『お金より大事なもの』
通学中の交通事故で息子は亡くなった。突然のことにうろたえて通夜と葬式のときの記憶があまりない。
示談の場で、亡くなった息子は慰謝料分の価値なのですかと加害者側の弁護士に問いかけてみたが苦笑いが返ってくるばかり。私では埒が明かないと判断されたのか、夫が代わりに対応して事後処理は終わってしまった。通帳に記載されるであろう息子の価値はたったの一行。私の空虚を何も埋めてくれない。
葬式から数ヶ月が過ぎると仏壇に手を合わせに来てくれる人たちもずいぶんと減ったが、ある日に見知らぬ女性が線香をあげさせてほしいと家を訪ねてきた。その人は遺影となった息子の写真を長く見つめると、やがてほろほろと泣きだした。慌ててハンカチを差し出して落ち着くまで傍にいてやる。息子の同級生だったという彼女は息子に対して想いを秘めていたようだった。息子のために泣いてくれる人の存在が嬉しくて泣けてしまう。私の空虚はそのとき確かに満たされていった。
『月夜』
夜のランニングをするのにちょうどいい気候が戻ってきた。ウォーキングや犬の散歩をする顔見知りの人たちも戻ってきているらしく、挨拶を交わしたり、犬に吠えられて飼い主に謝られたりすることもたびたびある。
ランニングコースの折り返しを過ぎて目に入るのは空に浮かぶ月。冬の冴え冴えとした空気の鋭さは薄れて、うっすらぼやける朧月から春の気配が漂っている。じわりと汗ばみ、上着を抱えてまた走る。梅や水仙の香りが鼻をくすぐっては消えていった。
『絆』
うちの犬は世界一の名犬だった。
仔犬の頃にうちにやってきて家族の上下関係を短い期間に見抜いた結果、母には絶対服従し、父にはおやつをよくせびりにいっていた。私は散歩に連れて行く係だったしボール遊びもよくやったしできょうだいのように思われていた気がする。
元気いっぱいだった犬はやがて足腰が弱って歩くことすらままならなくなり、ある日に眠るようにして亡くなった。犬の生きる時間と人の生きる時間の大きな違いを知り、ひとりっ子だったけれどきょうだいを失うことはこんなにもつらいことなのかと思った。
何ヶ月かが過ぎても火の消えたようになった我が家で母が声を上げる。
「また犬をお迎えしたいんだけど、どうする?」
悲しい気持ちはあったけれど父も私もお迎えしようと頷いた。保護犬の譲渡会をネットで探したり実際に出向いて見て回っていたが、ある時家族で訪れた先で3人ともの足が一匹の犬の前で止まった。
「なんか、めっちゃ似てるね?」
「なにがとか、どこがとかは言えないけど、確かに」
「なんだろ。なんとなくすごい似てる」
ケージの中の仔犬は不思議そうにこちらを見つめている。帰り道は3人と一匹になった。
うちには世界一の名犬がいた。あの子と築いた絆が縁となり、また新しい関係が紡がれようとしている。
『たまには』
仕事終わりにたまには酒を飲むのもいいかと街へと繰り出した。繁盛している酒場のテラス席で適当に頼んだ料理が届くと同時に見知らぬ男が前の席に腰を掛けた。
「やぁ、景気はどうですか」
会話をする気分ではないので答えずに酒に手を伸ばすと男は通りがかったウェイターに酒を頼んだ。
「ひとりで飲むのは味気ないでしょう」
やがて届いた酒を手元の樽に無理やりかち合わせて乾杯をした男は勝手気ままにべらべらと喋りだした。
「街を騒がせている連続殺人犯の話を知ってます?
切り裂きジャックの再来なんて雑誌なんかには書かれてますが、なんとも鮮やかな手口ですよねぇ」
食事をするところで話題にするには適さないにも関わらず男は嬉々として話し続けた。テラス席にいた他の客が一斉に離れていく。
「さっきも二つ隣の通りに警察が群がってたんで話を聞いてみればなんとまた同じ手口の犯行ときたもんだ!まさかの遭遇ですよ!俺はなんてツイてるんだろうと思いましたね!」
あらかた食事は食べ終わった。現場には野次馬たちも集まり始めている頃だろう。
「……二つ隣の通りの被害者は死んだのか?」
「え?えぇ、警察が言ってました。酷いやられ方だって」
「じゃあ、今日はもう打ち止めだ」
立ち上がって小銭をテーブルに投げてやる。跳ねる小銭を男は慌てて右手で押さえた。男の脇に周って口元を押さえ、その右手に“仕事”にも使った汚れたナイフを突き立てる。
「次は相手を見て酒をたかるといい」
首ごと頷いた様子を確認したので振り返らずに店をあとにする。飲み直したい気分だったが警察の数が増えてきたのでそうもいかなかった。
『大好きな君に』
墓参りには年に6回ほど行っていた。正月、春分、盆、秋分、君の命日、君の誕生日。今日はそのどれでもない日だけれど、報告したいことがあった。
君の命を奪った通り魔は有罪判決となり懲役刑が確定した。けれど模範囚になったとやらで刑期は短くなり、判決よりも早く社会に帰ってきた。それを許すことができなかった私は興信所などを頼って居場所を突き止め、何も言わずに後ろから刺した。事切れたのを確認してから自分で警察へ出向き、刑務所で服役した。
「これで思い残すことなくそちらへ行けます」
真新しい線香と真新しいろうそくに火をつけて手を合わせる。墓石は何も語らない。
生きる気力はすでに失われてしまった。立ち上がってからどこへ行こうかと考える。海がいいだろうか。山がいいだろうか。