今宵

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3/8/2025, 8:49:45 PM

『秘密の場所』


 そこに道はない。交差した木を目印にして小道を逸れ、そこからは草木をかき分けながら進む。
 しばらく行くと、開けた場所に出る。
 目の前は——海だ。
「もし、さ」
 風に乗って、彼女の声がしたような気がした。鼻の奥で、懐かしい潮の匂いを感じる。
 切り取られた海と空。僕らだけの空間。彼女は砂の上ではいつも裸足で、僕は、そんな彼女の脱ぎ捨てた靴が波にさらわれてしまわないかと、いつも気が気でなかった。

「もし、さ」
 そう言い出したのは、彼女の方だった。
「10年経ったら、私たち、大人になるでしょう?」
「もし、じゃなくても、そうなるんだよ。10年も経てば」
「ううん。そうだけど、違う。私が言いたかった〝もし〟は、もっと違うこと」
「じゃあ、何が〝もし〟なの?」
 彼女の言い方がじれったくて、急かすように尋ねた。
「もし、10年後、私たちが大人になって……」
「うん」
「新しい友達がたくさんできて」
「うん」
「きっと、恋なんかもいくつかして」
「……うん」
「でも、この場所のことが忘れられなかったら……」
「うん」とまた返してみたつもりが、それはたぶん、もう声にはなっていなかった。だから、僕はただ続く言葉を待った。

 今日で、きっかり10年だ。彼女がまだ遠くに引っ越してしまう前、最後にここで会った日から、今日で10年。
 あの頃のたくさんの記憶は薄れてしまって、そのほとんどを思い出せなくなっても、この場所のことを忘れることはなかった。
 でも、そんなふうに生きてきたのは、きっと僕だけだったの
だろう。
 誰もいない小さなビーチで、僕は靴を脱ぎ捨て、砂の上を駆けた。スボンの裾をまくし上げて、海に向かって走る。
 春の海は、冷たい。当たり前のことが、身にしみて分かる。でも、気にするもんか。
 考えてみれば、僕たちはとても曖昧だった。その曖昧さが心地よかった。だが今となっては、僕にはその曖昧さしか残っていない。
 それでは、何の意味もないじゃないか——
 
 砂浜に座って、僕は約束の日が終わるのを待った。
 彼女は来なかった。それが答えだ。
 目を閉じて、波の音を聴く。
 今日で、この場所のことは忘れてしまおう。
 波の音も、海の色も、風の匂いも、砂の感触も、彼女のことも、この気持ちも、すべて——忘れてしまおう。
「靴、濡れちゃうよ」
 そう声がしてハッと振り向くと、そこに女性が立っていた。記憶の中の少女の姿ではない。大人になった、彼女だ。
「靴を脱ぎ捨てるなんて、子どもみたい」
「どうして……」
「どうして、って言われてもなぁ」
 そうやって笑った顔は、あの頃のまま。
「大人が靴を脱ぎ捨てて海っていうのは……」
「じゃなくて」
 彼女はいつだって僕をじらす。悪い癖だ。
「——忘れられなかったから、でしょ」
「この場所が……?」
「うん」
 海の方を見て、彼女は頷いた。
 もうすぐ、今日が終わろうとしている。
「もし、って言ったの覚えてる?」
「うん」
「もし10年後に私たちが大人になって、新しい友達がたくさんできて」
「うん」
「恋なんかもいくつかして」
「うん」
「でも、この場所のことが忘れられなかったら……」
 彼女はあの日言った。
「10年後の今日、この場所でまた会おう」と。
「僕は忘れられなかった」
「うん、だね……私も」
 もう後悔はしたくない。だから、彼女に会えたら言おうと決めていたことがある——

