今宵

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12/27/2024, 8:50:36 PM

『てぶくろ』


〝てぶくろあり〼〟
 ふとそんな立て看板が目に入り、私は足を止めた。
 そこは大通りを一本入った細い通りの道沿いで、時々車が通り過ぎる他に人通りはほとんどなかった。
 両隣の建物にぎゅっと挟まっているかのように間口が狭く、おそらく奥行きもそれほどない。
 木製の扉は滑らかにやすりがかけられた丸ノブがついていて、足元にある小窓からは温かい明かりが外にもれている。
 視線を上げると、突き出し看板が主張もなくそこに存在していた。
「──てぶくろ屋」
 初めての響きを、口に出して確かめてみる。
 ここは手袋の専門店なのだろうか。
 私はその店にとても興味を惹かれた。ちょうど新しい手袋を探していたところだったのだ。
 今、時刻はちょうど夕方を過ぎた頃だったが、表に立て看板が出てるのだから店は開いているのだろう。
 日が落ちた通りに冷たい吹き込み、思わず肩をすぼめる。
 私はコートのポケットに突っ込んでいた手を外に出して、店の入り口に伸ばした。

 扉を開けるとカランコロンと音がした。
 店に入ると他に客はおらず、店の造りは見回すまでもなくとてもシンプルだった。
 小さな店だから、そのスペースをいっぱいに使ってたくさんの手袋が並ぶのかと想像していたが、実際には店の幅と同じだけのショーケースが店の奥の方に1つあるだけだ。
「いらっしゃいませ」
 ショーケースの向こうに立つ店主らしき女性と目が合う。
 思わず、私はドキッとした。
 艶のある黒髪は肩の上でぷつりと切りそろえられていて、小さな顔は陶器のように澄んだ肌をしている。そして何より、彼女はこの上なく美しい顔立ちをしていた。それはまるで、誰かによって完璧に作られた人形なんじゃないかと思ってしまうほどに。
「寒い中、ようこそおいで下さいました」
 同性であるにも関わらず、その美しさから目を離せない私に向かって、店主が小さく微笑みかける。
 私は精一杯の気持ちで会釈を返す。
「てぶくろをお探しでしたら、どうぞこちらをご覧下さい。きっとお気に召す品があるかと思います」
 店主に促されるままに、私はショーケースの中を覗き込んだ。
 そこに並ぶ手袋は、数にして10にも満たない。
 だが、何故だろう──頭に疑問が浮かぶ。
 どうしてここにある手袋は全部片方だけなのだろうか。
 レイアウトとして手袋を片手だけ並べることはあるのだろう。だがおかしな事に、目の前の手袋はそれぞれ右手用だったり左手用だったりと、てんでばらばらに並んでいるのだ。
「あの……どうしてここには手袋が片手ずつしか置かれていないんでしょうか」
 そう尋ねた私に店主が再び微笑んだ。
「片方だけを必要とされているお客様がいらっしゃるからです」
 店主の言葉に頭をひねる。
 そんな客など本当にいるのだろうか。
 そう思いながら再びショーケースに視線を落としたその時、見覚えのある手袋が1つ、目に飛び込んできた。
「これ!」
 そこにあったのは、先日失くしてしまった手袋と全く同じ手袋だった。それも、私が失くしたのと同じ右手用だ。
 今日、私はこの店に新しい手袋を探しに入ったものの、本当は前の手袋のことを諦めきれずにいた。あれは昔、母に貰って以来とても大事にしていた手袋だったからだ。
 こんなことがあるなんて、と思うものの、目の前の片方の手袋は確かに私が1番欲しかった手袋だ。
 随分昔のことなので、もう手に入れることはできないと思っていた。失くさなかった方の手袋は、今もちゃんと家の押入れにしまってある。
「あの、この手袋を下さい」
 自然と声が弾む。
「かしこまりました」
 店主が手袋を綺麗な紙で丁寧に包んでくれた。
 私はその包みを、もう二度と失くさないようにしっかりと胸に抱きかかえる。

 店を出る時、彼女の言葉を思い出した。
 振り返って、店を見上げ、そして思う。
 ──この店がある理由が、今やっと分かった。

12/1/2024, 10:46:12 AM

『泣かないで』


 妻が飲酒運転の車にはねられた。
 電話口で警察官にそう告げられた俺は、急ぎの仕事を投げ出し、すぐに彼女が運ばれた病院へと向かった。
「——残念ですが」
 だが駆けつける間もなく、彼女は死んだ。医師が言うには、おそらく即死だったという。
 その瞬間、目の前が真っ暗になった。
 
