今宵

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『鏡』


 仕事を終え、スーパーで割引シールの貼られたお弁当を1つ買った私は家路を急いだ。金曜の夜だからといって寄り道はしない。
 駅から歩くこと10分。単身向けの2階建てアパートであるここ、「壽荘(ことぶきそう)」に住み始めたのはつい先月のことだ。
「ただいまー」
 玄関を上がり、真っ暗な部屋に明かりをつける。
 不動産屋で築40年と聞いた時は身構えたが、数年前にリフォームされたという部屋は築年数ほどに古い印象はなかった。1番の心配だった水回りも同様に綺麗にリフォームされており、風呂とトイレが別でこの家賃というのはとても魅力的だった。今思えば、その魅力的すぎる条件を少しは疑うべきだったと思う。
「随分と遅かったな」
 ひとり暮らしの部屋、本来なら聞こえるはずのない声が聞こえる。もちろん、今この部屋には誰もいない。
「すみません、来週の会議の準備でバタバタしてて」
「それはご苦労だったな。それはそうと、例の物の場所は分かったかい?」
「はい。大家さんに住所のメモをもらいました」
 カバンの中のファイルから1枚のメモを取り出した私は、鏡台の前に腰を下ろした。
 以前は畳だったという床には、今はフローリングが敷かれている。数着しか服の入っていないクローゼットも、元は押し入れだったらしい。すっかり洋風に生まれ変わったこの部屋に、このいかにも和風な鏡台は明らかに馴染んでいない。
「明日、この住所に行ってみます」
 目の前の鏡に向かってメモを見せながら、そう口にする。
 他の人が見たら間違いなく奇妙な行動––––いや頭のおかしい人の行動に見えるだろう。
 だが、私の頭は正常のはずだし、私は至って真剣なのだ。

 翌日、朝早くに家を出た私はメモの住所を目指して電車に飛び乗った。1時間ほどで着くらしい。
 生まれてこの方、私は私のことを凡人の中の凡人だと思ってきた。育った環境や経験してきたこと、容姿やスペックや性格。特に秀でるものもなければ劣るものもなく、人並みに幸せと不幸を繰り返してきた。
 そんな凡人である私にとって、不思議なものとの縁というのは今までにあるはずもなかった。だから、鏡台の鏡の中から幽霊の声がした時の私は、今までにないほど驚いた。
「君は、わしの声が聞こえているのかい」
 その声は明らかに部屋の中、いや鏡の中から聞こえていて、隣の部屋の声という感じではなかった。
「聞こえるなら返事をしてくれんか。悪いことはせんと約束する」
 聞こえないフリをするべきか迷っていた私だったが、その言葉に恐る恐る頷いた。
「そうかそうか。やっと話の通じる相手がここに来たか」
「あの、えっと……」
「あぁ、すまんすまん。わしは名を彦三郎。歳は100といくつだったか……いや、幽霊が歳を言っても仕方がないな」
「ゆ、幽霊……?」
「あぁ、そうだ。あの世に行くこともできず、こうして鏡に閉じ込められた情けない幽霊さ」
 信じられないような出来事に言葉を失う私に向かって、彦三郎さんはこう言った。
「ここは1つ、哀れな年寄りの幽霊に手を貸すと思って、わしの頼みを聞いてくれないだろうか」

 電車を降りてからは、地図を頼りに歩いた。約束の時間にはどうにか間に合いそうだ。
 彦三郎さんに探してほしいものがあると頼まれた私は、電車に乗ってこうしてここまでやってきた。今から向かうのは、あの鏡台の元々の持ち主の息子さんの家だ。
 鏡台は持ち主であるおばあさん──光枝さんが亡くなったあとも、鏡台はずっとあの部屋に置かれたままになっていた。引き取り手もおらず、処分するにはもったいないような立派なものなので、住人が自由に使えるようにと大家さんがそのままにしたらしい。
 彦三郎さん曰く、死んだあと幽霊としてあの部屋に棲みついた彼は、光枝さんと彼女が雇ったという霊媒師の手によって鏡の中に閉じ込められてしまった。鏡から出るには鏡を割るか、彦三郎さんを鏡に閉じ込めるのに使ったという小さな箱が必要なのだという。
 あの部屋に住人が変わる度に彦三郎さんは声をかけたり、音を立てて存在を知らせようとした。きっとそのせいで家賃が格安になっているのだろう。
 なぜか第六感があるわけでもないのに彦三郎さんと話ができた私に向かって、彼は鏡を割ることだけは絶対にしたくないと言った。そこで私は、光枝さんの遺品を管理する彼女の息子、幸彦さんを訪ねることになった。

