今宵

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5/7/2025, 8:59:18 PM

『木漏れ日』


「スミマセン」
 ある日の午後、道を歩いていると一人の男性に声をかけられた。
 金髪にブルーの瞳。Tシャツにハーフパンツというラフな格好で背中には大きなバックパックを背負っている。明らかに外国人だ。
「あ、えっと……」
 これまでの人生でまともに外国人と話した経験などない。こんな場面、途端に私はパニックになってしまう。
 頭の中で必死に学生時代の記憶を呼び戻す。そして絞り出した答えが——
「わ、ワット?」
 彼はうろたえる私とは正反対に、余裕のある爽やかな笑みを浮かべた。
「ミチを教えてもらえマスか」
「ミチ?」
 ミチとは……? と思ったのも束の間、すぐに彼が手に紙の地図を持っていることに気づいた。
「あ、道! ロード! えっとそれじゃ、ウェ……ウェアードゥーユー……」
「あの、ワタシ、日本語スコシ分かります。日本語で、ダイジョウブです」
 そう言われて、あっ、と思った。
 思い返してみれば、彼は最初からずっと日本語を話している。それなのに私は、外国人を前に何とか英語を話さなくては、と一人で必死になっていた。
 その事実にたちまち恥ずかしくなって、顔に血が上っていく。
 それでも彼はそんな私の感情になど気づいていないようで、うつむいた私が視線だけ上げると、相変わらずの丁寧な笑顔をこちらに向けた。
 流暢に日本語を話す彼は、どうやらイギリスから旅行でこの辺に来たらしかった。
 私が生まれ育ったこの町は大して特徴もなく、海外からの旅行客が観光で来るには退屈すぎるはずの小さな田舎町だ。
 どうしてわざわざこんなところに来たのだろう。
 そう疑問に思い尋ねると、行きたい場所があるのだと彼は笑った。
 
 彼が行きたいと言った場所は地図を見ても分かりにくいような、田舎の中でもさらに奥まった場所にあった。
 ここから歩くとしたら、軽く40分はかかるだろう。途中まではバスで行けるが、田舎のバスは1日に数本しか出ていない。今の時間なら、おそらく歩いた方が早い。そもそも目的地は森を抜けた先なので、どちらにしても最終的には歩いてしかたどり着けないのだ。
「あの、よかったらそこまでご案内しましょうか」
 説明しているうちに、いつの間にかそう口に出ていた。
「ありがとうございマス! オー、あなたのお名前は?」
「あ、名前……私の名前はミオ、です」
「オー、ミオ! 私はルカです! ミオ、ありがとう!」
 目的の場所までの道中、ルカは一時も休まずに話し続けた。
 自分の名前の由来、家族構成に飼い犬の名前、そして日本に来た理由と今から行く場所に行きたい理由。
「ワタシは、日本語が好きです。愛しています。ワタシは昔、一人の日本人に出会いました。この本の中で」
 森の中をしばらく進んだ時、そう言って彼がリュックから取り出したのは、擦り切れた1冊の本だった。
 それは見るからに年季が入っていて、表紙には薄っすらとだがタイトルと著者名が見て取れる。
「ミオは彼を知っていますか?」
 ルカの問いに私は頷く。
「この辺りの人で彼を知らない人はいないです。地元では有名な人だから」
 ルカが持っていたのは、この辺りで生まれ育った俳人の句集だった。地元では有名とはいえ、日本全体ではほとんど知られていないはずだ。
「でも、どうしてこれを」
「偶然、古本屋でこの本に出会いました。最初は何が書かれているか、分からなかった。でも、なぜかとても読みたいと思った。だから勉強、しました。そして、日本語の素晴らしさを、知りました」
 ルカは立ち止まって、上を見上げた。
 森の中を風が吹いて、木々の隙間の光が揺れた。
「これが〝コモレビ〟」
 ゆっくりと深呼吸したルカは、そっと目を閉じた。私もルカにならって目を閉じる。
「コモレビ、というコトバは英語にはありません」
「え、そうなんですか?」
 とっさに隣に視線を向ける。目を閉じたまま、ルカは笑みを浮かべている。
「はい。訳すことはできても、その意味のコトバは、ないです。でも、日本人はこの光景に名前をつけました。コトバは必要とされた時、初めて生まれます」
「日本語って美しいでしょ?」とパッチリとした目を開いたルカがこちらを見た。
 今まで〝木漏れ日〟という言葉について深く考えたことはなかった。でも今、こうやって私が木漏れ日を感じられるのは、この木々からこぼれるあたたかな光を、美しいと思った誰かがいたからなのだ。その美しさに名前をつけたいと思うほどに。
 それを外国人のルカが教えてくれた。
 ルカの長いまつ毛が木漏れ日に透ける。その奥の瞳は光を通すと吸い込まれそうになほどに淡く美しい。
「ミオ?」
 ルカが不思議そうな顔でこちらを見ている。
「あ、ごめんなさい。あんまり綺麗でつい見惚れてしま……」
 思わず本音を口走ってしまう。
「あ、いや、そうじゃなくて」
「いえ、綺麗です」
「え……」
 ルカと視線が合う。
「美しいです」
 淡いブルーの視線に真っ直ぐに見つめられ、胸の辺りがドキっとした。
「そう、この本が教えてくれました! 世界は美しいって!」
 手に持った本をルカが嬉しそうに掲げる。
 うかつにも一瞬舞い上がりかけた自分の頬を心の中で張り倒す。
「日本に来て、よかった。日本の美しさ、この目で見れました。コモレビ、本当に美しいです。そして……」
 一瞬呼吸を置いたルカが、明後日の方を見る。
「——ミオも」
 今度こそ、本当に舞い上がってしまってもいいのだろうか。
 森に差し込む午後の光を浴びて、頬が熱を帯びる。
「さぁミオ、行きましょう! この先にも、美しい景色が待っています」
 バックパックを背負い直したルカが、ずんずんと森の奥に進んでいく。
 そんな背中を見て、私は笑みをこぼした。
「ルカ! そっちじゃない、こっちだよ!」

