『Midnight Blue』
——拝啓 暑さの続くこの頃ですが、いかがお過ごしでしょうか。
そこまで書いた私は、万年筆を置き、便箋を乱暴に丸めた。
違う、こうじゃない。こんな、何事もなかったような文章を送れる立場じゃない。それに——
まずはそう。きっと、お祝いの言葉からだ……
5枚しかない便箋のうちの貴重な1枚を無駄にして、私は深いため息をついた。
やっぱり手紙なんて書くのはやめにしようか。そんな考えがしきりに頭によぎる。
10年以上も前に大喧嘩をしてから、一度も連絡を取っていない。なのに今さら、手紙を書こうとしている。
孝太は家が近所の幼馴染で、歳も同じだった。私たちは小学校から高校まで、ずっと同じ学校に通っていた。
たくさんいた同性の友達より、なぜか孝太の方が何でも話せた。昔からアクティブな私と、趣味も性格も真逆な孝太。なぜ一緒に過ごせていたのかは分からない。でも私にとって孝太は、何の気も遣わずいられる唯一の友達だった。
大学進学のために上京することになった私は、地元を離れる前日の夜、孝太から家の近くの公園に呼び出された。
「これ、餞別」
そう言って渡された包みの中身は、万年筆とインク瓶だった。
「何これ?」
「だから餞別。ケイちゃん、筆不精だろうけど。たまには手紙書いてよ」
「手紙って、私そんなガラじゃないよ。それに、なんで手紙書くのに万年筆とインク? 普通レターセットとかじゃない?」
「だって、レターセットなんてすぐになくなるじゃん。インクの方がたくさん書ける」
「私がそんなに手紙書くと思う?」
「思わない」
孝太は即答した。
「じゃあ——」
「いいよ別に。ただ、あげたかっただけだから」
素っ気なくそうつぶやいた孝太は、
「じゃあ、それだけだから。ケイちゃん、元気でね」
とそのまま足早に公園を出ていった。
孝太と大喧嘩したのは、それから数ヶ月後のことだ。
とりあえず、スマホに下書きしよう。
真新しい便箋を照らすローテーブル上の小さなランプはそのままにして、私は薄暗い部屋のベッドに寝転がった。
伝えるべきはあの時の謝罪——そして結婚のお祝いだ。その事実に、私は再びため息をこぼす。
先日、人づてに孝太が結婚したという噂を聞いた。聞いた瞬間、私は自分でも信じられないくらいにショックを受けた。
考えてみれば当然だ。私たちはもう今年で30の年。周りの友達は次々に結婚している。かく言う私は、ご祝儀がかさむばかりで、幾度かの交際は結婚までたどり着かなかったけれど。
そりゃ孝太だって結婚する。分かってる。当たり前だ。
なのに、その日家に帰ってから、私は涙が止まらなかった。自分だけ置いていかれたような気がした。喧嘩別れしたとはいえ大切な存在なのに、素直に祝えなかった。
その気持ちは嫉妬じゃない。そのことを私は今さらながらに気づいた。
私は、離してはいけない人を離してしまったのだ。
どれだけ悔やんでも時間は戻らない。私の想いは気づいた瞬間に行き場を失った。
〝結婚おめでとう〟
そのたった一言のメッセージを、どうしても送信することができなかった。
書いては消し、書いてはまた消したあと、私はやっぱり手紙にしようと思った。あの時孝太がくれた万年筆とインクを使おうと。
散々悩んだ挙句、手紙の文面はシンプルにすることにした。
あの時はごめん。結婚おめでとう。
黒いインクが白い紙の上を滑る。ペン先の動きにあわせて、インクの香りがかすかに鼻先に香る。
初めて使う万年筆に最初は戸惑ったが、試し書きを何度かしたためか失敗はしなかった。
お世辞にも綺麗とは言えない真っ黒い文字が、変えようのない事実を心に刻み込んでいくようで、書きながら私の胸はギリギリと痛んだ。
あの時の孝太の悲しみに満ちた表情が蘇る。都会での新しい生活に舞いあがって、孝太に手紙を書くのを忘れていた私。あんな顔をさせたのは、私なのだ。
思えば、孝太は電話が嫌いだった。気恥ずかしいからだと本人が言っていた。いつも直接話してばかりいた私たちには、 メッセージを通して話をする習慣もなかった。
だから孝太は手紙を書いてほしいと言ったのだ。それなのに私は筆を執るどころか、もらった万年筆とインクさえ、一度だって使ってみることはなかった。
「ごめんって孝太。向こう帰ったら手紙書くから」
大学1年生の夏休み、帰省した私は軽い調子でそう口にした。
「そう言ってまた忘れるでしょ、どうせ。ケイちゃん、いつもそうだよね」
「そりゃ私が悪かったかもだけどさ、別にそんなに怒らなくてもいいじゃん」
「別に怒ってない。手紙、嫌なら嫌でいい。勝手に押しつけたことだし」
