『みかん』
山越えの道路を車で行く途中、道沿いにぽつりぽつりと設けられた小屋のようなものが目に入った。
また少し先に見かけて、通り過ぎる瞬間にそれを確認する。木で造られた屋根のある小さな建物の中にはオレンジと赤……
それを見て、みかんだ! と思った。
赤いネットに入ったみかんが数袋、小屋の中に並んでいる。
そういえば、この辺りにはみかん畑がたくさんある。小屋は、そのみかんを売るための無人販売所なのだろう。
次に通り過ぎた小屋には、手書きの看板にペンキで〝みかん 100円〟と書かれてきた。
アオトは心の中でガッツポーズをした。
大好物のみかんが、こんなに安い。しかもスーパーのより絶対美味しい。
きっと詳しい人は、この中でさらに1番美味しいみかんを置く店を知っているのだろうが、アオトにはこの中からどこを選べばいいのか分からなかった。
よし、次に見えた店に止まろう。
そう決めてから次の小屋が視界に入るまではすぐだった。
慌ててスピードを緩め、道路脇の空地に車を停める。隣にもう1台車があった。どうやら先客がいるようだ。
車のドアを開けると首元に冷たい風が吹き込んできた。アオトは、身震いしながらダウンのチャックを上までグイッと引っ張り上げた。
小屋の前に立ったアオトは、この無人販売所は当たりかもしれない、と思う。
ここのみかんは赤いネットに入った袋を、さらに丸いかごに入れて並べるスタイルだ。見たところ、かごの数は10個かそこらだ。その中で、みかんを乗せているのは3つ。
そして、前にも客がいる。ここのみかんは結構人気らしい。
先客の女性がみかんを手に取った。そのまま手を伸ばし、もう1つ取る。
とうとう、かごのみかんはあと1袋になった。
幸い、女性はその2袋だけを抱えて車に戻っていった。残り物には福があるというし、ラッキーだ。
ポケットから財布を出す。無人販売なんてものがこうやって成り立っている日本は平和だな、と思いながら料金箱に100円玉を入れた。
そうやって最後のみかんに手を伸ばしたその時、後ろに近づいてきたエンジン音が止まった。
あっ、と思い振り返る。
アオトの車の横に、黄色の軽自動車が停まっている。そして、中から同い年くらいの若い女性が降りてきた。
そっちを見ていたアオトと目が合う。
「すみませーん、もう売り切れですかー?」
伸びのある声が飛んでくる。
「あ、えっと。あと1袋……」
みかんをチラッと見てそう言う。
「よかった、ラッキー」
小走りでやって来る彼女。アオトは内心、しまった、と思っていた。自分がはっきり言わなかったせいで勘違いをさせてしまった。
心底嬉しそうな彼女に、このみかんが自分のだと主張することなんて、アオトにはできなかった。
どうすべきか分からなくて、その場に立ち尽くす。
料金を箱に入れた彼女が最後のみかんを手に取り、遂にみかんは完売となった。
アオトは心の中でため息をついた。
そんなこととは思いもしないだろう。嬉しそうな彼女の背中に軽く会釈をして、アオトは車へと向かった。
「あの!」
よく通る明るい声で呼び止められた。驚いて後ろを見る。
「みかん!」
「え?」
「このみかん! もしかしてあなたが買うつもりでした?」
両手を空っぽにしたアオトを見て、彼女がそう言った。
「えっと……はい……あ、でも気にしないで下さい。僕は他のとこを探すんで」
アオトが再び車に戻ろうとすると、再び「待って」と呼び止められた。
「よかったら、このみかん、半分こしませんか」
「え、半分こ……?」
「私、この辺のみかんは全部食べたけど、ここのが1番美味しいと思う。だから、譲ってもらったお礼に半分もらって下さい」
少し気が引けるような気もした。でもそれ以上に、そこまで美味しいみかんなら、アオトは食べてみたかった。
「じゃあ、お言葉に甘えて……」
「よかった!」
結局、最後のみかんは2人で半分ずつ分け合った。
自分の分のみかんを袋に移し終えた彼女は、その中から1個取って、その場でみかんを食べ始めた。