3/13/2025, 7:13:34 PM

『透明』


 中に人がいなくなったタイミングで、入り口に〝清掃中〟のパネルを立てた。
 清掃の仕事は嫌いではない。むしろ、向いている方だと思う。人と極力関わらなくて済むし、淡々と仕事をこなせばこなすほど、そこが綺麗になって、はっきりと成果が分かる。基本的に、この仕事は自分の中だけで完結できるのだ。
 ただ——トイレを清掃する時間だけは、少しわけが違う。

 すばやく、かつ丁寧にトイレ内を清掃していると、入り口から声をかけられた。
「あの……今ここ使っても大丈夫ですか」
 清掃中だからといって、使ってはいけないということはない。もちろん、急を要する場合だってあるだろう。
「はい、どうぞ。足元お気をつけください」
 一旦、元の作業は中断して、まだ終わっていない他の作業に移る。
 こうやって、トイレの清掃中はどうしても人と関わらなればいけない場面が出てくる。さっきの人のように、こちらに気づいて声をかけてくれるなら、まだいい。でも、清掃をしていることに気づくと、あからさまに嫌そうな視線が飛んでくることがある。中には、無言で舌打ちして中に入っていく人がいたり、完全にこちらを無視する場合もある。
 自分でも意外だったが、私は舌打ちされるより、この〝無視〟というのが精神的に堪える。何も見えなかったように、いなかったように、なかったように——そうされるのが、1番しんどい。
 だから普段の清掃では、最初から自分の存在を消してしまう。人との関わりがなければ、難しいことではない。
 だが、トイレを清掃する間は違う。明らかにそこにいて、見逃すはずがない存在なのに、見えていない。
 そんな時、私はまるで、自分が透明になってしまったように思えてしまう。
 