「ねぇパパ、ママどこ?」
 クローゼットの奥から引っ張りだして着てきた喪服の裾を、息子の小さな手が引っ張る。
 無邪気に尋ねる息子のハルキを見て、葬儀に参列した人々からいたたまれないというような視線が飛んでくる。
「ハルくん、パパは今忙しいからばぁばとお外で遊ぼうか」
 俺と、隣に座る義母に気を遣ったのだろう。訃報を聞いて遠方から駆けつけた母が息子の手を引いて外に向かう。
 その姿を俺は虚ろな目で捉えた。
 あれは……春に入園式で来た服か。
 今さらながら息子の格好に気がつく。そして、その時の記憶が蘇った。

「ねぇ何してるの! 早くして!」
「うん、あとちょっと。もうすぐカメラの充電終わるから……」
「え!? まだ充電なんかしてるの!? 式、遅刻しちゃうよ!」
 入園初日の朝からそんなやり取りで妻に怒られながらも、どうにか式には間に合った。
 ついこの前まで赤ん坊だった息子が、照れながらも大人の顔負けの小さなスーツ姿で歩く様子を見て、感動の涙が止まらなかったのは妻ではなく俺の方だった。
「ちょっと、しっかりしてよ」と小声で呟く妻に、「ごめん」と鼻水まじりの声で返す。
 そんな俺を見て、妻は半分呆れながらも綺麗にアイロンのかかった淡い水色のハンカチを俺に差し出した。
「ありがど」
 そのハンカチで涙を拭きながら撮った息子のビデオは、ピントも中心もめちゃくちゃで、後で見返した時に妻からこっぴどく叱られることになった。
 その日の帰り道、彼女が言った。
「——ほんと、よかった」
「うん、最高の入園式だった。こんなふうにあっという間に大きくなっていくんだな」
「それはもちろんそうだけど、それだけじゃなくてさ」
「あ、朝ギリギリだったから? その件は本当に……」
「もう、そうじゃなくて! 保育園のこと、あらためてここに入れて本当に良かったなって」
「あぁうん、だね」
 家計のために共働きをすると決めていた俺達にとって、息子の通う保育園がなかなか決まらないことは、とても深刻な問題だった。
 このまま預け先が決まらなければ、どちらかが仕事をセーブしなければならないと話し始めた矢先、少し遠くの保育園に空きが出た。
 正直、本当はもっと家やお互いの職場に近いところが良かった。だが、贅沢は言っていられない。
 話し合った末、きっと大変なことも多いだろうけど、2人でどうにか協力してそこに通わせようと決めた。

 曜日ごとに保育園にお迎えに行く決まりを作ったはいいものの、それを実現するのはなかなかに大変だった。
 上司や同僚に頭を下げて早く帰らせてもらう代わりに、持ち帰ることの出来る仕事は持ち帰って、家で仕事をした。
 だが夜がどんなに遅かったとしても、朝も早く起きなければ仕事に間に合わない。
 仕事復帰直後にも関わらず同じく忙しそうな妻も同様に、心も身体もギリギリの日々がずっと続いていた。
『今日どうしても仕事で抜けられなくて、お迎え間に合いそうにないです。申し訳ないけど、代わりに頼めませんか』
 妻が亡くなった当日、俺は彼女にメッセージを送った。
『そんなこと急に言われても、私だって困るんだけど』
 そう言いながらも、彼女が俺の代わりにハルキを迎えに行ってくれることになった。
 そして、その道中で彼女は事故に合った。