「う〜ん! 甘い! うまい!」
彼女があまりに美味しそうに食べるので、アオトも彼女の真似をしてみることにした。
「あ、ほんとだ! すごい美味しい!」
「でしょ」
少し自慢気に彼女が笑う。
「僕、絶対また買いに来ます」
「うん! でもお互い、今度はもっと早くにね」
そう笑い合って、彼女と別れた。
口の中が甘くて、ちょっとだけ酸っぱい。
今日食べたみかんの味はきっと、忘れない。
『てぶくろ』
〝てぶくろあり〼〟
ふとそんな立て看板が目に入り、私は足を止めた。
そこは大通りを一本入った細い通りの道沿いで、時々車が通り過ぎる他に人通りはほとんどなかった。
両隣の建物にぎゅっと挟まっているかのように間口が狭く、おそらく奥行きもそれほどない。
木製の扉は滑らかにやすりがかけられた丸ノブがついていて、足元にある小窓からは温かい明かりが外にもれている。
視線を上げると、突き出し看板が主張もなくそこに存在していた。
「──てぶくろ屋」
初めての響きを、口に出して確かめてみる。
ここは手袋の専門店なのだろうか。
私はその店にとても興味を惹かれた。ちょうど新しい手袋を探していたところだったのだ。
今、時刻はちょうど夕方を過ぎた頃だったが、表に立て看板が出てるのだから店は開いているのだろう。
日が落ちた通りに冷たい吹き込み、思わず肩をすぼめる。
私はコートのポケットに突っ込んでいた手を外に出して、店の入り口に伸ばした。
扉を開けるとカランコロンと音がした。
店に入ると他に客はおらず、店の造りは見回すまでもなくとてもシンプルだった。
小さな店だから、そのスペースをいっぱいに使ってたくさんの手袋が並ぶのかと想像していたが、実際には店の幅と同じだけのショーケースが店の奥の方に1つあるだけだ。
「いらっしゃいませ」
ショーケースの向こうに立つ店主らしき女性と目が合う。
思わず、私はドキッとした。
艶のある黒髪は肩の上でぷつりと切りそろえられていて、小さな顔は陶器のように澄んだ肌をしている。そして何より、彼女はこの上なく美しい顔立ちをしていた。それはまるで、誰かによって完璧に作られた人形なんじゃないかと思ってしまうほどに。
「寒い中、ようこそおいで下さいました」
同性であるにも関わらず、その美しさから目を離せない私に向かって、店主が小さく微笑みかける。
私は精一杯の気持ちで会釈を返す。
「てぶくろをお探しでしたら、どうぞこちらをご覧下さい。きっとお気に召す品があるかと思います」
店主に促されるままに、私はショーケースの中を覗き込んだ。
そこに並ぶ手袋は、数にして10にも満たない。
だが、何故だろう──頭に疑問が浮かぶ。
どうしてここにある手袋は全部片方だけなのだろうか。
レイアウトとして手袋を片手だけ並べることはあるのだろう。だがおかしな事に、目の前の手袋はそれぞれ右手用だったり左手用だったりと、てんでばらばらに並んでいるのだ。
「あの……どうしてここには手袋が片手ずつしか置かれていないんでしょうか」
そう尋ねた私に店主が再び微笑んだ。
「片方だけを必要とされているお客様がいらっしゃるからです」
店主の言葉に頭をひねる。
そんな客など本当にいるのだろうか。
そう思いながら再びショーケースに視線を落としたその時、見覚えのある手袋が1つ、目に飛び込んできた。
「これ!」
そこにあったのは、先日失くしてしまった手袋と全く同じ手袋だった。それも、私が失くしたのと同じ右手用だ。
今日、私はこの店に新しい手袋を探しに入ったものの、本当は前の手袋のことを諦めきれずにいた。あれは昔、母に貰って以来とても大事にしていた手袋だったからだ。
こんなことがあるなんて、と思うものの、目の前の片方の手袋は確かに私が1番欲しかった手袋だ。
随分昔のことなので、もう手に入れることはできないと思っていた。失くさなかった方の手袋は、今もちゃんと家の押入れにしまってある。
「あの、この手袋を下さい」