 僕が彼女に贈った10年越しの言葉と、彼女が僕にくれたその返事は、僕らの秘密を知る海にそっと隠しておこうと思う。

3/1/2025, 8:51:37 PM

『芽吹きのとき』


 その日、大学からの帰り道、怪しげな老婆に出会った。
「ちょいと、お嬢さん」
 突然声をかけられた私は、ビクリと足を止めた。日もとっくに沈んだこの時間、昼間なら両脇に連なる店が賑やかなこの通りも、今はシャッターが降りてしまって、ひと気がない。いつもならできるだけ早足で通り過ぎるはずのところだった。
 少し先の方に立った老婆が、こちらを見ている。
 一体何の用だろうか。いや、その前に、さっき呼び止められたのは本当に自分だったのだろうか。
 老婆から視線をそらして、周りを見回す。だがやはり、老婆をのぞくと、自分以外の人の姿はどこにもなかった。
 きょろきょろと首を振るのを見て、彼女が再び口を開いた。
「そうだよお嬢さん、お前さんに話があるんだ」
「えっ……?」
 街頭の灯りの届かない暗がりで、腰の曲がった老婆が何かを手に持ち、こちらを見上げている。
 そのことがどうも不気味に思えて、無意識に身構えた。
「なぁに、怖がることはないさ。ただわしは、お前さんに1つ頼みがあってな」
「……頼み?」
「あぁ、そうさ」
 闇の中でかすかに頷いた老婆が、おもむろにこちらに近づき、その姿が街頭の灯りに照らしだされる。
「お嬢さん、これを育ててみる気はないかい」

 灯りの下で見る老婆は、さっきまでの印象とは少し違って見えた。顔にはシワが、特に目尻に深く刻まれていて、目は伏せがちだが、時折こちらの目をのぞくようにまっすぐに見上げてくる。鼻と口は小ぶりで目立たない。その代わり、彼女が話す声は、夜の静寂をまとったような不思議な響きをしていた。
 全くもって当てにならない直感だが、この人は悪い人ではないと思った。
 老婆は、右手に鉢植えを持ち、左手に小さな白い紙の包を持って喋りだす。
「〝ツクモソウ〟という名を聞いたことがあるかい」
 始めて聞く名前だったので、首を振る。
「あぁ、きっとそうだろう。これを実際に見たものはそういない。めずらしいものだからね。この〝ツクモ〟というのは〝九十九〟と書くのさ」
 頭の中で、〝ツクモソウ〟を〝九十九草〟に変換する。
「この包の中に、九十九草の種が1粒だけ入っておる」
 包が風で飛ばされたりしないように、老婆はそれをしっかりと握りしめている。
「ほれ、あそこをご覧」
 老婆の視線の先を追う。
「今日は満月だ。それも、雲1つかかっておらん完璧な満月だ。今夜を逃せば、この九十九草を植えられるのは来年、いやもっとずっと先になるかもしれぬ。この時期の満月が、毎年晴れておるとは限らんからな」
「えっと、晴れていないとダメなんですか」
 反射的にそう尋ねると、老婆は、何をそんな当たり前のことを、と言わんばかりの表情を浮かべた。
「九十九草は、冬と春のちょうど境目であるこの時期の、晴れた満月の夜にしか種を植えられないのさ」
 そんな植物があるなんて、今まで見たことも聞いたこともなかった。
「九十九草の名前の由来が分かるかい」
 少し考えて、やはり首を横に振る。
「普通の植物は日の光で育つ。だが、九十九草は満月の光で育つ。満月を九十九回数えて、ようやく芽吹く。そしてその晩、1度だけ花を咲かせる。だから九十九草というのさ」
「1度って……それだけ待っても、その1度だけしか咲かないんですか」
「あぁ、そうさ。しかも、1回でも満月を逃せば、もう2度と咲かない。それが、九十九草がこれだけめずらしい理由なのさ」
 そこで、老婆の話が途切れた。
「それであの……そんなにめずらしいものを、なぜ私に……」
 ずっと聞きたかったことを、ようやく尋ねた。
「そうだ、それを言いそびれておった」
 老婆が改まったように、コホン、と咳払いをして、それからこちらを見た。
「お嬢さん、あなたは、今宵私が見た中で、唯一あの満月を見上げておった」
 そう言われて思い返してみると、確かに今日、この通りに差しかかるまで、私は満月を見上げながら歩いていた。晴れ渡る夜空で大きく輝きを放つこの月が、今日の私の夜道のお供だった。 
「こんなに美しいものがあるというのに、人は下ばかり見て気がつきもしない。そんなもったいないことがあるだろうか……もし、この満月の美しさに気がついた人がいたならば、その人にこれを託してみたいと思った——」
 彼女がまた空を見上げる。
「満月の度にこの鉢植えに光を与えることは簡単ではない。時に、自ら光を求め、探し回らなければならないかもしれない。そして、それを九十九回、続けなければならない。そこまでできるかどうか、それは育てる者の心次第なんだよ」
「育てる者の、心……」
 老婆が頷く。
「九十九草の話を聞いて、お前さんは率直にどう思ったかい」
 唐突な問に、考え込む。
「最初は、不思議な話だと思いました。でも……でも今はすごく興味があります。九十九草がどういうふうに育ち、どんな花を咲かせるのか、自分の目で見てみたい」
 私がそう言うと、老婆が小さく笑った。
「なら、きっとそうしてくれ」
 私の手を取った老婆が、その手のひらに種の入った包を握らせる。
「でも……」
「おそらく、わしにこれを育て上げることはできんだろう。この年寄りは、次の満月を見れるかも分からんのだよ。だから、お嬢さんに任せたいんだ」
 目の前に、鉢植えが差し出される。
 私は、覚悟を決めて、手を伸ばした。鉢植えと一緒に、彼女の思いも受け取る。

