『耳を澄ますと』
新築一戸建てに憧れはあるけれど、収入の低さを思うと今は夢のまた夢。妻とこどもには苦労をかけるけれど中古の戸建てを借りることにして不動産屋さんへと相談に行く。いずれお金が溜まったら家を建てることを視野に入れて、なるべく安くかつ利便性の高い物件を探していた。
「最近は中古でも駅やスーパーが近ければ物件の取り合いになっていますので、そのご予算でご案内できるのはなかなか……」
「あの、事故物件ていうのあるじゃないですか。ああいったところなら安く借りられるんですよね?」
担当者は尋ねた瞬間から顔を曇らせたのであるにはあるようだ。予算内にどうしても抑えたい一心で渋る担当者にしつこく問い詰めると、やがて諦めたように折れて紹介してくれた。
「……内覧はなさいますか?」
「いや、値段的にここしかないのでここにします!」
担当者は何度も考え直したほうがいいと勧めたが、契約書にサインを済ませた。
引っ越しをして数ヶ月。広い戸建ての家には自分しかいない。妻とこどもは引越し前の下見のときからこの家には住みたくないと言い張って実家に帰ってしまった。寂しくて同僚たちを家飲みに誘ってみたがどうしてだか都合がつかなかったり、この家にたどり着いても体調を悪くして帰ってしまう。春だというのにやたらと寒い家でテレビをつけたりスマートフォンを握る気にすらなれず何をする気力も湧いてこない。きっと妻とこどもがいないせいだ。どうして自分に付いてきてくれなかったのだろう。
ひそひそと、どこかから囁き声が聞こえてくる。妙な物音が聞こえてくるのはこの家では普通のことだったので慣れてしまっていたが、今日はそれが人の声のように思えてならない。耳を澄ますと確かにそれは人の声で、それを聞き取ってしまったばかりにある気力が沸いてくる。立ち上がって台所に向かい包丁を取り出す。抜き身のままで家を出て、妻とこどもがいる実家へと向かい始める。
「どうして俺に付いてきてくれないんだ!」
他のことが考えられないほど、体に怒りが沸き上がっていた。
『二人だけの秘密』
お母さんが連れてきたあたらしい恋人はとても良い人そうに見えた。私と弟、それからお母さんもあの人ならあたらしいお父さんでも大丈夫だと信じて結婚したけれど、それから先はあまり良いものではなかった。お父さんの仲間だという人がどこからかやってきて家族以外の誰かが家にいることが増えた。お母さんはパートのお仕事を辞めて夜働くことにしたので帰りは遅く、タバコとお酒の匂いにまみれてボロボロになっていった。私と弟は学校に行っていたけれどいつもおなかを空かせていた。家に帰ると働いているようには見えない酒臭いお父さんがやたらと体を触ってくるのが嫌だったし、弟をぶったりするのも嫌だった。お父さんが来てからこの家はおかしくなった。
どうしたらお父さんをこの家から出て行かせられるだろう。弟とそんな話をよくするようになっていた。
「家を燃やすのはどうだろう」
「それだ」
それしかないと笑って言い合ったそのときの季節は秋。もう少し待てば残暑で暑い日も収まって肌寒い季節になっていく。家の中に石油ストーブが置かれるのを耐えながら待っていた。お母さんが働きに家から出て、お父さんの仲間が誰も居なくて、ストーブの前でお父さんが酔い潰れて眠る日が来るのをずっと待っていた。石油ストーブを倒して部屋が燃え上がるのを焦る気持ちを抑えながらも確認し、怪しまれてはいけないからと寒い夜にパジャマのままで、裸足のままで、大事なものを何一つ持たないまま家を出た。涙は出たけど弟が手をしっかりと握ってくれていたから大丈夫だった。弟は泣いてはいなかったけど固く口を結んで強く手を握っていた。燃え盛る家から燃え盛る人が叫びながら出てきた時にはふたりとも声を出せずにガタガタ震えたけれど、救助の甲斐なくお父さんは全身やけどが元で亡くなった。
家族の誰も弔意を持たない葬式が粛々と進められていく。
「あのときのお父さん、襲いかかってくるかと思った」
「俺も」