「だから嫌とかじゃないって。ちょっと忙しかっただけ」
私がそう弁解すると、孝太は私に背を向けた。
「そう。よかったじゃん、忙しくて。充実してそうで何よりだよ。ほんと、余計なことだった。向こうで話し相手いないだろうと思ったから、こっちは親切に手を差し伸べてあげたのに」
「何それ、そんなの私頼んでない」
「うん、だから余計だった。もう全部忘れてくれていいから。その程度だったんだし」
「ねぇ、孝太今日おかしいよ。なんか変わった?」
「なんで、変わったのはケイちゃんでしょ。もういい、じゃあね」
「ちょっと待って!」
立ち去ろうとした孝太の腕を掴んで引き止めた。
そして目に映った孝太の顔は、涙で濡れていた。
「……全部捨ててくれていいから。何もかも忘れて」
それっきり、私と孝太の長い付き合いは途切れてしまった。
封筒に入れた手紙は、翌朝ポストに投函した。最後まで送るのをやめようかどうか迷ったが、最後は手紙が手から滑り落ちるようにポストに入っていった。
その瞬間、私は小さく息を吐いて気持ちに区切りをつけた。泣くのは昨日が最後。もう前に進むしかない。
それからの私は、すべてのことを頭から振り払うように仕事に打ち込んだ。
そうやって時間が経ったある日、仕事帰りに家の郵便受けをのぞいた私は、とっさに息をのんだ。
手紙が1通。封筒には孝太の名前があった。
家に帰ってもなお、私はその封筒を開けられなかった。中身を見るのが怖かった。
孝太はまだ怒っているかもしれない。私は嫌われているかもしれない。私になんか祝われたくなかったかもしれない。
そんな考えが頭の中でぐるぐる回って、私は一晩中ほとんど寝つけなかった。
朝になって外が明るくなり、私はようやく布団から出て、手紙を開いた。
そこには懐かしい孝太の文字が、かすかに光を反射するようななめらかなインクで綴られていた。朝の光に照らされたその深い青色の文章を見て、私は言葉を失った。
——ケイちゃん。お久しぶりです。手紙、とても驚きました。
ケイちゃんはお元気ですか。僕は元気です。
あの時のこと、僕の方こそごめんなさい。
あの時、僕はケイちゃんに八つ当たりをしました。都会で楽しそうにやっているケイちゃんを見ると、自分が情けなく馬鹿らしく思えて、ケイちゃんにその感情をぶつけてしまいました。そして、そのまま引くに引けず意固地になってしまいました。あとから、何度後悔したか分かりません。
そして、もう一つ言いたいことがあります。
せっかくお祝いしてもらって申し訳ないのですが、残念ながら僕はまだ独り身です。まだ結婚していません。きっとどこかで間違った噂が伝わったのだと思います。
僕は昔、大失恋をしました。正直今でも引きずっています。なので、今後も結婚は難しいかなと思います。
ケイちゃんは今、幸せですか?
もしそうなら、僕の失恋も無駄じゃなかった。
手紙をありがとう。インクも使ってくれてありがとう。
手紙を読み終えた私は、しばらく呆然と便箋を握りしめた。
そしてハッと思い立ち、勢い良く立ち上がった。
スマホで連絡先を探す。見つけた番号を、躊躇なく呼び出す。
「——もしもし」
電話の向こうに懐かしい声がした。
「ケイちゃん、だよね」
「うん、そう」
「わぁ、ほんとにケイちゃんだ。久しぶり」
「久しぶり。あの……手紙ありがとう」
「あ……読んだ、よね。えっと……」
「私っ」
困ったような孝太の声を遮った。声が詰まって、数秒の沈黙が流れる。
「……幸せじゃないよ。つらかった。だって私……失恋したと思ったから」
「……え」
心臓の音が向こうにも聞こえてしまいそうなくらい、激しく鳴っている。
「孝太が結婚したって聞いて、初めて気づいた。私、ほんと馬鹿だよね。後悔しても、遅いのに……」
「——遅くないよ」
低く静かな声で孝太は言った。
「遅くなんかないよ……僕の方こそずっと後悔してた。ケイちゃんに好きだって言えばよかったって。だから手紙書いてほしかったって、忘れないでほしかったって。素直に言えばよかった、ずっとそう思い続けてきた」
私はようやくあの時の孝太の本心を知った。〝ずっと〟という言葉の意味の重さに、胸が苦しくなる。
「ケイちゃんから手紙もらって、最初は戸惑ったけど、これが最後のチャンスだと思った。気持ちを伝える二度とない機会。もう後悔したくないから。だから……」
私はスマホにじっと耳をすました。
「ケイちゃん、好きです。ずっと好きでした。もしまだ遅くないなら、もう一度ケイちゃんのそばに行ってもいいですか」