「九十九草は、この上なく美しい花を咲かせるそうさ」
 満月を見上げ、老婆が言う。
「いつか、私がその花を咲かせたら——その時は、」
「あぁ。待っておる」

2/25/2025, 5:58:27 PM

『さぁ冒険だ』


「いらっしゃいませ」
 入り口の戸を引いた直後、食欲をそそる匂いとともに、伸びやかな声が飛んできた。テーブルの上を片付けていた女将さんと目が合い、会釈を交わす。
 店主であるご主人と、その奥さんが2人でやっているこの定食屋は、こじんまりとしていて、いい意味でかしこまっていない落ち着いた雰囲気がある。
 客席はキッチンに面したカウンターに3席、その背中側の壁際に並んだ2つのテーブルに4席ずつあって、今はカウンターに2人と、テーブル席に2人の先客がいる。
 今日は昼飯時にしては空いているようで、俺は運良く空いていたカウンター席を選んで、いつものように腰を下ろした。

 この街に引っ越してきた半年前から、毎週土曜日はこの定食屋でランチをするというのが習慣になった。これも毎週土曜に通っている近所の図書館の、その帰り道にこの店があるのだ。
 奥で料理を作っているご主人とはほとんど面識がないままだが、接客を担当している女将さんとは、個人的な会話こそしたことがないものの、毎週通ううちに顔見知り程度には親しくなった。
 もし仮に今日、俺が「いつものください」と言えば、きっと女将さんは〝いつもの〟を持ってきてくれると思う。もっとも、そんな勇気があればの話だ。もちろん、俺にそんな度胸はない。万が一、「いつもの……?」なんて疑問符がつこうものなら、恥ずかしすぎて、もうここには来られなくなるだろうと思うからだ。
 そんな事を考えながら、一旦はメニューを一通り見回してみる。
 だが、結局俺は、何とかの一つ覚えのように、毎回同じ注文を繰り返すことになる。
「——生姜焼き定食ください」

