『楽園』
自宅から車を走らせること、およそ1時間。海沿いの国道から山側の道に曲がり、ナビを頼りに細い道をしばらく進んだ先にその古民家はあった。
今はもうない祖父母の家を思わせるような、趣のある平屋。縁側とそこに面した庭がどこか懐かしい。とはいえ、よく見ると全体的にリフォームされているようで、玄関扉や門周りは割と新しかった。
道を挟んだ反対側には5台分の駐車場があったが、5月の連休ということもあり、すでに4台分は車で埋まっていた。運良く空いていた残りの1枠に、乗ってきた黒のファミリーカーを停める。そして、車から降りた俺は向かいの建物を眺めた。
古民家の前には立て看板がある。
『保護猫カフェ にゃごむ』
ここに来てまで、俺は尻込みしていた。今年で44になるおっさんの人生初猫カフェ。しかも今日は家族もいない、一人きりだ。
ちらりと横に並んだ車を見る。どう見ても若い人の車ばかり。自分だけ明らかに場違いだった。
やっぱりこのまま帰ろうか——
そう思ったとき、建物から人が出てきた。自分より一回りくらい年下に見える女性。エプロン姿だ。
その人と目が合って、俺はぎくりと体を強張らせた。なんとなく気まずくなって軽く会釈すると、向こうの女性がにこりと笑った。
「よかったら、どうぞ」
店の人であろう彼女にそう言われて、今さらもう後には引けなくなってしまった。
「どうも」ともう一度頭を下げ、思い出したように振り返る。車をロックすると、ピピッと高い電子音が静かな空に響いて消えた。
ここを知ったのは偶然だった。ほとんど猫を見るためにしか使わないインスタのおすすめページは、いつも猫が溢れていた。そこでこの猫カフェの存在を知ったのだ。調べてみると、思いのほか自宅から遠くない場所にあるとわかった。
「いらっしゃいませ」
玄関を入ると、さっきの女性が出迎えてくれた。彼女はここの店主だった。シンプルな服装に、猫がワンポイントで刺繍されたエプロンを身に着けている。ショートカットで、はつらつとした印象だ。
「初めての方ですよね」
「えっと、はい……そうです」
さり気なく建物内を見回すと、まだ猫の姿は見えなかった。一見すると普通のカフェのようで、見えるのはいくつかのテーブル席と、そこでカフェメニューを楽しむ客が数組だけ。
「猫たちはあの扉の向こうにいますよ」
視線の先、部屋の奥の壁には扉があった。その隣には大きな窓がある。ここからではよく見えないが、こっちのカフェ空間から向こうの部屋が覗けるようだ。
「うちはカフェスペースと猫たちがいる場所を分けているんです。基本的にはみなさん、カフェでドリンクなどを召し上がってから向こうに行かれます。でも中には、カフェだけを利用されるお客さんもいらっしゃいます」
なるほど、と思いながら頷いた。初めてで何もわからなかったが、ここはそういう仕組みになっているらしい。
「今日はお一人でよろしかったですか」
そうたずねられて、内心ドキッとした。それを悟られないように、おずおずと頷く。
「男一人でも構いませんか」
彼女は何も気にしていないようで、自然な笑みを浮かべた。
「もちろん、大歓迎です。では、ご案内しますね」
席に座ると、店主に代わってメニューを持ってきたのは、すらりとした若い男性スタッフだった。
「こちらがメニューです」
おそらく大学生くらいだろう。髪色が明るい。これは何色というのだろう。金髪ではなく、もっと白っぽい——銀色のようだ。服装はカジュアルなロンTにジーパン姿。その上から着ているエプロンは店主と同じものだ。
とりあえずコーヒーを注文した。ホットかアイスか迷ってアイスを選ぶ。今日は昨日より少し暖かい。
コーヒーを待つ間、さり気なく周りを確認した。続けて窓越しに向こうの部屋も見る。思った通り、店内はほとんどが女性客だった。お一人さまは他にもいたし、あっちにはカップルらしき男女二人組もいるが、男性一人客は自分だけ。どうにも落ち着かなくて、腹の底がむずむずする。
