わをん

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3/11/2024, 6:08:51 AM

『愛と平和』

戦争を終わらせることができれば平和な世の中を築ける。理想のために敵方の将を破り、我が国は勝利した。
国を治める立場になり、敗戦国にも目をかけていたのだが報復は突然に行われて妻は亡きものにされた。
「当然の報いだろう」
悪びれもせず言い放った者を目の前にして冷静さを保てるはずはなかった。
『他者を思いやる心があれば争いのない平和な世の中になる』
妻のよく言っていた言葉が脳裏を過ぎる。しかし床の血溜まりは広がり続けた。
「彼の国を滅ぼせば真の平和が訪れる」
その広がりはいずれ国土をも埋め尽くす。私は平和な世の中を作る方法をひとつしか知らなかった。

3/10/2024, 4:40:30 AM

『過ぎ去った日々』

施設の一画で老人が虚空に語り聞かせている。自らが若かりし頃の思い出を。老人は聞く者のいない思い出を繰り返し語る中で妄想を滲ませていき、やがて自らを一国の主だと思うようになった。誇りは高く、しかし寛大な国王なのだと目に生気を漲らせて施設の介護職員に語って聞かせた。
寛大な王以上に寛大な職員は突然に現れた王に対して自分を召使いだと思わせるように接した。他の職員もそれに倣った結果、召使いの数は2倍にも3倍にも増えて王はいつでも機嫌よく過ごせるようになった。
もともと老人だった王はいっときは溌剌としていたが数年の後には床に伏せがちとなった。
「わしはもう長くはない」
「そんな弱気な発言をなさっては、民が悲しみます」
「しかし自分のことは自分がよくわかっておる」
「王様……」
「長い間、よく付き合ってくれた。わしの国は、……わしの話は、もうじき終わりよ」
召使いが涙を溢れさせる間に王は眠りに落ち、崩御となった。国葬はしめやかに慎ましく執り行われた。
身寄りのない老人かと思われたが遺骨を引き取りたいという若者が施設を訪れた。
「あの、おじいちゃんはここではどんな感じでしたか?」
対応した職員の召使いであったときの記憶が昨日のことのように蘇る。
「最初ここに来たときはぼんやりとした人だったんだけどね……」
楽しげに、懐かしげに、召使いは過ぎ去った日々を語り始めた。

3/9/2024, 5:29:45 AM

『お金より大事なもの』

通学中の交通事故で息子は亡くなった。突然のことにうろたえて通夜と葬式のときの記憶があまりない。
示談の場で、亡くなった息子は慰謝料分の価値なのですかと加害者側の弁護士に問いかけてみたが苦笑いが返ってくるばかり。私では埒が明かないと判断されたのか、夫が代わりに対応して事後処理は終わってしまった。通帳に記載されるであろう息子の価値はたったの一行。私の空虚を何も埋めてくれない。
葬式から数ヶ月が過ぎると仏壇に手を合わせに来てくれる人たちもずいぶんと減ったが、ある日に見知らぬ女性が線香をあげさせてほしいと家を訪ねてきた。その人は遺影となった息子の写真を長く見つめると、やがてほろほろと泣きだした。慌ててハンカチを差し出して落ち着くまで傍にいてやる。息子の同級生だったという彼女は息子に対して想いを秘めていたようだった。息子のために泣いてくれる人の存在が嬉しくて泣けてしまう。私の空虚はそのとき確かに満たされていった。

3/8/2024, 2:58:28 AM

『月夜』

夜のランニングをするのにちょうどいい気候が戻ってきた。ウォーキングや犬の散歩をする顔見知りの人たちも戻ってきているらしく、挨拶を交わしたり、犬に吠えられて飼い主に謝られたりすることもたびたびある。
ランニングコースの折り返しを過ぎて目に入るのは空に浮かぶ月。冬の冴え冴えとした空気の鋭さは薄れて、うっすらぼやける朧月から春の気配が漂っている。じわりと汗ばみ、上着を抱えてまた走る。梅や水仙の香りが鼻をくすぐっては消えていった。

3/7/2024, 3:14:04 AM

『絆』

うちの犬は世界一の名犬だった。
仔犬の頃にうちにやってきて家族の上下関係を短い期間に見抜いた結果、母には絶対服従し、父にはおやつをよくせびりにいっていた。私は散歩に連れて行く係だったしボール遊びもよくやったしできょうだいのように思われていた気がする。
元気いっぱいだった犬はやがて足腰が弱って歩くことすらままならなくなり、ある日に眠るようにして亡くなった。犬の生きる時間と人の生きる時間の大きな違いを知り、ひとりっ子だったけれどきょうだいを失うことはこんなにもつらいことなのかと思った。
何ヶ月かが過ぎても火の消えたようになった我が家で母が声を上げる。
「また犬をお迎えしたいんだけど、どうする?」
悲しい気持ちはあったけれど父も私もお迎えしようと頷いた。保護犬の譲渡会をネットで探したり実際に出向いて見て回っていたが、ある時家族で訪れた先で3人ともの足が一匹の犬の前で止まった。
「なんか、めっちゃ似てるね?」
「なにがとか、どこがとかは言えないけど、確かに」
「なんだろ。なんとなくすごい似てる」
ケージの中の仔犬は不思議そうにこちらを見つめている。帰り道は3人と一匹になった。
うちには世界一の名犬がいた。あの子と築いた絆が縁となり、また新しい関係が紡がれようとしている。

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