自分の頬を温かいものが伝うのが分かった。私も、もう後悔はしない。
「——うん」
テーブルの上の孝太からの手紙。一見黒のようなインクが、太陽の光を受けて深い青色にきらめく。
ふと、その隣で同じように反射する光に気がついた。
あの時もらったインクの瓶を手に取って、そっとひっくり返す。
裏のラベルには小さくこう記されていた。
『Midnight Blue』
『マグカップ』
気づけばいつも、私は人を観察している。
話し方や立ち振る舞いはもちろん、服装や持ち物が目に入ると、その人がどんな人物なのか無意識に考えてしまう。それが癖になっていた。
今日付けで異動してきたばかりの部署。部屋の片隅にある休憩スペースで、電気ポットの横に並んだマグカップを見た私は、またいつものように考え始めた。
これ、この間SNSで話題になった、カフェチェーンの季節限定マグ。流行りに敏感で目立ちたがりなこの人は、自己顕示欲高め。そして、こっちは陶器だ……たぶん、何焼きかもこだわって使ってる。こういうこだわりが強いタイプの人は、そう簡単には自分の意見を曲げない。逆に、こっちの百均にもありそうな普通のカップを使っているような、こだわりのないタイプの人は、他人の視線や評価を気にしない。これは、いい意味でも悪い意味でも。それから、こっちは——
1つのマグカップに、私は目を止めた。
真っ白い陶磁器のようなそのカップは、とてもシンプルなデザインなのに、1つだけ他と大きく違っていた。
——持ち手が……2つ?
右と左、それぞれに取っ手がついている。右利きでも左利きでも、どちらでも使えるようにだろうか。でもそれなら、普通のマグカップを回転させればいい。だとしたら……
このマグカップの持ち主は、何でも人と違うものが好きという個性派。言い換えるとしたら、そう、変人タイプ。
「平田さん、この資料のデータ入力頼める?」
「あ、えーっと……はい、大丈夫です」
この部署に来てから数日。まだまだ慣れないことが多くて、自分の抱えた仕事をこなすので正直手一杯だ。でも、無理だとは簡単には言えない。
重たい紙の束は、私のデスクの上にどっさりと積まれた。
「——僕、手伝おうか?」
私の余裕のなさに勘づいたのか、隣に座った戸塚さんが小声でそう声をかけてくれた。
「あ、いやでも……」
「いいのいいの。気にしないで」
目の前にできた山を崩すように、戸塚さんは資料を数回に分けて自分の机に運んだ。
「すみません、ありがとうございます……」
戸塚さんは、よく気がつくし、こうした気遣いができる人だ。歳は少ししか変わらないのだろうが、彼のような人が同じ部署にいるのは心強い。
そう思いながら視線を横にそらした時、私の目に戸塚さんのデスクの上のあるものが映った。
白いマグカップ。持ち手が左右に2つついている。私が変人タイプのものだと思った、あのマグカップだ。
その事実に、私は少なからず意表を突かれた。どうして彼はこんなマグカップを使っているのだろう。
そんな小さな引っかかりを覚えたまま就業時間になり、私はデスクを立つ前に、またさり気なく隣の様子をうかがった。
まだパソコンに向き合っていた戸塚さんは、ようやく作業が終わったのか、「よし」とつぶやいてパソコンを閉じた。そして、机の上に転がっていたボールペンをペンケースにしまおうとする。
戸塚さんにつかまれたボールペンは、一瞬空中に持ち上げられたものの、次の瞬間には彼の手の中からこぼれ落ちていった。落ちた先で机の端にぶつかり、そのまま床まで落ちていく。
私はハッとして床のボールペンに手を伸ばした。
「あ、すみません」
「いえ。はい、どうぞ」
ペンを渡すと、戸塚さんは小さく礼を言いながら、それをペンケースにしまった。その指先に、私はどこかぎこちなさのようなものを感じた気がした。
ふぅ、と息をついた戸塚さんは、机の上のマグカップを見た。まだ中身が入ったままなのか、彼がカップを持ち上げる。
持ち手に両手の指を通し、包むように持って口元に運んだ。
それを見た瞬間、私は初めてこのマグカップの意味を理解した。
戸塚さんの表情は変わらない。ただ、いつも通りの穏やかな顔でコーヒーを飲んでいるだけだ。
私は何も言わずに視線をそらした。
何も見えてなんていなかった。見えていたのはただ、自分の中の思い込みだけだった。
それからしばらく経ち、先日、戸塚さんのマグカップはタンブラーに変わった。
タンブラーは、フタを開けるとストローが出てくるタイプのもので、持ち上げなくても飲み物を飲むことができる。あのマグカップは今、戸塚さんのデスクの引き出しの中にしまわれている。