 どうして妻が——
 何度そう問いかけても、妻は帰ってこない。
 加害者への深い憎しみと同時に、俺は自分自身も許せなかった。
 自分が迎えに行けば彼女は死なずに済んだ。まだ小さな息子から母親を奪ったのは俺自身なのだ。
 あの瞬間から、世界はずっと暗闇の中にある。
 隣ですすり泣く義母に掛ける言葉もなく、自分は泣くことも許されない。
 悲しみと憤りに包まれた葬儀場で、手を引かれ遠ざかる息子の背中に視線を送る。
 これからもっと大きくなるだろうあの背中を、妻はもう見られない。誰よりも見たかったはずなのに。
 そう思うともう息子の方を見ることも出来なかった。俯いて感情を押し殺すように唇を噛みしめる。
 音も、光も、何もかも届かない。
 いっそこのままそんな場所に閉じこもってしまいたい。
 そう思った瞬間、目の前に一筋の光が現れた。
 驚いて顔を上げると、そこには心配そうに顔を歪めた息子の姿があった。
「パパ、泣かないで」
 自分の方こそ泣きそうな顔をした息子がこっちを見て言う。
「ほら、泣かないで」
 もう一度そう言った息子の手には、水色のハンカチが握りしめられていた。入園式で妻が貸してくれたあの淡い水色のハンカチ。
 ハンカチを差し出す息子に、妻の面影が重なる。
 必死に堪えた涙も、もう止めることが出来なかった。
「ありがとう」
 そう言ってせきを切ったように泣き出した俺を見て、息子も声を上げて泣き始めた。
 俺はその泣きじゃくる小さな体をきつく抱きしめた。それは情けない父親に出来る精一杯のことだった。

「ハルキ、ごめんな。ママとはもう会えないんだ。でもね」
 息子の頬を伝う涙を妻のハンカチで拭う。
「でも、もうパパ、泣かないから」
 真っ暗な闇の中を照らすこの大切な光を守れるのは、もう俺しかいない。妻が残したこの優しさを、俺が守るのだ。

11/22/2024, 8:17:34 PM

『夫婦』


「——はい、全て問題なくご記入いただけてますね。では、こちらを受理いたします」
 カウンター越しに見えるのは初々しく微笑み合うカップル。そしてたった今、この瞬間から彼らは夫婦になる。
「おめでとうございます」
 私がそう言うと、2人は息ぴったりに「ありがとうございます」とこれでもかというほどに幸せな笑顔をこちらに向けた。
 手を繋ぎ立ち去る彼らの背を確認すると同時に、私は次のカップルを呼び出す番号を画面に表示させた。

 世界中どこの国でも、単なる語呂合わせで験を担いだりするものなのだろうか。
 少なくとも、11月22日で〝いい夫婦〟なんてものは日本語でしか通じないわけで、世界中でこの日をわざわざ選んで結婚するのはおそらく日本人だけだろう。
 縁起の良い日に結婚したいというならばまだ分かる。現に、この窓口がいつもより忙しくなる大安などの吉日は、大昔から今に至るまでの長きに渡って人々に受け継がれてきたもので、現代でも冠婚葬祭を中心に重要とされている。
 一方、それに比べたら〝いい夫婦の日〟などと決められたのはごくごく最近のことだ。大方、誰かが思いつきで勝手に決めただけの1日だろう。
 だが、私が何を思おうと、毎年11月22日になればこうして忙しさを極めるのが現実なのだ。

「おめでとうございます」
 これで今日何度目か数えるのも気が遠くなるほど、今朝から何度もこの言葉を口にしている。
 本当のところは、それを言う決まりがあるわけではない。単に手続きが終われば、「お疲れ様でした」で済ましてしまうことも出来る。
 だが、私はこう口にすることを自分の中で決めていた。ここに異動になって以来ずっとそうしてきたのだ。
 だから、今さらそれを変えるのはプライドが許さない。
——本当は私だって……
 顔には何も出さない。私の今日がどんな日であったとしても、彼らにとっては今日という1日が最高の日でなければならない。
「おめでとうございます」
 そう言って何度だって繰り返すこの言葉は、おそらく彼らにとっては人生でたった1度の言葉になるのだ。

「三橋さん、お昼行ってきて。僕、代わるよ」
「あ、はい。ありがとうございます」
 そう言えば、この早瀬さんも数年前の今日結婚したのではなかっただろうか。きっと今日の夜はあの綺麗な奥さんと結婚記念のお祝いをするのだろう。
 思えば、今日のような分かりやすい日に結婚をすれば、結婚記念日を忘れて大喧嘩——みたいな修羅場も世の中から減るのかもしれない。
 そんなことを考えながら階段を登り、食堂のある階まで上がる。
 今日は普段より遅い昼食になってしまったので、手頃な値段でいつも人気な日替わり定食は当然のように売り切れていた。
 割高にはなるが、仕方なく他のメニューを注文する。
 弁当にすれば少し食費が浮くのだろう。だが、弁当を1人分だけ作る気にはなれない。
 昔はよく弁当を作っていた。私の分と、彼の分の2つ。
 彼が転勤して今のように遠距離になってからは、私の分も作らなくなった。あれからもう3年が経つ。
 私だってこう捻くれたくて捻くれているわけではない。あの頃はまだ素直に人の幸せを喜ぶことが出来た。
 当時だって、彼と付き合ってからもう5年は経っていたはずだ。なかなかの長い付き合いだった。
 だが、すでに2人で一緒に暮らしていて、結婚はもうすぐそこだと思っていた。そんなふうだから、心にはまだどこか余裕があったのだと思う。