自然と声が弾む。
「かしこまりました」
店主が手袋を綺麗な紙で丁寧に包んでくれた。
私はその包みを、もう二度と失くさないようにしっかりと胸に抱きかかえる。
店を出る時、彼女の言葉を思い出した。
振り返って、店を見上げ、そして思う。
──この店がある理由が、今やっと分かった。
『泣かないで』
妻が飲酒運転の車にはねられた。
電話口で警察官にそう告げられた俺は、急ぎの仕事を投げ出し、すぐに彼女が運ばれた病院へと向かった。
「——残念ですが」
だが駆けつける間もなく、彼女は死んだ。医師が言うには、おそらく即死だったという。
その瞬間、目の前が真っ暗になった。
「ねぇパパ、ママどこ?」
クローゼットの奥から引っ張りだして着てきた喪服の裾を、息子の小さな手が引っ張る。
無邪気に尋ねる息子のハルキを見て、葬儀に参列した人々からいたたまれないというような視線が飛んでくる。
「ハルくん、パパは今忙しいからばぁばとお外で遊ぼうか」
俺と、隣に座る義母に気を遣ったのだろう。訃報を聞いて遠方から駆けつけた母が息子の手を引いて外に向かう。
その姿を俺は虚ろな目で捉えた。
あれは……春に入園式で来た服か。
今さらながら息子の格好に気がつく。そして、その時の記憶が蘇った。
「ねぇ何してるの! 早くして!」
「うん、あとちょっと。もうすぐカメラの充電終わるから……」
「え!? まだ充電なんかしてるの!? 式、遅刻しちゃうよ!」
入園初日の朝からそんなやり取りで妻に怒られながらも、どうにか式には間に合った。
ついこの前まで赤ん坊だった息子が、照れながらも大人の顔負けの小さなスーツ姿で歩く様子を見て、感動の涙が止まらなかったのは妻ではなく俺の方だった。
「ちょっと、しっかりしてよ」と小声で呟く妻に、「ごめん」と鼻水まじりの声で返す。
そんな俺を見て、妻は半分呆れながらも綺麗にアイロンのかかった淡い水色のハンカチを俺に差し出した。
「ありがど」
そのハンカチで涙を拭きながら撮った息子のビデオは、ピントも中心もめちゃくちゃで、後で見返した時に妻からこっぴどく叱られることになった。
その日の帰り道、彼女が言った。
「——ほんと、よかった」
「うん、最高の入園式だった。こんなふうにあっという間に大きくなっていくんだな」
「それはもちろんそうだけど、それだけじゃなくてさ」
「あ、朝ギリギリだったから? その件は本当に……」
「もう、そうじゃなくて! 保育園のこと、あらためてここに入れて本当に良かったなって」
「あぁうん、だね」
家計のために共働きをすると決めていた俺達にとって、息子の通う保育園がなかなか決まらないことは、とても深刻な問題だった。
このまま預け先が決まらなければ、どちらかが仕事をセーブしなければならないと話し始めた矢先、少し遠くの保育園に空きが出た。
正直、本当はもっと家やお互いの職場に近いところが良かった。だが、贅沢は言っていられない。
話し合った末、きっと大変なことも多いだろうけど、2人でどうにか協力してそこに通わせようと決めた。
曜日ごとに保育園にお迎えに行く決まりを作ったはいいものの、それを実現するのはなかなかに大変だった。
上司や同僚に頭を下げて早く帰らせてもらう代わりに、持ち帰ることの出来る仕事は持ち帰って、家で仕事をした。
だが夜がどんなに遅かったとしても、朝も早く起きなければ仕事に間に合わない。
仕事復帰直後にも関わらず同じく忙しそうな妻も同様に、心も身体もギリギリの日々がずっと続いていた。
『今日どうしても仕事で抜けられなくて、お迎え間に合いそうにないです。申し訳ないけど、代わりに頼めませんか』
妻が亡くなった当日、俺は彼女にメッセージを送った。
『そんなこと急に言われても、私だって困るんだけど』
そう言いながらも、彼女が俺の代わりにハルキを迎えに行ってくれることになった。
そして、その道中で彼女は事故に合った。
どうして妻が——
何度そう問いかけても、妻は帰ってこない。