「初めまして、田代と申します。生前、光枝さんには大変お世話になりました」
「そうでしたか。ご丁寧にありがとうございます」
 本当は光枝さんとの面識は全くない。だが、見ず知らずの人の遺品から物を探すわけにもいかないので、彼女に預けたものを取りに来たという体で話を通すことにした。
 申し訳ない気持ちでいっぱいだが、ここは彦三郎さんのためにも腹を括るしかない。
「それで、母が預かっていたものとは」
「はい。あの、小さな桐の箱なんですが、紙で封がしてあって」
 彦三郎さんから聞いた情報を伝える。
「あぁ、そういえば。見た覚えがあります。母の物はほとんど捨てずに2階に置いてますので、今探してきますね」
 幸彦さんは私の話に疑いを持つ素振りもなく、とても親切で、すぐにその箱を探して持ってきてくれた。
「これで間違いないですか」
 彼の手にある箱は彦三郎さんの行った通りの大きさ形で、紙で封がしてあることから言っても間違いなさそうだった。
「はい、そうです。ありがとうございます」
「いえいえ。こちらこそ生前の母と親交のある人が訪ねてきてくれてありがたいです。実を言いますと、亡くなる少し前の頃は母のことが少し心配でね」
 苦笑いを浮かべる彼に、「え?」という表情を返す。
「いやぁ、おかしな話だと思われるかもしれないんだけど——」
 20年ほど前、光枝さんは当時一緒に暮らしていた旦那さんとともに災害に見舞われた。幸い彼女は一命を取り留めたが、旦那さんと、その旦那さんと長年住み続けた家を一度に失うことになった。
 その後、今私が住んでいる壽荘に住まいを移した光枝さんだったが、しばらくして息子である幸彦さんにおかしなことを言い始めたらしい。
「家に幽霊がいて、あまりに騒がしくされて困る。誰かいい人を紹介してくれないだろうか——」
「しょうがないんで知り合いのツテを頼って詳しい人を紹介してみたら、そのあとから母はピタリとそういうことを言わなくなりまして」
「そうなんですね……」
 話を聞いた私はおおよそのことを理解した。彼が頼んだというその人が、彦三郎さんを鏡に閉じ込めたという"霊媒師"なのだろう。
「父が亡くなったのも突然のことでしたし、何しろ2人は仲が良すぎるぐらいでしたから。母はさぞかしショックを受けていたと思います。唯一手元に残った父との思い出の鏡台は、亡くなるまでずっと大切にしてたと聞きましたし……」
「あの、その鏡台なんですが。実は今、私が使わせてもらってます」
「そうでしたか。それは良かった。私が使えるものでもないので、あなたのような人に使ってもらえて母も、それから父も喜んでいると思います」
「そう言っていただけて嬉しいです。大事に使わせていただきます」

「あの、1つお聞きしてもいいですか」
 箱を受け取った帰り際、私は最後に尋ねた。
「お父様のお名前って……」
「あぁ、父の名前は————」

「ただいま」
「おかえり。あれはその、見つかったかい」
「はい。これです」
 桐の箱を鏡に向ける。
「あぁ、あったかい。そうかい。ついにこの時が来たんだね」
 嬉しそうで、でもどこか寂しそうな声。
「あの、彦三郎さん。この箱を開けたら、彦三郎さんは鏡から出られるんですか」
「あぁ」
「そうなったら……そうなったとしたら、彦三郎さんはどうなるんですか」
「わしはそうだな——」
 彦三郎さんが考える間、静かな部屋に音はない。
「もうこの世に未練はない、だろうな」
「それはこの世にもう光枝さんがいないから……ですか」
「な、なんでそれを……いや、そうか。そりゃ分かるだろうな。まぁ本当はあいつと一緒にあの世に行くはずだったんだ。だがそれを待つ間、ここで誰にも気づかれないのは暇でな。それであいつにちょっかいを出すようになったらこのザマだ」
 彦三郎さんが声を上げて笑う。
「光枝は得体のしれない幽霊をその箱に閉じ込めたと思っているだろうが、実際は何の手違いか鏡台の鏡に俺を閉じ込めたんだからな。まぁちょうどいい冥土の土産話だな」
「——やっと光枝さんに会えるんですね」
「あぁ。そうだな」
 この部屋で、彦三郎さんの存在に気づかないままの光枝さんにちょっかいを出し続ける姿を思い浮かべると、微笑ましさと切なさで胸がキュッとした。
「箱、開けていいですか」
「ああ、頼むよ」

 封を切り、桐の箱開けると、眩い光が部屋に広がった。一瞬、鏡に反射した光に思わず私は目を閉じる。
 ふと彦三郎さんの声がした気がした。光枝さんを呼ぶような声だった。
 目を開けた私の前には、光枝さんの鏡台。丁寧に磨かれた鏡台は彦三郎さんに対する彼女の愛そのものなのだろう。
 いつか私も二人のような非凡な恋ができるのだろうか。
 鏡台に映る自分を眺めながら、私は未来の自分の姿を探した。

8/19/2024, 9:35:04 AM