「最初はただの疲れかと思ったんですけどね。でも、だんだんパソコンのキーボードが押しにくくなって、ボールペンだって何本落としたんだろう」
戸塚さんはそう言って、困ったように笑った。
「でも僕は恵まれてるんです。だって、こんなでもまだ働けてるんだから。働かせてもらえる間は、弱音なんか言う暇もなく精一杯働きます」
あの時の力強さは、今も私の中にずっと残っている。
この先、あとどれくらい一緒に働けるだろうか。そのことを考えると、胸が押しつぶされるように苦しくなる。
私は自分のマグカップを手に取った。
これを買った時のことを思い出す。普段から人のものについてあれこれ思うせいで、自分のものとなると、どう思われるか考えすぎて、なかなか決められなかった。
戸塚さんの目に、このマグカップはどう映っているのだろうか。彼からしてみれば、どんなマグカップもたいして違いはないのかもしれない。
ものの見え方は、人によって変わるのだと思う。同じ世界にいても、私の見ているものと、戸塚さんが見ているものはきっと重ならない。だから、私の見る世界がいつも正しいとは限らない。見ただけで分かることなんて、ほんのちょっとのことなのだ。
そのことに気づいた今、私の目には、戸塚さんのマグカップがあの時と違うように見えた。
『雨音に包まれて』
校舎の窓をのぞくと、外は雨が降っていた。廊下も雨の日の匂いがする。
梅雨のこの時期、毎日のように雨が降っているが、ついさっきまではまだ降っていなかった。
ちょうど今頃、みんなはバスに乗り込んでいるのだろう、と手首の時計を見た。
今日はテスト前でどの部活も休みになっている。本当なら、私もそのバスに乗って帰るはずだった。
全国の高校生が出展する美術展に、うちの美術部で唯一、私だけが作品を出展することになった。実力を認められたのは嬉しい。でも正直、部活の中ではあまり居心地がいいとは言えない。私は誰かに認めてほしかったわけじゃない。ただ、唯一自分が熱中できる絵を、もっと上手くなりたかっただけだ。
今日もこうして私だけが、部活のないはずの放課後に、一人、出展用の作業をしていた。そして、バスを逃してしまった。
坂の上にある学校からバス停までは、少し歩かなければいけない。玄関に向かうと、湿度の高い空気が全身にまとわりついた。傘をさして玄関を出た私は、カバンを濡らさないように前に抱えながら、急な坂道を下った。
次のバスまでは、あと30分以上ある。田舎は、バスも電車も本数が少ない。
辺りにはもう、生徒の姿はない。徒歩や自転車など、バス通学以外の生徒も、とっくに下校してしまったらしい。当然、バス停にももう、生徒は誰もいないだろう。
そう思っていたのに、見えてきたバス停の屋根の下には、人影があった。
——先輩だ。
古い木のベンチの端で、腕を組み、トタンの壁に寄りかかるようにして目を閉じた先輩。
だんだんと近づくにつれて、その造形の美しさに、胸がまたいつものように高鳴った。
深山(みやま)先輩、という名前は知っている。でも、実際にそう呼んだこともなければ、会話をしたことすら一度もない。
先輩とは毎朝バスで一緒になるだけだ。いつも私より先にバスに乗っていて、バスの中ではいつ見ても目を閉じて寝ている。まさしく今みたいに。
先輩の美しい顔立ちは学校の中でも有名で、人気がある。バスの中で先輩が眠っている間、私は心の中でこっそりと、その顔の線をなぞった。影を足して、光を捉え、毎日1枚の絵として眺めた。それが私のひそやかな楽しみだった。
でも、なぜ先輩はまだバスに乗っていないのだろうか。
先輩の荷物はカバンだけで、傘はどこにも見当たらない。制服のシャツも、耳上までのまっすぐな髪も、どこもまったく濡れていない。
時間通りなら、バスは雨が降り出してからここに来たはずだ。きっと先輩はその前からここにいたのだろう。もしかしたら、寝ていたせいで、さっきのバスに乗りそびれてしまったのかもしれない。
私はそんなことを考えながら、先輩が座るベンチの反対側の端に、静かに腰を下ろした。
トタンの屋根に雨が跳ね返る。その不規則な音が、他の音を遠ざける。
私は山並みの霞を眺めながら、時々、視界の端に先輩の横顔を映した。そして、また前を向く。
バスはあとどれくらいで来るだろう。何度目かの視線を往復したあと、私は腕時計を見つめた。
「——絵、上手なんだね」
ふいに聞こえた声に、私はハッと横を見た。
「えっ……」
「見たんだ、君の絵。飾ってあったから」
先輩がこっちを見ている。
「あ、あの……ありがとうございます」