加害者への深い憎しみと同時に、俺は自分自身も許せなかった。
自分が迎えに行けば彼女は死なずに済んだ。まだ小さな息子から母親を奪ったのは俺自身なのだ。
あの瞬間から、世界はずっと暗闇の中にある。
隣ですすり泣く義母に掛ける言葉もなく、自分は泣くことも許されない。
悲しみと憤りに包まれた葬儀場で、手を引かれ遠ざかる息子の背中に視線を送る。
これからもっと大きくなるだろうあの背中を、妻はもう見られない。誰よりも見たかったはずなのに。
そう思うともう息子の方を見ることも出来なかった。俯いて感情を押し殺すように唇を噛みしめる。
音も、光も、何もかも届かない。
いっそこのままそんな場所に閉じこもってしまいたい。
そう思った瞬間、目の前に一筋の光が現れた。
驚いて顔を上げると、そこには心配そうに顔を歪めた息子の姿があった。
「パパ、泣かないで」
自分の方こそ泣きそうな顔をした息子がこっちを見て言う。
「ほら、泣かないで」
もう一度そう言った息子の手には、水色のハンカチが握りしめられていた。入園式で妻が貸してくれたあの淡い水色のハンカチ。
ハンカチを差し出す息子に、妻の面影が重なる。
必死に堪えた涙も、もう止めることが出来なかった。
「ありがとう」
そう言ってせきを切ったように泣き出した俺を見て、息子も声を上げて泣き始めた。
俺はその泣きじゃくる小さな体をきつく抱きしめた。それは情けない父親に出来る精一杯のことだった。
「ハルキ、ごめんな。ママとはもう会えないんだ。でもね」
息子の頬を伝う涙を妻のハンカチで拭う。
「でも、もうパパ、泣かないから」
真っ暗な闇の中を照らすこの大切な光を守れるのは、もう俺しかいない。妻が残したこの優しさを、俺が守るのだ。
『夫婦』
「——はい、全て問題なくご記入いただけてますね。では、こちらを受理いたします」
カウンター越しに見えるのは初々しく微笑み合うカップル。そしてたった今、この瞬間から彼らは夫婦になる。
「おめでとうございます」
私がそう言うと、2人は息ぴったりに「ありがとうございます」とこれでもかというほどに幸せな笑顔をこちらに向けた。
手を繋ぎ立ち去る彼らの背を確認すると同時に、私は次のカップルを呼び出す番号を画面に表示させた。
世界中どこの国でも、単なる語呂合わせで験を担いだりするものなのだろうか。
少なくとも、11月22日で〝いい夫婦〟なんてものは日本語でしか通じないわけで、世界中でこの日をわざわざ選んで結婚するのはおそらく日本人だけだろう。
縁起の良い日に結婚したいというならばまだ分かる。現に、この窓口がいつもより忙しくなる大安などの吉日は、大昔から今に至るまでの長きに渡って人々に受け継がれてきたもので、現代でも冠婚葬祭を中心に重要とされている。
一方、それに比べたら〝いい夫婦の日〟などと決められたのはごくごく最近のことだ。大方、誰かが思いつきで勝手に決めただけの1日だろう。
だが、私が何を思おうと、毎年11月22日になればこうして忙しさを極めるのが現実なのだ。
「おめでとうございます」
これで今日何度目か数えるのも気が遠くなるほど、今朝から何度もこの言葉を口にしている。
本当のところは、それを言う決まりがあるわけではない。単に手続きが終われば、「お疲れ様でした」で済ましてしまうことも出来る。
だが、私はこう口にすることを自分の中で決めていた。ここに異動になって以来ずっとそうしてきたのだ。
だから、今さらそれを変えるのはプライドが許さない。
——本当は私だって……
顔には何も出さない。私の今日がどんな日であったとしても、彼らにとっては今日という1日が最高の日でなければならない。
「おめでとうございます」
そう言って何度だって繰り返すこの言葉は、おそらく彼らにとっては人生でたった1度の言葉になるのだ。
「三橋さん、お昼行ってきて。僕、代わるよ」
「あ、はい。ありがとうございます」