 それでも、私にはこの仕事しかない。淡々と清掃し、淡々と清潔な空間をつくっていく。誰かが見ていても、誰にも見られていなくても、それが私の仕事だ。
 床を綺麗に拭き上げ、備品の最終チェックをする。
 そうやってすべての作業を終え、ようやく入り口のパネルに手をかけた時、ガチャっと音がして、閉まっていた個室のドアが開いた。
 先ほど声をかけてきた女性が、中から出てくる。
 私は邪魔にならないようにさっとパネルを抱え、小さく頭を下げてからトイレの外に出た。
 壁の向こう側で水道の流れる音がして、それから止まった。
 それを聞きながら、清掃のチェック用紙に記入して、ポケットに入れていた印鑑を押した。
 これで今日の仕事は終わりだ——静かに息をついて顔を上げると、ちょうどトイレから出てきた女性と視線が合った。
 そらされる、と反射的に思う。だが、なぜだろう。彼女はそのままこちらに笑顔を向けた。
「いつもありがとうございます」
 明るく、まっすぐにこちらを見て、彼女はそう言った。そんなことを言われたのは初めてだった。
 今まで、事あるごとに思ってきた。誰がこの清潔な空間を保っていると思ってるんだ。勝手にトイレは綺麗になるし、勝手にゴミは消えてしまうとでも思っているのか、と。
 でも、ちゃんと気づいてくれている人がここにいた。トイレが綺麗な理由も、そして私の存在にも。
 その瞬間、私は確かに透明じゃなくなった。

「——こちらこそ、ご利用ありがとうございます」

3/8/2025, 8:49:45 PM

『秘密の場所』


 そこに道はない。交差した木を目印にして小道を逸れ、そこからは草木をかき分けながら進む。
 しばらく行くと、開けた場所に出る。
 目の前は——海だ。
「もし、さ」
 風に乗って、彼女の声がしたような気がした。鼻の奥で、懐かしい潮の匂いを感じる。
 切り取られた海と空。僕らだけの空間。彼女は砂の上ではいつも裸足で、僕は、そんな彼女の脱ぎ捨てた靴が波にさらわれてしまわないかと、いつも気が気でなかった。

「もし、さ」
 そう言い出したのは、彼女の方だった。
「10年経ったら、私たち、大人になるでしょう?」
「もし、じゃなくても、そうなるんだよ。10年も経てば」
「ううん。そうだけど、違う。私が言いたかった〝もし〟は、もっと違うこと」
「じゃあ、何が〝もし〟なの?」
 彼女の言い方がじれったくて、急かすように尋ねた。
「もし、10年後、私たちが大人になって……」
「うん」
「新しい友達がたくさんできて」
「うん」
「きっと、恋なんかもいくつかして」
「……うん」
「でも、この場所のことが忘れられなかったら……」
「うん」とまた返してみたつもりが、それはたぶん、もう声にはなっていなかった。だから、僕はただ続く言葉を待った。

 今日で、きっかり10年だ。彼女がまだ遠くに引っ越してしまう前、最後にここで会った日から、今日で10年。
 あの頃のたくさんの記憶は薄れてしまって、そのほとんどを思い出せなくなっても、この場所のことを忘れることはなかった。
 でも、そんなふうに生きてきたのは、きっと僕だけだったの
だろう。
 誰もいない小さなビーチで、僕は靴を脱ぎ捨て、砂の上を駆けた。スボンの裾をまくし上げて、海に向かって走る。
 春の海は、冷たい。当たり前のことが、身にしみて分かる。でも、気にするもんか。
 考えてみれば、僕たちはとても曖昧だった。その曖昧さが心地よかった。だが今となっては、僕にはその曖昧さしか残っていない。
 それでは、何の意味もないじゃないか——
 