「転、勤……?」
「うん。最低でも2年はこっちに戻らないと思う」
 ある日、彼は私にそう話を切り出した。その時の私にとって、彼の言う2年という月日は途方もなく思えた。
「——私は……?」
「それは、もちろん瑠衣の仕事のこともあるし、瑠衣の決断を尊重したい」
 本当はその時、私は彼の意見が聞きたかった。実際にどうするかは別として、彼に「一緒に付いてきてほしい。だから結婚しよう」と言って欲しかった。
「仕事は……辞めたくない」
「——分かった……うん、そうだよね」
 彼はそう小さく微笑むと、カバン1つの荷物だけを手に、ここから遠く離れた場所に行ってしまった。
 そうして私が〝結婚〟の文字を自分から口にすることが出来ないうちに、彼との遠距離生活が始まった。

 それからは2、3か月に1度、お互いに交互に会いに行くようになった。前回は私が彼の住む街に行った。お盆休みを使って行ったので、8月に会ったのが最後だ。
 久しぶりに会うとはいえ何か特別なことをするわけでもなく、大抵はお互いの家で近況報告をしながらご飯を食べて終わる。
 この前はちょうどお盆休みだったので、珍しく私が彼の家に2泊することになり、久しぶりに2人で映画を観て、外食もした。
 どうせならと彼が予約してくれたのは検索した写真通りの雰囲気のいいレストランで、私は少し気合いを入れておしゃれをしてみた。
 ただ結局は、雰囲気がいいのはレストランだけで、私達の雰囲気はいつもと何1つ変わらなかった。
 そんなシチュエーションでさえ話に上がらないのだから、私はもう彼の口から〝結婚〟という言葉を聞くことを半ば諦めかけている。
 だからと言って、誰かの結婚を妬むのは間違っていると分かっている。この仕事なら尚更、公私ははっきりさせなければならない。
 だから私は今日も淡々と祝福を口にするのだ。
 私は食べ終えた後の食器を手に立ち上がり、午後の業務へと向かった。

 午前のうちにピークは越えたものの、やはり午後も婚姻届の受理を待つ列が途絶えることはなかった。
 そしてこういう日は特に、閉庁間際にも滑り込んでくる人も多い。
「すみません!」
 急ぐ足音と共に聞こえた声に、ほら来た、と思いながら顔を上げる。
「まだ間に合いますか!?」
 この辺りで着るにはまだ早いダウンコートのせいで額に大粒の汗を浮かべ、どこから走ってきたのか大きく肩で息をしている。
「——なんで……」
 カウンターに置かれた書類と、目の前に見る久しぶりの愛する人の顔を見比べる。
「だって今日は〝いい夫婦の日〟でしょ。僕は瑠衣といい夫婦になりたい。だから……この婚姻届を受理してください!」
 そう勢い良く頭を下げる彼に圧倒されて、私は言葉に詰まった。
 だって、今まで1度もそんな素振り見せなかったじゃん。しかもよりによって今日なの? もっと良い日は他にいくらでも……
 思うことはたくさんあった。
 でも、言いたいことは1つしかない。
「——はい」
 私の返事を待つように、いつの間にか沈黙が流れていたその場に大きな拍手と歓声が沸き上がった。
 嬉しさと恥ずかしさが入り混じって、顔が火照っていくのが分かる。
「あの、三橋さん」
 まだあちこちにざわめきが残る中、後ろから声がした。
「え、あ、はい」
 振り返ると早瀬さんがとぼけたような顔でこちらを見ている。
「もうすぐ本日の受付終了時間なんですが……見たところそちらの婚姻届には不備があるようです」
 そう言われてハッとした。すぐさま腕時計で時間を確認する。
 今日付で受理するには、あと10分も残されていない。
「ここは私が代わりますので、三橋さんはそちらの方の対応をお任せしてもいいですか」
 およそ半分が空白のままの婚姻届を手に、彼が丸い目をキョロキョロさせながらこちらの様子をうかがっている。
「ありがとうございます!」
 カウンターを抜け出して彼の手を取った私は、記入台に向かって駆け出す。