そう言えば、この早瀬さんも数年前の今日結婚したのではなかっただろうか。きっと今日の夜はあの綺麗な奥さんと結婚記念のお祝いをするのだろう。
思えば、今日のような分かりやすい日に結婚をすれば、結婚記念日を忘れて大喧嘩——みたいな修羅場も世の中から減るのかもしれない。
そんなことを考えながら階段を登り、食堂のある階まで上がる。
今日は普段より遅い昼食になってしまったので、手頃な値段でいつも人気な日替わり定食は当然のように売り切れていた。
割高にはなるが、仕方なく他のメニューを注文する。
弁当にすれば少し食費が浮くのだろう。だが、弁当を1人分だけ作る気にはなれない。
昔はよく弁当を作っていた。私の分と、彼の分の2つ。
彼が転勤して今のように遠距離になってからは、私の分も作らなくなった。あれからもう3年が経つ。
私だってこう捻くれたくて捻くれているわけではない。あの頃はまだ素直に人の幸せを喜ぶことが出来た。
当時だって、彼と付き合ってからもう5年は経っていたはずだ。なかなかの長い付き合いだった。
だが、すでに2人で一緒に暮らしていて、結婚はもうすぐそこだと思っていた。そんなふうだから、心にはまだどこか余裕があったのだと思う。
「転、勤……?」
「うん。最低でも2年はこっちに戻らないと思う」
ある日、彼は私にそう話を切り出した。その時の私にとって、彼の言う2年という月日は途方もなく思えた。
「——私は……?」
「それは、もちろん瑠衣の仕事のこともあるし、瑠衣の決断を尊重したい」
本当はその時、私は彼の意見が聞きたかった。実際にどうするかは別として、彼に「一緒に付いてきてほしい。だから結婚しよう」と言って欲しかった。
「仕事は……辞めたくない」
「——分かった……うん、そうだよね」
彼はそう小さく微笑むと、カバン1つの荷物だけを手に、ここから遠く離れた場所に行ってしまった。
そうして私が〝結婚〟の文字を自分から口にすることが出来ないうちに、彼との遠距離生活が始まった。
それからは2、3か月に1度、お互いに交互に会いに行くようになった。前回は私が彼の住む街に行った。お盆休みを使って行ったので、8月に会ったのが最後だ。
久しぶりに会うとはいえ何か特別なことをするわけでもなく、大抵はお互いの家で近況報告をしながらご飯を食べて終わる。
この前はちょうどお盆休みだったので、珍しく私が彼の家に2泊することになり、久しぶりに2人で映画を観て、外食もした。
どうせならと彼が予約してくれたのは検索した写真通りの雰囲気のいいレストランで、私は少し気合いを入れておしゃれをしてみた。
ただ結局は、雰囲気がいいのはレストランだけで、私達の雰囲気はいつもと何1つ変わらなかった。
そんなシチュエーションでさえ話に上がらないのだから、私はもう彼の口から〝結婚〟という言葉を聞くことを半ば諦めかけている。
だからと言って、誰かの結婚を妬むのは間違っていると分かっている。この仕事なら尚更、公私ははっきりさせなければならない。
だから私は今日も淡々と祝福を口にするのだ。
私は食べ終えた後の食器を手に立ち上がり、午後の業務へと向かった。
午前のうちにピークは越えたものの、やはり午後も婚姻届の受理を待つ列が途絶えることはなかった。
そしてこういう日は特に、閉庁間際にも滑り込んでくる人も多い。
「すみません!」
急ぐ足音と共に聞こえた声に、ほら来た、と思いながら顔を上げる。
「まだ間に合いますか!?」
この辺りで着るにはまだ早いダウンコートのせいで額に大粒の汗を浮かべ、どこから走ってきたのか大きく肩で息をしている。
「——なんで……」
カウンターに置かれた書類と、目の前に見る久しぶりの愛する人の顔を見比べる。
「だって今日は〝いい夫婦の日〟でしょ。僕は瑠衣といい夫婦になりたい。だから……この婚姻届を受理してください!」
そう勢い良く頭を下げる彼に圧倒されて、私は言葉に詰まった。
だって、今まで1度もそんな素振り見せなかったじゃん。しかもよりによって今日なの? もっと良い日は他にいくらでも……