 砂浜に座って、僕は約束の日が終わるのを待った。
 彼女は来なかった。それが答えだ。
 目を閉じて、波の音を聴く。
 今日で、この場所のことは忘れてしまおう。
 波の音も、海の色も、風の匂いも、砂の感触も、彼女のことも、この気持ちも、すべて——忘れてしまおう。
「靴、濡れちゃうよ」
 そう声がしてハッと振り向くと、そこに女性が立っていた。記憶の中の少女の姿ではない。大人になった、彼女だ。
「靴を脱ぎ捨てるなんて、子どもみたい」
「どうして……」
「どうして、って言われてもなぁ」
 そうやって笑った顔は、あの頃のまま。
「大人が靴を脱ぎ捨てて海っていうのは……」
「じゃなくて」
 彼女はいつだって僕をじらす。悪い癖だ。
「——忘れられなかったから、でしょ」
「この場所が……?」
「うん」
 海の方を見て、彼女は頷いた。
 もうすぐ、今日が終わろうとしている。
「もし、って言ったの覚えてる?」
「うん」
「もし10年後に私たちが大人になって、新しい友達がたくさんできて」
「うん」
「恋なんかもいくつかして」
「うん」
「でも、この場所のことが忘れられなかったら……」
 彼女はあの日言った。
「10年後の今日、この場所でまた会おう」と。
「僕は忘れられなかった」
「うん、だね……私も」
 もう後悔はしたくない。だから、彼女に会えたら言おうと決めていたことがある——

 僕が彼女に贈った10年越しの言葉と、彼女が僕にくれたその返事は、僕らの秘密を知る海にそっと隠しておこうと思う。

3/1/2025, 8:51:37 PM

『芽吹きのとき』


 その日、大学からの帰り道、怪しげな老婆に出会った。
「ちょいと、お嬢さん」
 突然声をかけられた私は、ビクリと足を止めた。日もとっくに沈んだこの時間、昼間なら両脇に連なる店が賑やかなこの通りも、今はシャッターが降りてしまって、ひと気がない。いつもならできるだけ早足で通り過ぎるはずのところだった。
 少し先の方に立った老婆が、こちらを見ている。
 一体何の用だろうか。いや、その前に、さっき呼び止められたのは本当に自分だったのだろうか。
 老婆から視線をそらして、周りを見回す。だがやはり、老婆をのぞくと、自分以外の人の姿はどこにもなかった。
 きょろきょろと首を振るのを見て、彼女が再び口を開いた。
「そうだよお嬢さん、お前さんに話があるんだ」
「えっ……?」
 街頭の灯りの届かない暗がりで、腰の曲がった老婆が何かを手に持ち、こちらを見上げている。
 そのことがどうも不気味に思えて、無意識に身構えた。
「なぁに、怖がることはないさ。ただわしは、お前さんに1つ頼みがあってな」
「……頼み?」
「あぁ、そうさ」
 闇の中でかすかに頷いた老婆が、おもむろにこちらに近づき、その姿が街頭の灯りに照らしだされる。
「お嬢さん、これを育ててみる気はないかい」