返した声は、自分でも分かるくらい、うわずっていた。
「それに描いてるところも。絵描くの、好きなんだね」
「はい! その、好き……です」
初めて、先輩と視線が合った。柔らかな声に、静かなまなざし。会話はもちろん、目が合うのもこれが初めてで、たちまち顔がほてっていく。
私は今まで、先輩を一方的に見ているつもりだった。先輩の視界の中に私がいたなんて、少しも考えたことがなかった。
トン、パタン、トトン。次の言葉を待つかのように、雨音が鳴る。
「——毎日思ってた」
先輩が屋根を見上げる。
「バスの中で、何を君はそんなに一生懸命見てるんだろうって」
私はどきりとした。
「普段、いろんな人がこっちを見るからさ、自然と目を閉じておくことが多いんだ。そしたらほら、こっちからは見えないから」
そこで私は初めて知った。先輩はいつもただ寝ていたわけじゃなかった。理由があって、目を閉じていたんだ。
そんなことにも気づかず、私は毎朝のように……いや、さっきだって。私はずっと先輩を——
「すみません、私、先輩の気持ちも考えないで……」
思わずこぼれた言葉に、先輩がこちらを向く。
「ただ……先輩のこと、描いてみたいなって思って。気づいたら、毎朝見てて……」
言いながら、自分でも顔が熱くなるのが分かった。言うつもりじゃなかった。でも、本心から出た言葉だった。
先輩は、少し目を見開いたように見えた。けれど、すぐにふっと目を細める。
「君の視線に気づいた時、なんだか他の人のとは違うって思った。上手く言えないけど、嫌な感じがしなかった」
私は驚いて、視線を上げた。
「謝らなくていい。何なら、今描いてくれてもいいんだ。どうせバスが来るまで、まだ時間があるんだから」
薄暗い空の下でも、その顔立ちには、はっきりとした陰影が浮かび上がっていた。
おでこから滑るように眉へ、そこからくっきりと通った鼻筋に向かう。顎はシャープに首筋へとつながっている。
直線と曲線だけでできているとは思えない立体的な横顔に、デッサン用の鉛筆がスケッチブックの上をなめらかに走った。
ふぅ、と息をつき、私は手を止めた。
「……描けた?」
「まだ全然粗いんですが……」
「見ていい?」
「えっと……」
私が小さくうなずくと、先輩は私の手元をのぞき込んだ。
「うわ……すごい……」
自分の心音が耳元で聞こえる。雨の音が遠くに感じる。
「おれ、こんな顔してるんだ」
「……もっとです。もっと上手く描かないと先輩の顔にはかなわないから」
自分の描いた絵を見ながら、客観的にそう思う。
「じゃあ——今度はもっと上手く描いて」
その言葉に、一瞬、鼓動が強く脈を打つ。
そこに、バスのヘッドライトが近づいてきた。
「あ、バス来た」
隣で先輩が立ち上がる。
雨をかき分けるようにやってきたバスが止まり、すぐにドアが音を立てて開く。
「行こう」
カバンを手にした先輩がバスに向かうのを見て、私は慌ててスケッチブックをバッグにしまい、それから傘を手に立ち上がった。
先にバスのステップに足を乗せた先輩が、ふと動きを止めた。
雨の勢いが強くなる。バス停の屋根を出た先輩の背中が、雨に濡れる。
私は先輩に傘をさそうか迷って、手元を見た。
「——バス、見送ってよかった」
とめどなく降り続ける雨の音にまぎれて、そう聞こえた気がした。
「それって……」
言おうとした言葉を飲み込む。
顔を上げたとき、先輩はもうバスに乗り込んでいた。
『君と歩いた道』
「は!?」
久しぶりに家を訪ねてきた友人が、部屋に上がるなり眉をひそめた。
「ヨシト、お前まだそいつ処分してなかったのか」
ボロアパートの隅でうなだれたようにして丸まっているあいつを、シオンがあごで指す。
「あ、あぁ。まぁ……な」
色あせた表面の塗装は、ところどころ剥がれている。メーカーの修理対応がとっくに終了してしまったこの型は、もうずっと動かないままだ。
——NEW HORIZON(ニューホライズン)
世界中のほとんどの家庭が一家に1台以上のヒューマノイドロボット(人型ロボット)を所持しているこの時代、アメリカのAZ社が開発したNEW HORIZONは、世界生産の半数を超える圧倒的なシェアを誇っている。
そして、ここでうなだれているヒューマノイドこそ、その最も初期の型である〝NEW HORIZON Ⅰ(ワン)〟なのだ。
「いい加減どうにかしろよな。もう3年だろ? 動かなくなって。時代はもうHORIZON Ⅴ(ファイブ)だってのに」
確かにシオンの言う通りだった。修理もできず、この狭い部屋で場所ばかりとっている故障したヒューマノイドなんか、本当ならさっさと手放せばいいだけだ。