思うことはたくさんあった。
でも、言いたいことは1つしかない。
「——はい」
私の返事を待つように、いつの間にか沈黙が流れていたその場に大きな拍手と歓声が沸き上がった。
嬉しさと恥ずかしさが入り混じって、顔が火照っていくのが分かる。
「あの、三橋さん」
まだあちこちにざわめきが残る中、後ろから声がした。
「え、あ、はい」
振り返ると早瀬さんがとぼけたような顔でこちらを見ている。
「もうすぐ本日の受付終了時間なんですが……見たところそちらの婚姻届には不備があるようです」
そう言われてハッとした。すぐさま腕時計で時間を確認する。
今日付で受理するには、あと10分も残されていない。
「ここは私が代わりますので、三橋さんはそちらの方の対応をお任せしてもいいですか」
およそ半分が空白のままの婚姻届を手に、彼が丸い目をキョロキョロさせながらこちらの様子をうかがっている。
「ありがとうございます!」
カウンターを抜け出して彼の手を取った私は、記入台に向かって駆け出す。
「はい、全て問題ないようです。ではこちらを受理いたします」
早瀬さんの言葉に、彼が胸を撫で下ろすのが隣にいて分かった。
手元から顔を上げた早瀬さんがこちらに微笑む。
「おめでとうございます」
何度も繰り返したうちの1つだったはずのその言葉が、今の瞬間、私達にとってたった1度だけの言葉になった。
私が少し視線を横に向けると、彼が優しく頷いた。
そして、私達は揃って再び前を向いた。
「——ありがとうございます」
『カレンダー』
「ん?」
馴染みの古本屋で掘り出し物のミステリーを探していた私は、1冊の本を手に取り首を傾げた。
色褪せた文庫本はおよそ300ページ。そのちょうど真ん中辺りに1枚の紙が挟んであった。
最初は前の持ち主が栞代わりにでも挟んだのだろうかと思ったのだが、どうも腑に落ちなかった。
紙といってもメモ用紙やコピー用紙でもなければ、スーパーのチラシやレシートなんかでもないのだ。
4つ折りにされた紙を開いて私は思った。
一体、誰がなぜカレンダーを本に挟んだのだろうか……
上の方が大雑把に引きちぎられたようになった1ページ分のカレンダーは9月の日付で、いつの年のものかは書かれていないものの、日付と曜日の組合わせからして今年のものに間違いなさそうだった。
このカレンダーはおそらく毎月ページを切り離してめくるタイプのカレンダーだ。だから、いらなくなった前の月のページを咄嗟に栞代わりにしたというのなら分からないでもない。
だが、これはそういうことではない。
なぜなら今は9月、しかも今日は9月が始まってまだ5日目なのだ。
私は思わず、そのカレンダー付きの古本を店主のいるレジへ持っていった。どちらにしろ、ちらりと見た感じでその本自体に興味を惹かれていたのだ。まあ確かに、決め手は謎のカレンダーの存在だったのだが。
店を出て家に帰る道を行きながら、再び本の間から先程のカレンダーを引っ張り出した。
このカレンダーの持ち主は、まだ始まったばかりの今月をカレンダーなしで過ごすのだろうか。今の時代、スマートフォンがあればそう困ることもないのだろうが、そうまでしても本の栞になるものを必要としていたというのだろうか。
ふつふつと疑問が湧き出すものの、答え合わせの方法は検討もつかない。
ミステリー好きの性だろうか。店を出てからもずっとその謎が頭から離れなかった。
いっそのこと、古本屋の店主にこの本の前の持ち主のこと聞いてみたいと思ったが、私がそれなりにあの店の常連とはいえ、さすがにただの客に個人情報を教えてくれるわけもないだろう。そもそも、まったく他の客がカレンダーだけを適当な本に挟んで店を去った可能性もあるのだ。
ぐるぐると頭の中で考えを巡らせていたせいか、最短で家に帰るために曲がるべき角をいつの間にか通り過ぎていた。
だが、そのお陰で私はあることに気がついた。