「はい、全て問題ないようです。ではこちらを受理いたします」
 早瀬さんの言葉に、彼が胸を撫で下ろすのが隣にいて分かった。
 手元から顔を上げた早瀬さんがこちらに微笑む。
「おめでとうございます」
 何度も繰り返したうちの1つだったはずのその言葉が、今の瞬間、私達にとってたった1度だけの言葉になった。
 私が少し視線を横に向けると、彼が優しく頷いた。
 そして、私達は揃って再び前を向いた。
「——ありがとうございます」

9/11/2024, 4:45:24 PM

『カレンダー』


「ん?」
 馴染みの古本屋で掘り出し物のミステリーを探していた私は、1冊の本を手に取り首を傾げた。
 色褪せた文庫本はおよそ300ページ。そのちょうど真ん中辺りに1枚の紙が挟んであった。
 最初は前の持ち主が栞代わりにでも挟んだのだろうかと思ったのだが、どうも腑に落ちなかった。
 紙といってもメモ用紙やコピー用紙でもなければ、スーパーのチラシやレシートなんかでもないのだ。
 4つ折りにされた紙を開いて私は思った。
 一体、誰がなぜカレンダーを本に挟んだのだろうか……
 上の方が大雑把に引きちぎられたようになった1ページ分のカレンダーは9月の日付で、いつの年のものかは書かれていないものの、日付と曜日の組合わせからして今年のものに間違いなさそうだった。
 このカレンダーはおそらく毎月ページを切り離してめくるタイプのカレンダーだ。だから、いらなくなった前の月のページを咄嗟に栞代わりにしたというのなら分からないでもない。
 だが、これはそういうことではない。
 なぜなら今は9月、しかも今日は9月が始まってまだ5日目なのだ。

 私は思わず、そのカレンダー付きの古本を店主のいるレジへ持っていった。どちらにしろ、ちらりと見た感じでその本自体に興味を惹かれていたのだ。まあ確かに、決め手は謎のカレンダーの存在だったのだが。
 店を出て家に帰る道を行きながら、再び本の間から先程のカレンダーを引っ張り出した。
 このカレンダーの持ち主は、まだ始まったばかりの今月をカレンダーなしで過ごすのだろうか。今の時代、スマートフォンがあればそう困ることもないのだろうが、そうまでしても本の栞になるものを必要としていたというのだろうか。
 ふつふつと疑問が湧き出すものの、答え合わせの方法は検討もつかない。
 ミステリー好きの性だろうか。店を出てからもずっとその謎が頭から離れなかった。
 いっそのこと、古本屋の店主にこの本の前の持ち主のこと聞いてみたいと思ったが、私がそれなりにあの店の常連とはいえ、さすがにただの客に個人情報を教えてくれるわけもないだろう。そもそも、まったく他の客がカレンダーだけを適当な本に挟んで店を去った可能性もあるのだ。
 ぐるぐると頭の中で考えを巡らせていたせいか、最短で家に帰るために曲がるべき角をいつの間にか通り過ぎていた。
 だが、そのお陰で私はあることに気がついた。
 古い家が並ぶ入り組んだ路地を抜けた先の大通りで、今まで隠れていた太陽が頭上に現れ、手元のカレンダーを照らす。
 あれ? と思った。
 カレンダーの9月12日——ちょうど今日から1週間後の欄に、わずかだが何か文字が消されたような跡がある。
 心臓が一度ドクンと強く打った。ようやく謎を紐解く手がかりを見つけたかもしれない。
 急いた気持ちで足がもつれそうになりながらも、できる限りの早足で私は家へと急いだ。