 灯りの下で見る老婆は、さっきまでの印象とは少し違って見えた。顔にはシワが、特に目尻に深く刻まれていて、目は伏せがちだが、時折こちらの目をのぞくようにまっすぐに見上げてくる。鼻と口は小ぶりで目立たない。その代わり、彼女が話す声は、夜の静寂をまとったような不思議な響きをしていた。
 全くもって当てにならない直感だが、この人は悪い人ではないと思った。
 老婆は、右手に鉢植えを持ち、左手に小さな白い紙の包を持って喋りだす。
「〝ツクモソウ〟という名を聞いたことがあるかい」
 始めて聞く名前だったので、首を振る。
「あぁ、きっとそうだろう。これを実際に見たものはそういない。めずらしいものだからね。この〝ツクモ〟というのは〝九十九〟と書くのさ」
 頭の中で、〝ツクモソウ〟を〝九十九草〟に変換する。
「この包の中に、九十九草の種が1粒だけ入っておる」
 包が風で飛ばされたりしないように、老婆はそれをしっかりと握りしめている。
「ほれ、あそこをご覧」
 老婆の視線の先を追う。
「今日は満月だ。それも、雲1つかかっておらん完璧な満月だ。今夜を逃せば、この九十九草を植えられるのは来年、いやもっとずっと先になるかもしれぬ。この時期の満月が、毎年晴れておるとは限らんからな」
「えっと、晴れていないとダメなんですか」
 反射的にそう尋ねると、老婆は、何をそんな当たり前のことを、と言わんばかりの表情を浮かべた。
「九十九草は、冬と春のちょうど境目であるこの時期の、晴れた満月の夜にしか種を植えられないのさ」
 そんな植物があるなんて、今まで見たことも聞いたこともなかった。
「九十九草の名前の由来が分かるかい」
 少し考えて、やはり首を横に振る。
「普通の植物は日の光で育つ。だが、九十九草は満月の光で育つ。満月を九十九回数えて、ようやく芽吹く。そしてその晩、1度だけ花を咲かせる。だから九十九草というのさ」
「1度って……それだけ待っても、その1度だけしか咲かないんですか」
「あぁ、そうさ。しかも、1回でも満月を逃せば、もう2度と咲かない。それが、九十九草がこれだけめずらしい理由なのさ」
 そこで、老婆の話が途切れた。
「それであの……そんなにめずらしいものを、なぜ私に……」
 ずっと聞きたかったことを、ようやく尋ねた。
「そうだ、それを言いそびれておった」
 老婆が改まったように、コホン、と咳払いをして、それからこちらを見た。
「お嬢さん、あなたは、今宵私が見た中で、唯一あの満月を見上げておった」
 そう言われて思い返してみると、確かに今日、この通りに差しかかるまで、私は満月を見上げながら歩いていた。晴れ渡る夜空で大きく輝きを放つこの月が、今日の私の夜道のお供だった。 
「こんなに美しいものがあるというのに、人は下ばかり見て気がつきもしない。そんなもったいないことがあるだろうか……もし、この満月の美しさに気がついた人がいたならば、その人にこれを託してみたいと思った——」
 彼女がまた空を見上げる。
「満月の度にこの鉢植えに光を与えることは簡単ではない。時に、自ら光を求め、探し回らなければならないかもしれない。そして、それを九十九回、続けなければならない。そこまでできるかどうか、それは育てる者の心次第なんだよ」
「育てる者の、心……」
 老婆が頷く。
「九十九草の話を聞いて、お前さんは率直にどう思ったかい」
 唐突な問に、考え込む。
「最初は、不思議な話だと思いました。でも……でも今はすごく興味があります。九十九草がどういうふうに育ち、どんな花を咲かせるのか、自分の目で見てみたい」
 私がそう言うと、老婆が小さく笑った。
「なら、きっとそうしてくれ」
 私の手を取った老婆が、その手のひらに種の入った包を握らせる。
「でも……」
「おそらく、わしにこれを育て上げることはできんだろう。この年寄りは、次の満月を見れるかも分からんのだよ。だから、お嬢さんに任せたいんだ」
 目の前に、鉢植えが差し出される。
 私は、覚悟を決めて、手を伸ばした。鉢植えと一緒に、彼女の思いも受け取る。

「九十九草は、この上なく美しい花を咲かせるそうさ」
 満月を見上げ、老婆が言う。
「いつか、私がその花を咲かせたら——その時は、」
「あぁ。待っておる」

2/25/2025, 5:58:27 PM

『さぁ冒険だ』


「いらっしゃいませ」
 入り口の戸を引いた直後、食欲をそそる匂いとともに、伸びやかな声が飛んできた。テーブルの上を片付けていた女将さんと目が合い、会釈を交わす。
 店主であるご主人と、その奥さんが2人でやっているこの定食屋は、こじんまりとしていて、いい意味でかしこまっていない落ち着いた雰囲気がある。
 客席はキッチンに面したカウンターに3席、その背中側の壁際に並んだ2つのテーブルに4席ずつあって、今はカウンターに2人と、テーブル席に2人の先客がいる。
 今日は昼飯時にしては空いているようで、俺は運良く空いていたカウンター席を選んで、いつものように腰を下ろした。