しばらくしてコーヒーを持ってきてくれた銀髪くんは、猫カフェの説明もしてくれた。カフェのドリンク代と猫スペースへの入室料は別。向こうの部屋は入室してから45分という時間制らしい。事前に調べた相場の範囲内で良心的な価格設定だ。
猫たちに触る前には、靴を履き替え、手の消毒をきちんと済ませなくてはいけないらしい。他にも注意点をいくつか聞いた。
「向こうの部屋に行かれるときは、声をおかけください」
そう言うと、彼は奥のスタッフルームのような場所に消えていった。
コーヒーの豊かな香りに誘われるように、カップに口をつける。ちゃんと豆から挽いて入れているらしく、想像以上に本格的だった。1つ空いた向こうの席に座る女子二人組のテーブルには、ドリンクだけでなくケーキがあるのも見える。カフェだけを目的にする客がいるのも頷けた。
ようやく少し心が落ち着いてきて、俺は視線を目の前の大きな窓に移す。距離はあるものの、猫たちの姿がここからでも見える。インスタでいくつか写真を見てきたものの、実際にそこに猫がいると思うと年甲斐もなく浮ついた気持ちになった。
いよいよ、ずっと夢見てきたことが叶うのだ。
もう十数年も前、俺は過ちを犯した。当時いい感じの関係だった今の妻に、嘘をついたのだ。
「お、俺も猫はあんまり好きじゃないよ」
小さい頃の経験がトラウマで猫が苦手だという妻に乗っかるように、ついそう言ってしまった。
「そうなの? じゃあ同じだね」
彼女の笑顔にホッとするだけだった当時の俺は、まさかこんなことになるとは思わなかった。あれから交際を始め、結婚し、娘が生まれて10年になる。俺は家族に「猫が大好き」だと言えないまま、ここまで来てしまったのだ。
連休中、間に出勤日が挟まった俺をおいて、妻と娘は二人で妻の実家に帰省した。一抹の寂しさを感じたものの、そこで俺はハッとした。これまで家族に隠れるように日々猫の動画を見漁っていて、いつか猫カフェに行ければなどという幻想を抱いてはかき消していた。だが、この機会。猫カフェに行けるのでは、と思ってしまった。
その考えが浮かんでから今日まで、ずっとドキドキしながら過ごしてきた。家族に作ろうとしている秘密。そして、自分一人で猫カフェに行こうとしている事実。家族を見送るとき、後ろめたさがないわけではなかった。それなのに——
一人きりの休日、足はここへと向いていた。せっかくここまで来たのだ。もう二度とこんな機会はないかもしれない。
コーヒーを飲み終えた俺は、意を決して立ち上がった。銀髪くんの案内に従って準備をする。いよいよ猫たちとの対面の瞬間だ。
ざっと見て、十匹前後いた。そこにも猫、あそこにも猫。まるで天国のようだ。柄や体格はバラバラで、客になでられている人懐っこい子もいれば、物陰やキャットタワーの上でじっと身を潜めている子たちもいる。
どうしていいかわからず、とりあえずそろりと端の方に向かい、腰を下ろす。抱っこや無理な接触は控えるように言われている。だから、自然と距離ができてしまった。
ぽつりと座るおじさん。猫が来る気配はまったくなし。そのまま時間だけが流れる。
どう見ても悲しかった。浮いている。たちまち逃げ出したい気持ちに駆られたが、まだほんの数分しか経っていない。
気を紛らわせるように、猫たちから視線をそらした。壁には猫1匹、1匹のプロフィールが書かれた紙が貼ってある。丁寧に手書きで作られていた。
「どの子か気になる子がいますか」
顔を上げると、店主の女性がいつの間にかそばに立っていた。
「えっと、どの子もかわいくて……選べないです」
そうですよね、と店主が笑う。
「ここは保護猫カフェなので、普通の猫カフェとは違います。この子たちはみんな家族を作るためにここにいるんです。そのために、私たちはどうやったらみんなの魅力が伝わるかを一生懸命考えます」
