わをん

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12/29/2023, 12:22:31 AM

『冬休み』

社会人の私たちはある朝に駅から学生服の子たちが一斉に姿を消す現象に遭遇し、そのときに初めてあの存在に思い当たる。
「冬休みか……」
通勤電車の人口密度が減り、おしゃべりで盛り上がる若い子たちがいない車内のなんと平穏なことか。つり革に掴まる人の眉間のしわが幾分薄らいでいるようにすら思える。
もうすぐ職場の最寄り駅へと電車が到着する。私たち社会人の冬休みはもう少しだけ先の話だ。同じ電車に乗る人たちみんなが無事に仕事を納められますようにと願いながら年末進行の業務が残る道を私は歩き始めた。

12/28/2023, 3:48:49 AM

『手ぶくろ』

同じクラスに好きな子がいて、彼は毎朝自転車で登校してくる。近頃めっきり寒くなったので装備がダウンジャケットとマフラーと軍手になった。
「軍手、寒くない?」
「めっちゃくちゃ寒い」
「なんで手ぶくろ買わないの」
「彼女がさぁ、手ぶくろ編んでるんだって」
だから買わないんだと彼は緩んだ顔で言った。編み物なんてめっちゃくちゃ時間のかかる作業をなぜ今になってやっているのだろう。ばかじゃないのか。と、言いかけたのを飲み込んでそれは楽しみだねなんて思ってもないことを言った次の週、とても落ち込んだ様子で彼が登校してきた。彼女に振られたとのことだった。
「ご愁傷さまです」
「めっちゃくちゃヘコむわ……」
冷たい空気に鼻先や耳を赤くさせながら軍手を外す彼。
「手ぶくろ、買ってあげようか」
「え、なんで」
「おまえのこと好きだから」
「えっ。……えっ?」
自分の顔が熱い。傍から見れば彼と同じぐらい顔が赤いのかもしれない。

12/27/2023, 3:43:22 AM

『変わらないものはない』

埃を被った学習机の引き出しを開けると大事に大事にしまい込んでいた宝物の数々が出てきた。つやを失って変色したキーホルダーに、白けてしまったプラスチックの人形。いい香りのするティッシュはもうただのポケットティッシュだ。部屋を見渡せば住み着いた小動物のふんでどこもかしこも汚れてしまっている。
「持っていく物、何かあった?」
「いや、なんもないね」
こども部屋を共用で使っていた兄はだよねぇと相槌を打って隣に並んだ学習机の引き出しを閉じた。
生まれ育った一軒家はもうじき解体されてその跡地には兄夫婦の新しい家が建つ。古びた思い出を捨て置くことに後ろめたさはあるけれど、いつかは手放すものなのだと誰に言うでもない言い訳をする。
玄関から外に出ると父が感慨深げな顔つきで家を見上げていた。つられて見上げた家は小さな頃と比べて少しだけ縮んで見えた。

12/26/2023, 3:35:27 AM

『クリスマスの過ごし方』

クリスマス時分にはスペシャルなケーキが人気でショートケーキのほうは今ひとつなので、余り気味のそれらをここぞとばかりに買い込んで実家へと向かう。去年のクリスマスにばあちゃんが亡くなった。3桁には届かないながらもピンピンコロリの大往生だったので悲しみ3、おつかれさま7ぐらいのあまり湿っぽくない葬式だった。戦前から令和を駆け抜けたばあちゃんは甘いもの好きで和菓子も洋菓子もいける口だったのだが、とりわけショートケーキが好物だった。
来客用の座布団がきちんと等間隔に並ぶ広い仏間は閑散としているが、明日になれば叔父さん叔母さんたちがお供えに最中やまんじゅうや洒落た焼き菓子なんかを持ってやって来るのでにぎやかしく、そして甘いものだらけになることだろう。
「俺からはこれです」
お皿に乗せたショートケーキに顔をほころばせるばあちゃんを思い浮かべながら、おりんを鳴らして手を合わせた。

12/25/2023, 3:40:57 AM

『イブの夜』 (フランダースの犬)

荒れ狂う吹雪がひととき治まり、厚い雲の切れ間から月明かりが降り注いだ。大聖堂の明かり取りの窓から差した一筋の光は祭壇画の全貌を顕わにさせ、幼いころからその絵をひと目見たいと願い続けていたネロの目に驚きの光が満ちた。月明かりそのもののような涙が一筋流れてきらめきながらこぼれて落ちる。傍らにうずくまるパトラッシュの冷たくなりかけた体を抱きしめながら、ネロは神に感謝の祈りを捧げずにはいられなかった。

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