 翌週もまた、図書館に行った帰り道にその定食屋を訪れた。
 女将さんと会釈を交わし、カウンターに座る。そして、形式的にメニューを眺めた。まるで流れ作業をしているように。
 ここで、いつもの俺なら、次に
「生姜焼き定食ください」
 そう言えば良かった。女将さんもきっとそう予想していただろうし、もしかしたら料理を作っているご主人もそうだったかもしれない。
 だが、今日の俺はかなり迷っていた。
 見慣れたメニュー表の最後に1つ、新しい料理が書き加えられていたからだ。
〝アジフライ定食(期間限定)〟
 俺はハッとして、隣の客を横目で確認した。そして、さり気なく、斜め後ろのテーブルの方も確認する。
 テーブル席からサクッと軽快な音がして、断面から柔らかそうな肉厚のアジがのぞく。フライにかじりついたその客は、すぐさまご飯を口いっぱいにかき込んだ。
 それを見て、俺は前に向き直った。再び、メニュー表と対峙する。
 思い返せば、いつだって俺は冒険できないタイプだった。昔通っていたラーメン屋でも、どこにでもあるチェーンのファミレスでも、蕎麦屋でもうどん屋でも何でも、どこに行ったとしても、頼むのは結局、毎回同じ料理になってしまうのだ。
 挑戦したいという気持ち自体はちゃんとある。他の人のを見て、美味しそうだなと思ったり、期間限定のメニューを試してみたいと思ったりはするのだ。
 だが、間違いなく美味しいと分かっているいつものメニューがあるのに、リスクを犯して挑戦することが、自分にはできなかった。
 ちょうど今日、図書館で通りがかった児童書のコーナーで、懐かしい本を見かけた。小さい頃に夢中になって読んだ、冒険物のシリーズだ。いつか、この世界の果てまで、お宝を求めて旅をしてみたい。漠然とそんなふうに夢見ていた。
 大人になれば、そんな夢はいつしか忘れてしまった。今でも相変わらず本の虫ではあるが、過ごしている日常は、昔読んだワクワクするような世界とは大きくかけ離れている。
 女将さんが料理を手に厨房から出てきた。料理を運び終え、振り返った女将さんと目が合う。
「ご注文、お決まりですか?」
 そう聞かれて、言い淀んだ。まだどうするか決めきれてなかった。
「あの……」
 いつものように言葉が出てこないのを見て、女将さんが少し首を傾げた。
 しばらく間が空き、俺はようやく心を決めた。
「——アジフライ定食、ください」
 かすかに女将さんの目が見開かれる。だが、すぐにその表情も、いつもの穏やかな笑顔に戻った。
「アジフライ定食ですね、かしこまりました」
 女将さんの後ろ姿を見送ってから、水を一口飲んで、息をついた。
 図書館用にしているトートバッグから、本を1冊取り出す。いい大人が、つい懐かしくて、あの児童書を借りてきてしまった。
 パラパラとめくるうちに、小さい頃の記憶がよみがえってくる。
「——お待たせしました」
 女将さんの声がして顔を上げると、もう料理が出来上がっていた。
 目の前で揚げたてのアジフライが湯気を上げている。
 俺は読みかけの本を閉じて、箸を手に取った。
 あの頃思い描いたようなものじゃないが、こんなちっぽけなことに、なぜか俺は高揚している。
 さぁ、冒険だ——

「いただきます」

2/24/2025, 10:33:59 AM

『魔法』


 鏡を見て、テオは深いため息をついた。
 テオの家は、代々魔法使いの家系だ。両親も、2人の兄も、両親の両親——つまり4人の祖父母もみんな、魔法が使える。彼らの吸い込まれるようなターコイズブルーの瞳が、その証だった。
 だが、鏡に映るテオの瞳に、その輝きはない。テオの目は、光を通さない。真っ暗な闇の色なのだ。
 階段を上がってきた足音がテオの部屋に迫ってきて、やがて止まった。そして、部屋のドアが開いた。
「テオ、何してるの。早く学校の支度をなさい」
 母が鋭い眼差しでテオを見る。
「でも、具合が悪いんだ。だから今日は休む」
「バカなこと言わないで、テオ。朝食をおかわりまでして、具合が悪いなんてあるもんですか」
「それは……たった今具合がおかしくなったんだ——とにかく今日は休むから」
 テオは母を部屋から押し出して、素早く部屋の扉に鍵をかける。そして、部屋の洋服ダンスを力ずくで押して、その扉の前を塞いだ。鍵を開けることなんて、魔法を使えば容易いからだ。
 母を追い出してから程なくして、今度は父がテオの部屋の前にやってきた。
「テオ、早く出てきなさい。お前は人より努力をすべきだというのに、学校をズル休みするなんて、何を考えているんだ」
 父が指を鳴らす音がするのと同時に、入り口の鍵が開く。目の前に立ちはだかったしょぼくれたバリケードを見て、父が口を開く。
「こんな事をしても無駄だと分かってるだろ。これ以上、父さんの手を煩わせないでくれ」
「だったら放っておけばいいじゃないか! 父さんは兄さんたちがいれば十分なんだ。あぁ、そうか。きっと僕だけ父さんたちの子どもじゃないんだ。そうさ、きっとそうだ。じゃなきゃ、僕だけこんな目をしていて、魔法が使えないなんておかしいよ。本当の親でもないのに、そんな風に僕に構わないで!」
 とっさに近くにあった手鏡を手に取り、それを怒りに任せて部屋の隅に投げつけた。
「いい加減にしないか! あぁ、分かった。そこまで言うなら好きにしたらいい。学校も行かず、好きなだけここにこもっていればいいさ。お前の将来がどうなろうと、私がお前の親でも何でもないなら、関係ないからな」
 そう言い残した直後、部屋の扉が音を立てて閉まった。
 自分に、魔法が使えれば……
 何度だって思ってきたことを、再び考える。そして、またため息をつく。
 部屋に散らばったガラスの欠片から目をそらすように、テオはベッドに横になって、その目を固くつぶった。