「ちなみに、俺はファイブ予約済みだから」
「お前……さては稼いでるな」
鋭くにらみつけた視線を交わしながら、シオンはむかつく笑みを浮かべた。
「まあな。少なくとも、院に進んだお前よりは金持ちだ」
「だとしたら、手土産を持ってくるくらいの気は利かせてくれ」
「すまんな。あいにく、新型ヒューマノイドのせいで金欠なんだ」
食費を削るほど金がないやつが目の前にいることに、多分こいつは気づいていない。大学を卒業して大手企業に就職したシオンは、今や立派な社会人だ。院に進んで、研究ばかりしている万年金欠の俺とは大違いだった。
「あ、そうだ。今使ってるHORIZON Ⅳ(フォー)、あれ下取りに出そうと思っていたが、手土産の詫びにお前に譲ってもいいぞ。もちろんタダではないが、格安でいい」
視界の端にいるあいつは、あの日止まってから今日まで、一度も動いていない。何をどう頑張っても、うんともすんとも言わない。普通に考えれば、この申し出はありがたく受けるべきだ。でも——
「タダでも、もらってやるかよ」
2人から目を背けるように、俺は窓の外の曇天を眺めた。
アメリカ発のヒューマノイドに、俺は〝ジェイムズ〟と名付けた。これはあとから知ったことだが、ジェイムズは日本の工場で作られた正真正銘の日本生まれだ。
ジェイムズが初めてうちに来た日、俺は呆気にとられた。
ちょうどNEW HORIZON Ⅲ(スリー)が発売された年、当時大学2年生だった俺はネットで格安の中古HORIZONを見つけ、購入した。
俺はその時、最新型であるNEW HORIZON Ⅲの中古を買ったつもりだった。だが、届いたのは初期型HORIZONの中古、ジェイムズだった。何事も安いものには理由がある。
ジェイムズははっきり言ってぽんこつだ。中古だからか、そもそも型が古いからか分からないが、会話は時々噛み合わなくなるし、できることも最新型に比べたら天と地ほどの差がある。見た目も年季が入っていて、お世辞にも連れ歩きたいほどきれいとは言えなかった。
最新型ヒューマノイドがいれば生活の質が圧倒的に変わると聞いて期待していたが、その期待も実現するどころか、こっちがジェイムズの面倒をみることになった。とんだ誤算だ。
思い返せば一度だけ、一緒に外に出かけたことがある。まだあいつがうちに来たばかりで、元気だった頃の話だ。
「ここはどこですか」
「それは俺がお前に聞きたいんだぞ、ジェイムズ」
「そうでしたか、すみません」
車を持たない貧乏学生の生活の足である全自動スクーターが故障し、それを引き取りに行く途中だった。
「まったく。どうしても着いてくるって言うから連れてきたのに、全然役に立たないじゃないか」
ジェイムズのインターネット接続が上手くいかず、頼りのナビ機能が使えなくて俺たちは完全に道に迷っていた。
「すみません。お役に立てるように頑張ります」
そう意気込んだ直後、ジェイムズの体内から電子音が聞こえた。
「あと5分でバッテリーが切れます」
「は!? ちゃんと朝まで充電してただろ!?」
「はい。ですが、あと5分で完全停止します」
「完全……停止……」
さっきから全く車の通らない道。あたりに民家など見当たらない。現在地も分からない。連絡手段もジェイムズしかない。こんなところでこいつが停止したら——終わった。
途方に暮れてトボトボ歩く俺と、体をきしませながらも能天気に歩くヒューマノイド。初夏の日差しが頭に照りつける。もうそろそろ、こいつはここで体育座りのような停止体勢になり、そのまま動かなくなるだろう。
安さに目がくらんで、よく確認もせずにヒューマノイドなんか買うんじゃなかった。予定通りこれがHORIZON Ⅲだったなら、こんなことにはならなかっただろう。
「はぁ……」
深いため息をこぼすと、先を歩いていたジェイムズが振り返った。
「ヨシトさん、どうしましたか? 疲れましたか? 助けが必要なら言ってください。緊急時機能〝大声で叫ぶ〟を使うことができます」
真顔でそう言うジェイムズに、慌てて首を振る。
「いやいや、やめてくれ。第一、その機能を使ったところで、誰も聞いてなきゃ意味ないだろ」
人の存在を確認するように、ジェイムズが辺りを見回す。
「そのよう……ですね」
「せめて、ここがどこか分かればな……」
俺は天を仰いだ。それと同時に、ジェイムズがとうとう停止直前の最終アラームを鳴らし始めた。
「ヨシトさん」
「いいから喋るな。もうバッテリーが切れるぞ」
「はい」