そう言われて初めて俺は理解した。ここは保護猫のカフェなのだ。この子たちはみんな、新しい家族に見つけてもらわないといけない。ここに来る人たちはただ猫たちと遊びに来ているのではなく、もっと真剣な理由で足を運んでいるのだ。
「すみません、そこまで考えていなくて。私は猫が好きなんですけど、うちは猫が苦手な家族がいて、だから飼うっていうのはちょっと……」
「あっ、いえいえ。いいんですよ。ここに来るお客さんは、保護猫を引き取ることを想定している人ばかりじゃないので。そういう人はむしろ少数派です」
「えっ、そうなんですか」
思わずそうたずねると、店主はうんうんと頷いた。
「もちろん、保護猫に興味があって来てくださる方も多いです。でも飼えるかは置いておいて、ただ猫たちと触れ合っていただくことにも意味はあるんです。ここで少しでも人に慣れておくことで、新しい家族が見つかりやすくなるので」
「……なるほど」
そんな話をしているうちに、奥の方で猫と触れ合っていたカップルが立ち上がった。もう終了の時間らしい。そんな二人とともに店主も部屋から出ていく。
また一人取り残されたと思いながらも、遠くにいる猫たちを順に眺めた。途中、見ていた猫がふわっとあくびをした。こうしているだけでも悪くない。むしろ、最高に幸せな時間だ。
そう思って顔がだらしなくなりかけたその時、膝に妙な感触を覚えた。とっさに視線を下げる。すると、目が合った。
真っ白い猫が膝の上に手を乗せている。そして上目遣いでこっちを見ている。
俺は動けなかった。手も、体すらぴくりとも動かせない。そうしている間にも、白猫は俺の膝の上に歩みを進め、そして丸まった。俺はちらりと横目で確認する。この子の名前は——ハル太。5歳の男の子だ。確か、ハル太はさっきまで向こうの隅で寝ていたはずだ。それが、今は俺の膝の上に乗ってこっちを見ている。
悶絶しそうになるのを必死にこらえる。こういう時はどうすればいいのか。なでていいのだろうか。今まで猫を飼ったことがないからわからない。小さい頃は親に反対され、大人になったら飼うと決めていたのに、間もなく妻に出会ってこうなってしまったのだ。
ハル太がじっとこっちを見ている。その視線でふと思い出した。ポケットに忍ばせておいたおやつを取り出す。チューブタイプの有名なやつをさっきそこで購入した。通常料金に含まれていない、課金アイテムだ。
開封しておそるおそる口元に近づけると、ハル太は端をぺろりと舐めた。反対の端をギュッと押すと、また、ぺろっと舌を出した。
おやつに夢中になっている間に、俺は反対の手でそっとハル太に触れた。嫌がられるかと思ったが、むしろハル太は俺の手に首をこすりつけるような素振りを見せた。
いつの間にか、心拍が上がっていた。興奮や高揚感に近い。至福だった。おやつを食べ終わっても、もっとなでてくれと言わんばかりにすり寄ってくる。なでると、気持ちよさそうに目が細くなった。
しばらくなでると満足したのか、ハル太は膝の上で目を閉じた。優しく背中の毛をならす。
そうしているだけで、気づけばあっという間に45分は終わっていた。
「今日はお越しいただきありがとうございました」
店主に見送られ、人生初の猫カフェ体験は幕を下ろした。最初にあった緊張や不安はすっかりなくなって、外に出ても夢心地が続いているようだった。
とはいえ、現実に戻らなければならない。
帰宅途中で粘着クリーナーを購入して、服についた毛をくまなく取る。そして、家についてからはすぐに服を洗濯し、そのままシャワーを浴びた。二人が帰ってくるのは明日だ。気づかれる心配はないだろうが——いけないことをしているようで、ついいつもより念入りに体を洗っていた。
風呂を出て、リビングへと向かう。ソファに腰を下ろす直前、玄関で音がした。
「ただいまー」
リビングのドアが開き、二人が入ってくる。
「あれ、お風呂入ったの? 早いね」