 
 テオが階段を降りてリビングに行くと、家族は誰もいなかった。
 渋々片付けて、持ってきたガラス片を、ゴミ箱の隣に大ざっぱに置く。テオはそれを時間をかけて、1つ1つ手で集めた。これも魔法が使えれば一瞬で片付くのだなと、癖のようにいちいち考えてしまう。
 テオはぐるりと辺りを見回した。静まり返った家に、テオ以外の気配はしない。両親は仕事に行ったのだろうし、兄も2人とも学校に行っている時間だ。
 今頃学校に行っていれば、テオはまた嫌な思いをしていただろう。クラスメイトもみんな魔法を使える生徒ばかりなのだ。そこで魔法を使えないテオが浮くのは当たり前のことだった。
 父も母も、そんなことは気にしていてもしょうがないと言う。気にしたところで何も変わらないのだから、魔法を使わずとも最低限生きていけるように、学校をいい成績で卒業しなさいと。
 テオが学校で感じる辛さを、魔法が使える両親には分かるはずもない。かと言って、家にいても肩身が狭いのは変わらなかいのだが。
 こんなに広い家に住んでいるのに、テオは自分の居場所がここにはないと思えてならなかった。

 望んだ通りに学校を休めたものの、家で1人過ごす時間は退屈で仕方がない。いつもは何時間でも時間をつぶせるテレビやゲームも、兄の魔法がなければ動かせない。他にも、この家のほとんどの物に魔法が必要だ。だから、テオはただ部屋でぼーっとして時間をつぶしていくしかなかった。
 そうやってしばらく経った時、ふと思い立って部屋を出た。
 この際だから、誰もいない隙に家中を探索してみよう。
 バレたら絶対に怒られるなと思いながら、上の兄の部屋、そして下の兄の部屋を物色した。他にも、物置きに入って何か面白いものはないかと探したり、客間になっているベッドに寝転んでみたりしてみる。
 一通り満足して自分の部屋に戻ろうとしたが、テオはそこで足を止めた。
 目の前にあるのは父の書斎だ。入り口には魔法で鍵がかかっていて、父しか入ることができない。テオはもちろん、兄たちもは入ったことがないらしい。
 だが、テオは一度だけ、父がそこに入る瞬間を見たことがある。父の呪文と仕草を、テオはこっそりと眺めて、目に焼き付けた。だから、きっとあの時の再現はできるはずだ。
 だが、問題はそこじゃなかった。唯一にして最大の問題、それはテオに魔法が使えないことだ。
 テオは期待半分、ダメ元半分で、父を真似して呪文を唱えた。そして、ドアの前にかざした手を、弧を描きながらスライドさせる。
 テオは耳をすませた。成功していれば、鍵が開く音がするはずだった。
 音は——しなかった。
 そう肩を落としたのも束の間、後ろから声がした。
「テオ、そこをどきなさい」
「え!?」
 声のした方を振り返ると、そこに父が立っていた。
 テオがしたのと同じように、父が呪文を唱え、手をかざす。
そして、ガチャリという音がして、扉が開いた。
「よし、入りなさい」
「え、でも……この部屋は、父さん以外入っちゃダメなんじゃ……」
「あぁ、そうだな。だから今回だけ、特別だ」
 父がテオを見て言う。
「テオ、お前に見せたいものがある——」