 本やドラマではよく見たことがあるが、実際に試すのは初めてだ。
 何かの景品でもらった新品の鉛筆を探してきて、唯一家にあった色鉛筆用の鉛筆削りで先をがりがりと削る。そして、元々何かが書かれていたであろうカレンダーの1か所をそっとなぞった。
 だが、なぜだろうか。いくら鉛筆を動かしても思ったように文字が現れない。それどころか、白い部分がただただ深い灰色に塗られていくばかりだった。
 私は静かに肩を落とした。
 どうせ文字が現れたところで何が起こるわけでもないのだ。落ち込んでも仕方がない。
 これも誰かにもらった新品の消しゴムの封を開け、鉛筆で塗った部分を綺麗に消しながらまた考える。
 その時ふと、買ったばかりの古びた本のタイトルが目に入った。
「——なるほど、その手があったか」

 それから1週間が経った9月12日の午前10時50分。私は駅前にいた。
 駅前の広場には私の他に待ち合わせと思われる人々が数人いて、彼らはスマホをいじりながら、時々誰かを探すように顔を上げた。
 私は空いていた広場のベンチに1つに腰を下ろし、カバンから例の古本を取り出す。
 買った日に1度読み終わり、その余韻のままその日に所々読み返したので、これでおよそ3周目ということになる。
 想像以上にこの本はとにかく面白かった。いや、それ以前に私の好みにどストライクだった。
 これが特に知られた作家の知られた作品というわけでもないことを考えると、カレンダーの持ち主とはもしやさぞ気が合うのではないかと思ったことも、私が今日ここに来た理由の1つだった。
 こうして来てはみたものの、本当に誰かが現れるかどうかは正直賭けだ。それに誰かが現れたとして、自分が何をしたいのかも実のところよく分からない。
 ただどうしても気になって、いても立ってもいられなくなってここまでやって来てしまった。
 緊張で速くなる息を整えようと、カレンダーを挟んだ本を一旦閉じ、顔を上げる。
 その瞬間、一人の男性と視線が合った。
 いや、正確に言うと、私は彼を見ていたが彼は私の持つ本を見ていた。そして元からまん丸い目を、より一層まん丸くした。
 ああ、この人がこの本にカレンダーを挟んだ人なのだ、と直感した。
『氷の摩擦』と書かれた本のタイトルと一緒に、ここに来る前に買ってきた『こすると消えるペン』を男性に見せると、彼は表情を崩して可笑しそうに笑みをこぼし、それから頷いた。

 この本のタイトルをカレンダーの謎と結びつけて考えなければ、私はここまで辿り着くことができなかっただろう。
 この類のペンで書いた文字は、摩擦で消えてしまったとしてもある程度冷やすことで元に戻るというトリックを以前他の小説で読んだことがある。
 それを思い出したのでカレンダーを一晩冷凍庫で冷やしてみたところ、予想通り文字が現れていた。
 タイトルが明らかにヒントになっていることからしても、誰かが意図的にこの謎を作って他の誰かに解かせようとしているのだろうと思った。
 当然怪しく思わなかったわけではなく、ここに来ることにまったく抵抗がなかったと言えば嘘になる。だが、謎を解きたいという気持ちの方が遥かに上回ってしまったのだ。

「もし、その本を気に入っていただけたのなら」
 大きく1歩くらいの距離まで近づいた時、彼は言った。
 ズボンの後ろポケットから彼が1冊の本を取り出す。
「僕とお茶をしませんか——」
 何度も読み込んだのであろう彼の手にある本と、これからもっと読み込んでいく私の手の中の本。
 本を胸の前に抱いた私はそこから小さく1歩踏み出す。
「——はい、ぜひ」

8/19/2024, 9:35:04 AM

『鏡』


 仕事を終え、スーパーで割引シールの貼られたお弁当を1つ買った私は家路を急いだ。金曜の夜だからといって寄り道はしない。
 駅から歩くこと10分。単身向けの2階建てアパートであるここ、「壽荘(ことぶきそう)」に住み始めたのはつい先月のことだ。
「ただいまー」
 玄関を上がり、真っ暗な部屋に明かりをつける。
 不動産屋で築40年と聞いた時は身構えたが、数年前にリフォームされたという部屋は築年数ほどに古い印象はなかった。1番の心配だった水回りも同様に綺麗にリフォームされており、風呂とトイレが別でこの家賃というのはとても魅力的だった。今思えば、その魅力的すぎる条件を少しは疑うべきだったと思う。
「随分と遅かったな」
 ひとり暮らしの部屋、本来なら聞こえるはずのない声が聞こえる。もちろん、今この部屋には誰もいない。
「すみません、来週の会議の準備でバタバタしてて」
「それはご苦労だったな。それはそうと、例の物の場所は分かったかい?」
「はい。大家さんに住所のメモをもらいました」
 カバンの中のファイルから1枚のメモを取り出した私は、鏡台の前に腰を下ろした。
 以前は畳だったという床には、今はフローリングが敷かれている。数着しか服の入っていないクローゼットも、元は押し入れだったらしい。すっかり洋風に生まれ変わったこの部屋に、このいかにも和風な鏡台は明らかに馴染んでいない。
「明日、この住所に行ってみます」
 目の前の鏡に向かってメモを見せながら、そう口にする。
 他の人が見たら間違いなく奇妙な行動––––いや頭のおかしい人の行動に見えるだろう。
 だが、私の頭は正常のはずだし、私は至って真剣なのだ。