妻の手には買い物袋。途中でスーパーに寄ったらしい。
「あっ、うん。えっ? 帰るの明日じゃなかったっけ」
「明日、サキちゃんと遊ぶ約束したから、今日帰ってきたの」
サキちゃんというのは娘の親友の名前だ。
「そ、そうなんだ。ごめん、明日だと思ってたから気抜いてた……」
内心焦る気持ちをごまかしながらも、本音が出た。
「だと思った。ご飯もまだなんでしょ? 帰って作ろうと思って私たちもまだなの。作るっていっても、簡単なものしか作らないけど」
「いや、十分だよ。俺は今日もカップ麺のつもりだったし……」
妻は部屋に行こうとした娘を呼び止め、風呂に入るように言った。そして、ダイニングの机の上にレジ袋を乗せた妻が、ん? と首をひねった。
「これ何?」
彼女の視線の先には、帰宅時に置きっぱなしにした自分の財布。財布のポケットからはみ出ているのは——
「これ何のレシート?」
引き抜かれたレシート。保護猫カフェのエプロンに刺繍されていたのと同じ、猫のイラストが描かれている。
「いや、それは違っ……」
真顔の妻。とっさに立ち上がるがもう遅い。
「にゃご……む、保護猫カフェ?」
脳内に言い訳が巡るが、もはや弁明のしようがなかった。
「……ごめん」
ただ謝る。目も合わせられず、床をじっと見る。
「一人で行ったの?」
うなだれるように、こくりと頷く。
怒られると思った。もしくは呆れられて、引かれる。だが、聞こえてきたのは笑い声だった。
「何それ、一人で猫カフェって。驚かせないでよ、浮気かと思うじゃん」
「えっ⁉︎ いや、浮気なんてしないよ俺は!」
「わかってるって、レシート一人分だし。それに……」
妻がくすりと笑ってこっちを見る。
「ねぇ、あなたって本当は昔から猫好きでしょ」
「えっ……」
思わず息を飲んだ。妻の前では今までずっと猫好きを封印してきた。動画だって、妻がいない時や寝ている時にしか見ないようにしていた。
「な、なんで……」
「いや、普通に知ってるよ。いつも見てたじゃん、猫の動画。画面ついたまま寝落ちしてる時もあったし、バレバレだって」
「俺、今日までずっと隠してきたつもりだったんだけど」
「うん、だからあえて言わなかったんだけど。でも、まさか私たちがいない間に一人で猫カフェに行ってるとは思わないじゃん」
思い出したようにまた吹き出した。
「そんなに笑うなよ……」
「なんで隠そうとするの? 別にいいじゃん、猫が好きだって。そんなコソコソする必要ないのに」
「それは……最初に嘘ついたから。今さら言えないでしょ」
ぼそっと口にする。彼女と仲良くなりたかった。それだけのための嘘だった。
「ほんと、そういうとこ変に見栄っ張りというか、頑固っていうか」
買ってきたものを袋から取り出しながら、彼女は呆れたような笑みを浮かべ、肩をすくめた。
「ほら、ご飯作るの手伝ってよ。シオリがお風呂上がる前に作っちゃいたいから」
「あっ、うん」
キッチンに二人で並んだ。言われた通りに動く。調味料を取り、使ったものをしまい、お皿を出す。
「いただきまーす」
三人での食事は数日ぶりだ。
「おじいちゃんちはどうだった? 何か楽しいことあった?」
最近はだんだんとそっけなくなってきていた10歳の娘だが、旅行帰りのテンションのせいか、向こうであった出来事をたくさん話してくれた。妻と二人でそれに相槌を打つ。
食卓の上で彼女と目が合う。今日あった件は、どうやら娘には黙っていてくれるらしい。おかげで父親のメンツは保たれそうだ。
猫カフェで過ごした時間も、あれはあれで忘れられない幸せな時間だったが、やっぱりこうやって過ごしている時間は何物にも代えがたいのだ。
「あっ! お父さん聞いてる?」
「うんうん、聞いてるよ。シオリが楽しそうで、お父さんも嬉しい。幸せ」
「あぁ〜、お父さんシオリたちいないから寂しかったんでしょ〜」
娘が笑い、妻が笑う。そして、俺も笑って頷いた。