絶え間なくアラーム音が鳴り続ける。
「ヨシトさん」
「だからお前喋るなって——」
「現在地が分かりました」
「えっ……」
「現在地が分かりました。目的地までの案内を記憶してください」
「あっ、ちょっと待って」
ジェイムズが早口で言う道順を、俺は必死に覚えた。目的地まで、そう遠くなさそうだった。
「で、最後に右だな? よし。ん、ジェイムズ……」
隣を見ると視線が合うことはなく、ただ足元には力尽きたジェイムズが膝を抱えていた。
道は覚えた。問題は、この動かない金属の塊をどうするか。
結局俺は、修理工場までジェイムズを引っ張って行き、帰りはスクーターにジェイムズを乗せ、それを押して帰ることになった。
そんなジェイムズがある日突然動かなくなってから、早いものでもう3年が経った。
あんなにぽんこつで役になんかちっとも立たないのに……いや、ぽんこつだからこそなのか。俺はどうしてもジェイムズの代わりを見つけようとは思えなかった。
「なぁ、ジェイムズ。もうちょっとだけ、待っててくれ」
シオンが帰った家。返事をする声はない。
「俺、お前を直すために今頑張ってんだからな。お前のために機械工学の研究課程に進んだんだ。感謝しろよな」
メーカーに頼れないなら、ジェイムズの修理は俺がやるしかない。どうせならバッテリーの持ちも、電波の受信具合も良くして、前より頼れるヒューマノイドにしよう。
そしたらまた、こいつと一緒にどこかに出かけよう。
あの日一緒に歩いた道。相変わらず人通りはなく、遮るもののない太陽光がアスファルトに反射する。
「今どの辺?」
「目的地まで、およそ27分の地点です」
「バッテリーは問題ないか?」
「はい。バッテリー残量79%、問題ありません」
「もうぽんこつじゃないな——ジェイムズ」
「はい。わたしはもう、ぽんこつではありません」
自慢気な顔のジェイムズ。生まれ変わったジェイムズに関心したのも束の間、なぜかまたアラーム音が鳴り始めた。
「おいジェイムズ、今度は何なんだ」
「太陽光により体内温度が上昇。5分後には危険値を超える予定です」
「……超えたらどうなる」
「完全停止です」
『夢を描け』
「ほら手が止まってるぞ、ヒロ」
階段の下から、タロ先生の声が飛んできた。
コンクリートで造られた校舎、階段横の壁は僕の前だけ灰色のままだ。
隣で描いているユカも、その向こうで描いているキミタカも、もう描きたいものは決まっていて、順調に絵の具を広げている。
「うーん……」
腕を組み、眉をひそめながら考える。
僕の夢って、何だろう——
来年の春、僕らの小学校は廃校になる。
最後の卒業生となる6年生は、僕を入れて3人。頭が良くて頼れるキミタカ、ちょっとおせっかいなとこもあるけど優しいユカ、そして何てことのない平凡な僕。僕たちは入学した時からずっと、3人で一緒に過ごしてきた。
これから、キミタカは私立の中学校を受験することになっていて、ユカと僕は中学校では校区が違う。卒業すれば、3人とも別々の学校に通うことになる。
下級生のみんなは、来年度から他の学校に転校することに決まっているらしい。
最後の思い出に何かできないか、と担任のタロ先生が言った時、校舎に絵を描きたいと言ったのは僕自身だった。
それにキミタカもユカも賛成してくれて、他の学年の子もみんな一緒に、別れを告げるこの校舎に絵を描くことになった。
そして、そのテーマが〝夢〟だった。
「まぁ、いきなり『夢を描け』なんて言われても困るよね」
ふぅ、と額の汗を体操服の袖で拭ったユカが、こっちを見てそう言った。
「あたしもホントは困るんだ。だって、あたしの夢なんて、こんなちっちゃな場所には収まりきらないもん」
そうやって得意気に言うユカを、僕は心の中で羨ましく思う。
「あたし女優さんになるって決めてるんだけど、最近ちょっとパイロットもかっこいいなって思い始めてさ。あ、でも世界的なデザイナーになるっていうのもアリなんだよなぁ」
「さすがユカの夢はどれも大きいんだな。態度と同じくらい」
キミタカがユカにちょっかいをかける。
「はぁ!? ちょっと、今なんて言ったの!」
「別にー」
キミタカは笑いながらも、手は黙々と動かし続けている。
そういうキミタカの夢は、昔からずっと同じだ。
「キミタカはいいよなぁ、医者になるって決まってて」
どんどん夢を描き進めるキミタカを見ていると、ついそう口に出してしまった。
「別に決まってなんかない。親が医者だからって、努力しなきゃ医者にはなれない。でも俺はどれだけ大変でも、父さんのような医者になりたいし、医者として誰かの役に立ちたいから」