 翌日、朝早くに家を出た私はメモの住所を目指して電車に飛び乗った。1時間ほどで着くらしい。
 生まれてこの方、私は私のことを凡人の中の凡人だと思ってきた。育った環境や経験してきたこと、容姿やスペックや性格。特に秀でるものもなければ劣るものもなく、人並みに幸せと不幸を繰り返してきた。
 そんな凡人である私にとって、不思議なものとの縁というのは今までにあるはずもなかった。だから、鏡台の鏡の中から幽霊の声がした時の私は、今までにないほど驚いた。
「君は、わしの声が聞こえているのかい」
 その声は明らかに部屋の中、いや鏡の中から聞こえていて、隣の部屋の声という感じではなかった。
「聞こえるなら返事をしてくれんか。悪いことはせんと約束する」
 聞こえないフリをするべきか迷っていた私だったが、その言葉に恐る恐る頷いた。
「そうかそうか。やっと話の通じる相手がここに来たか」
「あの、えっと……」
「あぁ、すまんすまん。わしは名を彦三郎。歳は100といくつだったか……いや、幽霊が歳を言っても仕方がないな」
「ゆ、幽霊……?」
「あぁ、そうだ。あの世に行くこともできず、こうして鏡に閉じ込められた情けない幽霊さ」
 信じられないような出来事に言葉を失う私に向かって、彦三郎さんはこう言った。
「ここは1つ、哀れな年寄りの幽霊に手を貸すと思って、わしの頼みを聞いてくれないだろうか」

 電車を降りてからは、地図を頼りに歩いた。約束の時間にはどうにか間に合いそうだ。
 彦三郎さんに探してほしいものがあると頼まれた私は、電車に乗ってこうしてここまでやってきた。今から向かうのは、あの鏡台の元々の持ち主の息子さんの家だ。
 鏡台は持ち主であるおばあさん──光枝さんが亡くなったあとも、鏡台はずっとあの部屋に置かれたままになっていた。引き取り手もおらず、処分するにはもったいないような立派なものなので、住人が自由に使えるようにと大家さんがそのままにしたらしい。
 彦三郎さん曰く、死んだあと幽霊としてあの部屋に棲みついた彼は、光枝さんと彼女が雇ったという霊媒師の手によって鏡の中に閉じ込められてしまった。鏡から出るには鏡を割るか、彦三郎さんを鏡に閉じ込めるのに使ったという小さな箱が必要なのだという。
 あの部屋に住人が変わる度に彦三郎さんは声をかけたり、音を立てて存在を知らせようとした。きっとそのせいで家賃が格安になっているのだろう。
 なぜか第六感があるわけでもないのに彦三郎さんと話ができた私に向かって、彼は鏡を割ることだけは絶対にしたくないと言った。そこで私は、光枝さんの遺品を管理する彼女の息子、幸彦さんを訪ねることになった。