『モノクロ』
パチッ、という音が響く。
石が碁盤の上に弾かれる時の澄んだ音だ。
俺も同じ音を出そうと次の手を打つが、意識と反対に、石はコツッとダサい音を奏でる。
高校に入り、部活として囲碁を始めたのは、ほんの半年ほど前のことだ。小さい頃、遊びの1つとして時々リクトと対局していたとはいえ、実力的には初心者。リクトのように毎回あんな綺麗な音を出すのは難しい。
もちろん、どんな音を出そうが勝負には関係ない。でも、パチッと澄んだ音で打てた時にしか味わえない快感のようなものがある。だから、どうしても意識してしまうのだ。
パチッ、コツッ、パチッ、コツッ、パチッ——
白と黒の石が交互に盤上に並ぶ。
続く自分の一手がようやく〝パチッ〟と決まった時、俺は口を開いた。
「おばさん、相変わらず美人でびっくりした。全然変わらないね」
場を和ませる世間話のつもりで、俺は昔のように話しかけた。
「——そう」
リクトはたった一言そう言ったきり、言葉を続けることはなかった。視線は一貫して盤の上から動かない。
次の話題を見つける間、俺はまた石を打つ。
おばさん——リクトのお母さんからうちに連絡が来たのは先週のことだ。
「リクトくん、学校行けてないんだって」
電話を取った母親からその言葉を聞いた。夏休み開けから、学校はおろか家の外にも出ていないらしい。
「おじいちゃんっ子だったからね、リクトくん……」
夕飯を作りに戻る母親の背中を見ながら、俺はリクトの顔を思い浮かべた。
でも何度考えても、明るく笑う顔しか思い浮かばなくて、聞いた話の中のリクトとは上手く結びつかなかった。
リクトとは幼稚園からの幼馴染で、リクトと一緒に暮らしていたおじいちゃんにも小さい頃はよく遊んでもらった。初めて囲碁を教わったのもリクトのおじいちゃんだ。
リクトのおじいちゃんは今年の夏に亡くなった。長く病気を患っていたとは聞いたが、それでも別れはかなりショックだっただろう。
リクトはおじいちゃんのことが大好きで、とても尊敬していた。囲碁が強いおじいちゃんに勝とうと、リクトの囲碁の腕もメキメキと上達したのだ。小学生の時には近所の碁会で大人を負かしていたほどだった。どうにかルールを覚えただけだった俺がリクトに勝てたことは、一度もない。
でも、今日は何としても勝ちたい。勝たなくては——
リクトのおじいちゃんの部屋は、昔来た時のまま変わらない。和室の懐かしい香りがする。今使っている立派な碁盤も、リクトのおじいちゃんの物だ。
いつも部室では椅子に座って対局するため、正座には慣れていない。足の限界が近かった。
耐えきれずに足を組み替えたり、お尻の位置をずらしたりしていると、初めてリクトが顔を上げた。
「足、崩せば」
「うん、ごめん……そうさせてもらうわ」
足を横にずらしながら、変わらず正座のままのリクトの表情を横目でうかがう。でも、リクトの方はこれくらいなんてことないらしい。
顔立ちや細い指先も相まって、碁を打つ姿勢が男ながらに美しいと思う。
最後にこうやって対局したのは、何年前になるのだろう。
中学校に上がるタイミングで、リクトとは違う学校になった。頭がいいリクトは、遠くの私立の中高一貫校に進学したからだ。
家が近くでいつでも会える距離にいたせいか、逆に連絡を取ることはほとんどなかった。連絡せずともどこかでばったり会いそうなものなのに、それさえもなかった。
リクトのお母さんから電話をもらった時、俺はリクトに会いに行かなくてはと思った。
勉強も、運動も、外見も、囲碁だって、俺がリクトに敵うものはなかった。でも、それでいいと思えた。もし唯一挙げるなら、俺はきっと人に恵まれている。リクトと親友になれたんだ。その心強さだけは、誰にも負けない自信があった。
だから俺は今日、リクトに会いに来た。
「俺、高校で囲碁部に入ったんだ」
リクトの意識がこちらに向くのが分かった。
