。立派とは言い難い船に全員乗れと促され、不安とともに揺れる木船へと乗り込んだ。最後に乗り込んだのはあのお坊様。身につけていたいい召し物は浜に残った小坊主に預けられ、自身は襤褸と荒縄を纏うだけ。しかもそれにはいくつも石が括り付けられていた。
「では沖へと参ろう。浄土はすぐそこにある」
船を見渡せば老若男女みな合掌の形に手を合わせている。そうしていないのは自分だけだった。浜辺が遠くなっていく。嫌だと叫ぶ声は誰にも聞き届けられなかった。

4/30/2024, 4:49:06 AM

『風に乗って』

グラウンドに集まったこどもたちの手には赤、黃、緑の風船が握られていて、繋がった糸の先には手紙と花の種が付けられている。先生の号令で一斉に手放された色とりどりの風船たちは浮き上がり、ひとつどころからそれぞれバラバラに空の高くへと舞い上がる。いつまでも風船を見つめていたこどもたちはやがて見えなくなるほどに昇っていった風船に想いを馳せ続けた。
風に流れる船たちは大いなる気流に乗ってどこまでも行く。山へ行きたいものは山へ、海へ行きたいものは海へ。宇宙へ行きたいものは宇宙へ。もう一度人に会いたいと願った船はその通りに遠く離れた街へ。
「どうしたの?何か見つけたの?」
長い旅の果てに柔らかな芝生に横たわっていた船は犬に見つかり、そして人にも見つかった。船は満足しながらその身を委ねていた。

4/29/2024, 6:22:56 AM

『刹那』

相手は構えていた刀を納めると長く息を吐いた。居合の構えだ。初手さえ間合いから外れれば勝機はある、と自分を鼓舞するが、僅かに鯉口を切る音が聴こえて汗が吹き出る。刀が抜かれるときを見逃してはならない、と目を皿のようにしてじりじりと相手の出方をひたすらに待つ。
しかし瞬きひとつの後に急激な寒気に襲われて視界がぐらついた。刀の振られる音に目をやると居合はすでに抜かれ、鞘に納められようとしている。地を踏みしめる感覚がない。ぐらついた体がいやに軽い音を立てて地面に転がっていく。あの刹那の間に一刀両断されていたのかと理解し、身から出る血が顔を浸していくのを感じとった。

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