「初めまして、田代と申します。生前、光枝さんには大変お世話になりました」
「そうでしたか。ご丁寧にありがとうございます」
 本当は光枝さんとの面識は全くない。だが、見ず知らずの人の遺品から物を探すわけにもいかないので、彼女に預けたものを取りに来たという体で話を通すことにした。
 申し訳ない気持ちでいっぱいだが、ここは彦三郎さんのためにも腹を括るしかない。
「それで、母が預かっていたものとは」
「はい。あの、小さな桐の箱なんですが、紙で封がしてあって」
 彦三郎さんから聞いた情報を伝える。
「あぁ、そういえば。見た覚えがあります。母の物はほとんど捨てずに2階に置いてますので、今探してきますね」
 幸彦さんは私の話に疑いを持つ素振りもなく、とても親切で、すぐにその箱を探して持ってきてくれた。
「これで間違いないですか」
 彼の手にある箱は彦三郎さんの行った通りの大きさ形で、紙で封がしてあることから言っても間違いなさそうだった。
「はい、そうです。ありがとうございます」
「いえいえ。こちらこそ生前の母と親交のある人が訪ねてきてくれてありがたいです。実を言いますと、亡くなる少し前の頃は母のことが少し心配でね」
 苦笑いを浮かべる彼に、「え?」という表情を返す。
「いやぁ、おかしな話だと思われるかもしれないんだけど——」
 20年ほど前、光枝さんは当時一緒に暮らしていた旦那さんとともに災害に見舞われた。幸い彼女は一命を取り留めたが、旦那さんと、その旦那さんと長年住み続けた家を一度に失うことになった。
 その後、今私が住んでいる壽荘に住まいを移した光枝さんだったが、しばらくして息子である幸彦さんにおかしなことを言い始めたらしい。
「家に幽霊がいて、あまりに騒がしくされて困る。誰かいい人を紹介してくれないだろうか——」
「しょうがないんで知り合いのツテを頼って詳しい人を紹介してみたら、そのあとから母はピタリとそういうことを言わなくなりまして」
「そうなんですね……」
 話を聞いた私はおおよそのことを理解した。彼が頼んだというその人が、彦三郎さんを鏡に閉じ込めたという"霊媒師"なのだろう。
「父が亡くなったのも突然のことでしたし、何しろ2人は仲が良すぎるぐらいでしたから。母はさぞかしショックを受けていたと思います。唯一手元に残った父との思い出の鏡台は、亡くなるまでずっと大切にしてたと聞きましたし……」
「あの、その鏡台なんですが。実は今、私が使わせてもらってます」
「そうでしたか。それは良かった。私が使えるものでもないので、あなたのような人に使ってもらえて母も、それから父も喜んでいると思います」
「そう言っていただけて嬉しいです。大事に使わせていただきます」

「あの、1つお聞きしてもいいですか」
 箱を受け取った帰り際、私は最後に尋ねた。
「お父様のお名前って……」
「あぁ、父の名前は————」

「ただいま」
「おかえり。あれはその、見つかったかい」
「はい。これです」
 桐の箱を鏡に向ける。
「あぁ、あったかい。そうかい。ついにこの時が来たんだね」
 嬉しそうで、でもどこか寂しそうな声。
「あの、彦三郎さん。この箱を開けたら、彦三郎さんは鏡から出られるんですか」
「あぁ」
「そうなったら……そうなったとしたら、彦三郎さんはどうなるんですか」
「わしはそうだな——」
 彦三郎さんが考える間、静かな部屋に音はない。
「もうこの世に未練はない、だろうな」
「それはこの世にもう光枝さんがいないから……ですか」
「な、なんでそれを……いや、そうか。そりゃ分かるだろうな。まぁ本当はあいつと一緒にあの世に行くはずだったんだ。だがそれを待つ間、ここで誰にも気づかれないのは暇でな。それであいつにちょっかいを出すようになったらこのザマだ」
 彦三郎さんが声を上げて笑う。
「光枝は得体のしれない幽霊をその箱に閉じ込めたと思っているだろうが、実際は何の手違いか鏡台の鏡に俺を閉じ込めたんだからな。まぁちょうどいい冥土の土産話だな」
「——やっと光枝さんに会えるんですね」
「あぁ。そうだな」
 この部屋で、彦三郎さんの存在に気づかないままの光枝さんにちょっかいを出し続ける姿を思い浮かべると、微笑ましさと切なさで胸がキュッとした。
「箱、開けていいですか」
「ああ、頼むよ」

 封を切り、桐の箱開けると、眩い光が部屋に広がった。一瞬、鏡に反射した光に思わず私は目を閉じる。
 ふと彦三郎さんの声がした気がした。光枝さんを呼ぶような声だった。
 目を開けた私の前には、光枝さんの鏡台。丁寧に磨かれた鏡台は彦三郎さんに対する彼女の愛そのものなのだろう。
 いつか私も二人のような非凡な恋ができるのだろうか。
 鏡台に映る自分を眺めながら、私は未来の自分の姿を探した。

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