 この街に引っ越してきた半年前から、毎週土曜日はこの定食屋でランチをするというのが習慣になった。これも毎週土曜に通っている近所の図書館の、その帰り道にこの店があるのだ。
 奥で料理を作っているご主人とはほとんど面識がないままだが、接客を担当している女将さんとは、個人的な会話こそしたことがないものの、毎週通ううちに顔見知り程度には親しくなった。
 もし仮に今日、俺が「いつものください」と言えば、きっと女将さんは〝いつもの〟を持ってきてくれると思う。もっとも、そんな勇気があればの話だ。もちろん、俺にそんな度胸はない。万が一、「いつもの……?」なんて疑問符がつこうものなら、恥ずかしすぎて、もうここには来られなくなるだろうと思うからだ。
 そんな事を考えながら、一旦はメニューを一通り見回してみる。
 だが、結局俺は、何とかの一つ覚えのように、毎回同じ注文を繰り返すことになる。
「——生姜焼き定食ください」

 翌週もまた、図書館に行った帰り道にその定食屋を訪れた。
 女将さんと会釈を交わし、カウンターに座る。そして、形式的にメニューを眺めた。まるで流れ作業をしているように。
 ここで、いつもの俺なら、次に
「生姜焼き定食ください」
 そう言えば良かった。女将さんもきっとそう予想していただろうし、もしかしたら料理を作っているご主人もそうだったかもしれない。
 だが、今日の俺はかなり迷っていた。
 見慣れたメニュー表の最後に1つ、新しい料理が書き加えられていたからだ。
〝アジフライ定食(期間限定)〟
 俺はハッとして、隣の客を横目で確認した。そして、さり気なく、斜め後ろのテーブルの方も確認する。
 テーブル席からサクッと軽快な音がして、断面から柔らかそうな肉厚のアジがのぞく。フライにかじりついたその客は、すぐさまご飯を口いっぱいにかき込んだ。
 それを見て、俺は前に向き直った。再び、メニュー表と対峙する。
 思い返せば、いつだって俺は冒険できないタイプだった。昔通っていたラーメン屋でも、どこにでもあるチェーンのファミレスでも、蕎麦屋でもうどん屋でも何でも、どこに行ったとしても、頼むのは結局、毎回同じ料理になってしまうのだ。
 挑戦したいという気持ち自体はちゃんとある。他の人のを見て、美味しそうだなと思ったり、期間限定のメニューを試してみたいと思ったりはするのだ。
 だが、間違いなく美味しいと分かっているいつものメニューがあるのに、リスクを犯して挑戦することが、自分にはできなかった。
 ちょうど今日、図書館で通りがかった児童書のコーナーで、懐かしい本を見かけた。小さい頃に夢中になって読んだ、冒険物のシリーズだ。いつか、この世界の果てまで、お宝を求めて旅をしてみたい。漠然とそんなふうに夢見ていた。
 大人になれば、そんな夢はいつしか忘れてしまった。今でも相変わらず本の虫ではあるが、過ごしている日常は、昔読んだワクワクするような世界とは大きくかけ離れている。
 女将さんが料理を手に厨房から出てきた。料理を運び終え、振り返った女将さんと目が合う。
「ご注文、お決まりですか?」
 そう聞かれて、言い淀んだ。まだどうするか決めきれてなかった。
「あの……」
 いつものように言葉が出てこないのを見て、女将さんが少し首を傾げた。
 しばらく間が空き、俺はようやく心を決めた。
「——アジフライ定食、ください」
 かすかに女将さんの目が見開かれる。だが、すぐにその表情も、いつもの穏やかな笑顔に戻った。
「アジフライ定食ですね、かしこまりました」
 女将さんの後ろ姿を見送ってから、水を一口飲んで、息をついた。
 図書館用にしているトートバッグから、本を1冊取り出す。いい大人が、つい懐かしくて、あの児童書を借りてきてしまった。
 パラパラとめくるうちに、小さい頃の記憶がよみがえってくる。
「——お待たせしました」
 女将さんの声がして顔を上げると、もう料理が出来上がっていた。
 目の前で揚げたてのアジフライが湯気を上げている。
 俺は読みかけの本を閉じて、箸を手に取った。
 あの頃思い描いたようなものじゃないが、こんなちっぽけなことに、なぜか俺は高揚している。
 さぁ、冒険だ——

「いただきます」

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