古い家が並ぶ入り組んだ路地を抜けた先の大通りで、今まで隠れていた太陽が頭上に現れ、手元のカレンダーを照らす。
あれ? と思った。
カレンダーの9月12日——ちょうど今日から1週間後の欄に、わずかだが何か文字が消されたような跡がある。
心臓が一度ドクンと強く打った。ようやく謎を紐解く手がかりを見つけたかもしれない。
急いた気持ちで足がもつれそうになりながらも、できる限りの早足で私は家へと急いだ。
本やドラマではよく見たことがあるが、実際に試すのは初めてだ。
何かの景品でもらった新品の鉛筆を探してきて、唯一家にあった色鉛筆用の鉛筆削りで先をがりがりと削る。そして、元々何かが書かれていたであろうカレンダーの1か所をそっとなぞった。
だが、なぜだろうか。いくら鉛筆を動かしても思ったように文字が現れない。それどころか、白い部分がただただ深い灰色に塗られていくばかりだった。
私は静かに肩を落とした。
どうせ文字が現れたところで何が起こるわけでもないのだ。落ち込んでも仕方がない。
これも誰かにもらった新品の消しゴムの封を開け、鉛筆で塗った部分を綺麗に消しながらまた考える。
その時ふと、買ったばかりの古びた本のタイトルが目に入った。
「——なるほど、その手があったか」
それから1週間が経った9月12日の午前10時50分。私は駅前にいた。
駅前の広場には私の他に待ち合わせと思われる人々が数人いて、彼らはスマホをいじりながら、時々誰かを探すように顔を上げた。
私は空いていた広場のベンチに1つに腰を下ろし、カバンから例の古本を取り出す。
買った日に1度読み終わり、その余韻のままその日に所々読み返したので、これでおよそ3周目ということになる。
想像以上にこの本はとにかく面白かった。いや、それ以前に私の好みにどストライクだった。
これが特に知られた作家の知られた作品というわけでもないことを考えると、カレンダーの持ち主とはもしやさぞ気が合うのではないかと思ったことも、私が今日ここに来た理由の1つだった。
こうして来てはみたものの、本当に誰かが現れるかどうかは正直賭けだ。それに誰かが現れたとして、自分が何をしたいのかも実のところよく分からない。
ただどうしても気になって、いても立ってもいられなくなってここまでやって来てしまった。
緊張で速くなる息を整えようと、カレンダーを挟んだ本を一旦閉じ、顔を上げる。
その瞬間、一人の男性と視線が合った。
いや、正確に言うと、私は彼を見ていたが彼は私の持つ本を見ていた。そして元からまん丸い目を、より一層まん丸くした。
ああ、この人がこの本にカレンダーを挟んだ人なのだ、と直感した。
『氷の摩擦』と書かれた本のタイトルと一緒に、ここに来る前に買ってきた『こすると消えるペン』を男性に見せると、彼は表情を崩して可笑しそうに笑みをこぼし、それから頷いた。
この本のタイトルをカレンダーの謎と結びつけて考えなければ、私はここまで辿り着くことができなかっただろう。
この類のペンで書いた文字は、摩擦で消えてしまったとしてもある程度冷やすことで元に戻るというトリックを以前他の小説で読んだことがある。
それを思い出したのでカレンダーを一晩冷凍庫で冷やしてみたところ、予想通り文字が現れていた。
タイトルが明らかにヒントになっていることからしても、誰かが意図的にこの謎を作って他の誰かに解かせようとしているのだろうと思った。
当然怪しく思わなかったわけではなく、ここに来ることにまったく抵抗がなかったと言えば嘘になる。だが、謎を解きたいという気持ちの方が遥かに上回ってしまったのだ。
「もし、その本を気に入っていただけたのなら」
大きく1歩くらいの距離まで近づいた時、彼は言った。
ズボンの後ろポケットから彼が1冊の本を取り出す。
「僕とお茶をしませんか——」
何度も読み込んだのであろう彼の手にある本と、これからもっと読み込んでいく私の手の中の本。
本を胸の前に抱いた私はそこから小さく1歩踏み出す。
「——はい、ぜひ」