「父さん、これって……」
 書斎に入り、父に手渡されたのは、1枚の写真だった。
 写真に映るのは、若い頃の父ともう1人、父によく似た男性だ。
 それを見て、テオは息をのんだ。その男性は顔が父にそっくりなのに、瞳はテオと全く同じ色をしていた。
「ここに写ってるのは、父さんの弟なんだ。弟のアスタと父さんは、昔からとても仲が良かった」
 父に弟がいたなんて知らなかった。家族の誰からも、そんな話を聞いたことは一度もない。
「もしかして、父さんの弟も……」
「あぁ、そうだ。アスタも魔法が使えなかった。そんなことは初めてだったんだ。みんな当たり前に魔法が使えたからな。だから、父さんの父さんはアスタを家から追い出した。そして、アスタの名前を話に出すことも、一族のタブーになった」
「じゃあ、今その人は——アスタさんはどうしてるの……父さんは仲が良かったんでしょ……?」
「そうだな。確かに私たちは仲が良かった。でも、父さんはアスタを守れなかった。そして、アスタも家族に逆らうことなく1人で出ていってしまった」
 それを聞いたテオはうつむいた。うつむいて、拳を力いっぱい握りしめた。
「父さん……父さんも僕を追い出したいの?」
 テオがそう言うと、大きな手のひらがテオの頬に触れた。そして、その手がテオの視線を上げる。
「なぁ、テオ。お前は間違いなく私の子どもなんだ。魔法が使えないことなんて、関係ない。お前は父さんと母さんの大切な子どもなんだよ。もちろんアスタだって、父さんにとっては、今でも大事な家族さ」
 父さんが「ほら」と、机の引き出しから手紙の束を引っ張りだす。
「これは全部、今までアスタと父さんがこっそりやり取りしてきた手紙なんだ」
 テオはそれを手に取った。書かれた名前は確かに父さんの弟の名前で、そこには住所も書かれていた。
「テオ、お前に頼みたいことがある」
 父さんの視線の先には、真新しい手紙が1通。
「あれをアスタに届けてくれないか」
「え……僕が……?」
「あぁ、お前に頼みたいんだ。アスタは今、魔法なんか使えなくても、1人で立派に生きている。そしてテオもまた、アスタのように強く生きていくんだ。分かるか、テオ。父さんはテオに、魔法を使えないことなんか関係ないくらい、強く、たくましく、生きていってほしいんだ」
 頬に触れる父の手に力がこもるのを感じて、テオの深い黒色瞳に、たちまち涙があふれた。
「うん、分かった。分かったよ、父さん」
 泣きながら、テオは何度もうなずいた。父がテオをぎゅっと抱きしめる。
 テオは、その瞬間、父さんは間違いなくテオの父さんだと思った。瞳の色が違っても、魔法が使えなくても、テオは心から愛されている、父さんの息子なのだ。そう思った。