「県で優勝した先輩がいてさ。その人に教わったら、少しはリクトといい勝負できるんじゃないかと思って」
「テニス部は……ナオキ、中学ではテニスしてたでしょ」
リクトが白の石をパチリと打つ。
「あぁ……肘だめにした。やっぱ何してもどんくさいんだよね、俺」
少し悩みながら、黒の石を置いた。
俺の打った一手に、これまで順調に陣を広げていたリクトが、初めて悩む素振りを見せた。そして、しばらくしたあと、またパチリと白い石を盤に乗せた。
「なんでわざわざ……」
リクトが小さくつぶやいた。
部活で得た知識をフル活用させて次の手を考えながら、「ん?」と相槌を打つ。
「……無謀でしょ。囲碁で勝負しようだなんて」
リクトの言葉に、伸ばしかけた俺の手が止まった。
盤上に思考を巡らせる。確かに、そうかもしれない。でも、俺は負けるつもりでこの勝負を持ちかけたわけじゃない。
「でも、だからリクトは俺と会ってくれたんだろ? ただ話そうとか言っても、きっと断られてた」
図星なのか、リクトは黙ったままだ。
「俺、少しは上達したと思うんだ。だから単純にリクトと対局したかった。まぁ他に魂胆がないかといえば嘘になるけど、1番はそれ」
「だったら、勝ったら頼み聞けとかナシだろ」
「そりゃ、何か賭けない燃えないだろ」
「燃えてどうすんだよ」
「青春なんて、燃えてなんぼだろ」
いつの間にか、自然な会話になっていた。碁石を打つ音が、会話の間で心地いいリズムを作ってくれている気がする。
「青春なんて、よそでいくらでもできるだろ」
——パチッ
「できない」
——コツッ
「できるでしょ、ナオキは」
——パチッ
「お前の青春はどうなるんだよ」
——コツッ
「俺は……別にいい」
——パチッ
「俺はリクトと青春したいんだ」
——パチリ
渾身の一手が響く。リクトの手が止まった。
「俺は……もういいんだ、全部」
「いいって、なんで」
「もういいんだよ。囲碁も勉強も学校も。もう意味ないんだよ」
「それって……じいちゃんがいないから?」
俺の言葉に一瞬、リクトの肩が動く。
「あぁ、そうだよ。じいちゃんはもういない。囲碁でじいちゃんに勝とうとする必要もないし、じいちゃんの病気を治すために勉強して、医者になるっていうのももう必要なくなった。学校に行く理由だって、もうないんだよ……」
リクトがコトッと石を置く。その指先に力はない。
その姿を見て、俺はずっと考えていたことを口にした。
「リクト……お前、うちの高校来いよ」
「は、なんで……」
「もしこの対局で俺が勝ったら、頼み聞くって約束だろ。だから、俺に負けたら俺の高校に来いよ。うちの囲碁部は人数も少ないし、リクトより強い人はいないかもしれない。でもいい部活なんだ。それに俺、強くなるから。リクトのおじいちゃんみたいに、リクトの壁になれるように頑張るから。だから、一緒に囲碁やろう」
「いや、そんな簡単に……」
「分かってる。バカなこと言ってるって。でも本気だから。お前は俺に負けなきゃいい。もちろん俺も負ける気はないけど」
気持ちをぶつけるように一息に言って、俺はリクトの目を見た。
そんな俺に折れたリクトが、はぁ、とため息をついた。
「分かった。でも……」
——パチリ
今日1番の快音が響いた。
「これで、俺の勝ち」
俺の陣地の重要な石が、リクトの手に落ちる。
「え、あ、マジで⁉︎」
「マジ。だから、さっきの話はナシということで」
「えっ! いや、もっかい。もっかいチャンスを……」
正座に戻って勢い良く頭を下げると、リクトが声を上げて笑った。
「対局には俺が勝った。でも、勝負はお前の勝ちでいいよ。俺の負け、降参」
「え⁉︎ なんでいきなり」
「なんでって楽しかったから。こんなの久しぶり。それに俺、もっと強くなりたいわ」
リクトが手の中で、俺から取った黒い石を転がす。
「まだ強くなりたいって?」