お父さんの仲間だという人は式場に現れたけれど、お母さんは毅然としてその人たちの世話になることを拒んだ。ボロボロになりつつもお母さんは密かにお父さんに保険を掛けていたらしく、しばらくは3人でちゃんと暮らせるよ、と笑って言った。前よりたくましく見えるお母さんは前よりずいぶんと年を取ってしまった。
「お母さんにあの夜のこと、言う?」
「言わない。お母さんはもしかしたら分かってるかもしれないけど、二人だけの秘密にしよう」
「……わかった」
喪服を着ている弟はなんだか少し大人びて見える。弟も私のことがそんな風に見えているのかもしれない。
『優しくしないで』
今まで調子こいてた罰が当たったのか、それともこうなるように出来ていたのか、お金も部下もオトコも居場所もすべて失ってしまった。都会デビューとして振る舞っていたすべてが否定されたように感じて、気づけばもう帰るまいと思っていた故郷の最寄り駅に降り立っていた。
駅からタクシーに揺られて辺鄙な町へと辿り着き、田植えの準備をする人たちからじろじろと伺う視線を感じながら実家の前まで歩いてきたけど、扉に手が掛からない。けれどひとりでに引き戸は開けられ、中から出てきたのは母だった。野良着に日除けの付いたつばの広い帽子を被って、農作業へと出かける格好をしていた。
「おかえり」
何も言わない私の手から少ない荷物を引き取って家の中へと戻る母。かつてひどいことを言ってこの家と町を出たはずだけど、何がそんなに嫌だったのか、何を言って飛び出したのかも覚えていない。いつの間にか戻ってきた母が私の傍で手を取っていて、どうしてだか涙が出る。
「小さい頃と泣き方が変わんないわね」
優しくしないでと言いたかったけど、喉が詰まって言葉が出ない。本当はずっと、誰かに優しくされたかった。
『カラフル』
ガラスの足つき皿にディッパーで掬ったバニラアイスがポンと載せられてウエハースも添えられている。
「ねぇお母さん。これで終わり?」
続きがあると知っているから尋ねてみると、母はにんまりと笑って戸棚から魔法の粉を取りだした。チョコレートでできたカラースプレーに銀色のアラザンが振り掛けられておやつのアイスクリームが完成する。
「さぁ、召し上がれ」
「いただきます!」
母にはいろんなことを教えてもらった。魔法の粉を欲張って掛け過ぎるとアイスの味が台無しになるとか、おやつをもうちょっと食べたいと思うところで止めておくとお腹に優しいとか。
百円均一でも製菓材料が並ぶようになってから久しぶりに魔法の粉に遭遇した。懐かしさに釣られてスーパーでバケツサイズのバニラアイスとウエハースを買って帰る。カレースプーンで格闘しながら味気ない皿にアイスを載せ、正方形のシール付きウエハースを半分に割って添える。なんとも映えないアイスにカラフルな魔法の粉を振りかけてもおやつのアイスは映えないままだった。
「……でもおいしいな」
懐かしい味を望んで再現したそれは思い出の味がした。
『楽園』
あんまりにもひどくつらい俗世が厭で、浄土へ行くことばかりを考えていたある日にいい召し物を着たお坊様が村へとやってきた。
「補陀落渡海へ行くものは居らぬか。ゆけば浄土へと誘われよう」
ふだらくなんとかという言葉に聞き覚えはなかったが浄土という言葉は夢に出てくるぐらいに望んでいたものだった。同じような考えで手を上げる者が何人もあり、中には一家総出で付いて行く者たちもいた。
村から出てさんざ歩いて辿り着いたのは海辺の寂れた村。立派とは言い難い船に全員乗れと促され、不安とともに揺れる木船へと乗り込んだ。最後に乗り込んだのはあのお坊様。身につけていたいい召し物は浜に残った小坊主に預けられ、自身は襤褸と荒縄を纏うだけ。しかもそれにはいくつも石が括り付けられていた。
「では沖へと参ろう。浄土はすぐそこにある」
船を見渡せば老若男女みな合掌の形に手を合わせている。そうしていないのは自分だけだった。浜辺が遠くなっていく。嫌だと叫ぶ声は誰にも聞き届けられなかった。