12/30/2024, 10:37:13 AM

『みかん』


 山越えの道路を車で行く途中、道沿いにぽつりぽつりと設けられた小屋のようなものが目に入った。
 また少し先に見かけて、通り過ぎる瞬間にそれを確認する。木で造られた屋根のある小さな建物の中にはオレンジと赤……
 それを見て、みかんだ! と思った。
 赤いネットに入ったみかんが数袋、小屋の中に並んでいる。
 そういえば、この辺りにはみかん畑がたくさんある。小屋は、そのみかんを売るための無人販売所なのだろう。
 次に通り過ぎた小屋には、手書きの看板にペンキで〝みかん 100円〟と書かれてきた。
 アオトは心の中でガッツポーズをした。
 大好物のみかんが、こんなに安い。しかもスーパーのより絶対美味しい。
 きっと詳しい人は、この中でさらに1番美味しいみかんを置く店を知っているのだろうが、アオトにはこの中からどこを選べばいいのか分からなかった。
 よし、次に見えた店に止まろう。
 そう決めてから次の小屋が視界に入るまではすぐだった。
 慌ててスピードを緩め、道路脇の空地に車を停める。隣にもう1台車があった。どうやら先客がいるようだ。
 車のドアを開けると首元に冷たい風が吹き込んできた。アオトは、身震いしながらダウンのチャックを上までグイッと引っ張り上げた。
 小屋の前に立ったアオトは、この無人販売所は当たりかもしれない、と思う。
 ここのみかんは赤いネットに入った袋を、さらに丸いかごに入れて並べるスタイルだ。見たところ、かごの数は10個かそこらだ。その中で、みかんを乗せているのは3つ。
 そして、前にも客がいる。ここのみかんは結構人気らしい。
 先客の女性がみかんを手に取った。そのまま手を伸ばし、もう1つ取る。
 とうとう、かごのみかんはあと1袋になった。
 幸い、女性はその2袋だけを抱えて車に戻っていった。残り物には福があるというし、ラッキーだ。
 ポケットから財布を出す。無人販売なんてものがこうやって成り立っている日本は平和だな、と思いながら料金箱に100円玉を入れた。
 そうやって最後のみかんに手を伸ばしたその時、後ろに近づいてきたエンジン音が止まった。
 あっ、と思い振り返る。
 アオトの車の横に、黄色の軽自動車が停まっている。そして、中から同い年くらいの若い女性が降りてきた。
 そっちを見ていたアオトと目が合う。
「すみませーん、もう売り切れですかー?」
 伸びのある声が飛んでくる。
「あ、えっと。あと1袋……」
 みかんをチラッと見てそう言う。
「よかった、ラッキー」
 小走りでやって来る彼女。アオトは内心、しまった、と思っていた。自分がはっきり言わなかったせいで勘違いをさせてしまった。
 心底嬉しそうな彼女に、このみかんが自分のだと主張することなんて、アオトにはできなかった。
 どうすべきか分からなくて、その場に立ち尽くす。
 料金を箱に入れた彼女が最後のみかんを手に取り、遂にみかんは完売となった。
 アオトは心の中でため息をついた。
 そんなこととは思いもしないだろう。嬉しそうな彼女の背中に軽く会釈をして、アオトは車へと向かった。
「あの!」
 よく通る明るい声で呼び止められた。驚いて後ろを見る。
「みかん!」
「え?」
「このみかん! もしかしてあなたが買うつもりでした?」
 両手を空っぽにしたアオトを見て、彼女がそう言った。
「えっと……はい……あ、でも気にしないで下さい。僕は他のとこを探すんで」
 アオトが再び車に戻ろうとすると、再び「待って」と呼び止められた。
「よかったら、このみかん、半分こしませんか」
「え、半分こ……?」
「私、この辺のみかんは全部食べたけど、ここのが1番美味しいと思う。だから、譲ってもらったお礼に半分もらって下さい」
 少し気が引けるような気もした。でもそれ以上に、そこまで美味しいみかんなら、アオトは食べてみたかった。
「じゃあ、お言葉に甘えて……」
「よかった!」
 結局、最後のみかんは2人で半分ずつ分け合った。
 自分の分のみかんを袋に移し終えた彼女は、その中から1個取って、その場でみかんを食べ始めた。
「う〜ん! 甘い! うまい!」
 彼女があまりに美味しそうに食べるので、アオトも彼女の真似をしてみることにした。
「あ、ほんとだ! すごい美味しい!」
「でしょ」
 少し自慢気に彼女が笑う。
「僕、絶対また買いに来ます」
「うん! でもお互い、今度はもっと早くにね」
 そう笑い合って、彼女と別れた。
 口の中が甘くて、ちょっとだけ酸っぱい。
 今日食べたみかんの味はきっと、忘れない。

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