「うん、だよね……ごめん」
キミタカの前では、自分がとてもちっぽけで情けなく思えてしまう。
「そんな謝るなよ。ヒロにだって、なりたいものとかやりたいことがきっとあるはずなんだから」
「そう……かな」
そうつぶやいた小さな声が消えてしまったあと、僕は再び目の前の壁に向き合った。
「——自由に描けばいいさ」
その声に驚いて振り返ると、すぐ後ろにタロ先生が立っていた。
「夢なんてのは、別に大きくなくていいし、立派でなくてもいい。誰にだって心の中にあるもんで、それに従って突き進めばいつかは辿りつけるもんなんだ」
「じゃあ……先生の夢は?」
「ん、俺のか?」
一瞬天井を見上げたタロ先生が、視線を戻してニカッと口角を上げた。
「俺の夢はお前らが無事に卒業すること。あと、俺の生徒たちみんなが夢を叶えること。その手伝いをするのが先生っていう仕事だからな」
そうやって笑うタロ先生は、時々怖いこともあるけど、やっぱりすごくかっこいい先生だ。
「じゃあ、タロ先生の夢を叶えるために僕も夢を叶えなくちゃいけないってことか」
「そうなるな! 頼んだぞ、ヒロ!」
大きな口で笑うと、先生は僕のもとを離れて、また階段を降りていった。
僕はまっさらなコンクリートに手を触れてみた。ひんやりとした温度が手のひらに広がる。
目を閉じると、ざわめきが聞こえてくる気がした。子どもの笑い声や生徒を叱る先生の声、チャイムの音、「おはよう」「さよなら」の挨拶……まだここを、たくさんの生徒たちが行き交っていた時代の声だ。
今は大きくなったその生徒たちも、たくさんの生徒を見守ってきたこの校舎も、きっと僕らと同じくらい寂しくて切ない気持ちでいっぱいだろう。
「入学したばっかりの頃、覚えてる?」
しばらく集中して作業をしていたユカが突然口を開いた。
「あたし、あの頃ほんとはすっごく緊張しててさ。2人は幼稚園から一緒だったのに、あたしだけはじめましてだったから」
確かに最初はそうだった。でもユカはこの性格だから、あっという間に僕たちと打ち解けたはずだ。
「休み時間に、ヒロがあたしの机にノートを持ってきたことがあったでしょ?」
「ノート?」
「あ、もしかしてヒロの自由帳? そういえば、昔はよく描いてたな」
キミタカが懐かしそうに言う。
「そう。そこに、ヒロが絵を描いてくれたの」
「え、そうだっけ?」
思い出そうとしてみても、全く思い出せない。
「そうだよ! あたしの絵を描いてくれたの!」
「やるな、ヒロ」
「そんなんじゃないから!」
すかさず否定する。
「別に何でもいいけどさ。でも、あれがなかったらあたし、今みたいに2人と仲良くなれてなかったかもしれないって思う」
「そんなことないでしょ」
「そんなことあるの。これでも感謝してるんだから、あたし」
こっちを見るわけでもなく、ユカはつんとした口調でそう言った。
「あの絵を見て笑顔になったあたしに、ヒロは言ってくれたんだ。『ユカちゃん、初めて笑ったね。僕、この絵を描いてよかった』って」
その瞬間、僕はやっと思い出した。初めて見たユカの笑顔。ユカは僕の下手くそな絵を見て、すごく喜んでくれた。
「ほら、描きなよ」
ユカが自分の筆を僕の目の前に差し出した。
「何でもいいから、とりあえず描いてみなよ」
ユカと目が合って、僕はユカの筆を静かに手に取った。
筆先にはユカが選んだピンクの絵の具。僕はひと思いにその筆で大きく壁に1本の線を描いた。灰色の壁に、ピンク色の山なりの線が1筋生まれる。
僕の、夢……
この場所には数え切れないほどの思い出がある。みんなとここで過ごした時間は、これからもきっと忘れることはない。
僕は、そんな学校を寂しい場所で終わらせたくなくて、ここに絵を描きたいと思った。みんなが笑顔になれるような絵を、僕らがいた証を、ここに残したかったんだ。
「見つけた……かもしれない」
2人の方を見ると、2人もこっちを見ていた。僕が頷くと、2人がそれに答える。
「——よし」
この場所いっぱいに僕の大切なものを描こう。
教室の窓から見える景色、通学路に咲く花、いつの間にか口ずさんでしまう校歌、一緒に笑ったり泣いたり喧嘩もした友達、忘れ物には厳しいけどいつも褒めてくれる先生、そして毎日通った僕らの学び舎––––
この壁の前を通るみんなが、最後まで笑顔でいられるような。いや、この先もずっと思い出す度に笑顔になるような絵。
そんな絵が、僕に描けるだろうか。ううん、とにかくやってみよう。
この先のことはまだ分からないけど、今の僕の夢はきっと、これなんだ。