「うん。だって正直、今日はちょっと焦ったから。ナオキ、ちゃんと強くなってた。俺もまだまだだなって思った。だから俺もナオキと一緒に、囲碁部で精進しようと思う」
「それ……ほんとに?」
リクトの目を見て、俺は尋ねる。
「あぁ、本当に」
フッと笑ったリクトが視線を落とす。
白と黒の石が交錯する碁盤は、闘いの戦跡を残している。
——パチリ
人差し指と中指に美しく挟まれた黒い碁石が、モノクロの盤面に新たな一手を刻んだ。
『Midnight Blue』
——拝啓 暑さの続くこの頃ですが、いかがお過ごしでしょうか。
そこまで書いた私は、万年筆を置き、便箋を乱暴に丸めた。
違う、こうじゃない。こんな、何事もなかったような文章を送れる立場じゃない。それに——
まずはそう。きっと、お祝いの言葉からだ……
5枚しかない便箋のうちの貴重な1枚を無駄にして、私は深いため息をついた。
やっぱり手紙なんて書くのはやめにしようか。そんな考えがしきりに頭によぎる。
10年以上も前に大喧嘩をしてから、一度も連絡を取っていない。なのに今さら、手紙を書こうとしている。
孝太は家が近所の幼馴染で、歳も同じだった。私たちは小学校から高校まで、ずっと同じ学校に通っていた。
たくさんいた同性の友達より、なぜか孝太の方が何でも話せた。昔からアクティブな私と、趣味も性格も真逆な孝太。なぜ一緒に過ごせていたのかは分からない。でも私にとって孝太は、何の気も遣わずいられる唯一の友達だった。
大学進学のために上京することになった私は、地元を離れる前日の夜、孝太から家の近くの公園に呼び出された。
「これ、餞別」
そう言って渡された包みの中身は、万年筆とインク瓶だった。
「何これ?」
「だから餞別。ケイちゃん、筆不精だろうけど。たまには手紙書いてよ」
「手紙って、私そんなガラじゃないよ。それに、なんで手紙書くのに万年筆とインク? 普通レターセットとかじゃない?」
「だって、レターセットなんてすぐになくなるじゃん。インクの方がたくさん書ける」
「私がそんなに手紙書くと思う?」
「思わない」
孝太は即答した。
「じゃあ——」
「いいよ別に。ただ、あげたかっただけだから」
素っ気なくそうつぶやいた孝太は、
「じゃあ、それだけだから。ケイちゃん、元気でね」
とそのまま足早に公園を出ていった。
孝太と大喧嘩したのは、それから数ヶ月後のことだ。
とりあえず、スマホに下書きしよう。
真新しい便箋を照らすローテーブル上の小さなランプはそのままにして、私は薄暗い部屋のベッドに寝転がった。
伝えるべきはあの時の謝罪——そして結婚のお祝いだ。その事実に、私は再びため息をこぼす。
先日、人づてに孝太が結婚したという噂を聞いた。聞いた瞬間、私は自分でも信じられないくらいにショックを受けた。
考えてみれば当然だ。私たちはもう今年で30の年。周りの友達は次々に結婚している。かく言う私は、ご祝儀がかさむばかりで、幾度かの交際は結婚までたどり着かなかったけれど。
そりゃ孝太だって結婚する。分かってる。当たり前だ。
なのに、その日家に帰ってから、私は涙が止まらなかった。自分だけ置いていかれたような気がした。喧嘩別れしたとはいえ大切な存在なのに、素直に祝えなかった。
その気持ちは嫉妬じゃない。そのことを私は今さらながらに気づいた。
私は、離してはいけない人を離してしまったのだ。
どれだけ悔やんでも時間は戻らない。私の想いは気づいた瞬間に行き場を失った。
〝結婚おめでとう〟
そのたった一言のメッセージを、どうしても送信することができなかった。
書いては消し、書いてはまた消したあと、私はやっぱり手紙にしようと思った。あの時孝太がくれた万年筆とインクを使おうと。
散々悩んだ挙句、手紙の文面はシンプルにすることにした。
あの時はごめん。結婚おめでとう。
黒いインクが白い紙の上を滑る。ペン先の動きにあわせて、インクの香りがかすかに鼻先に香る。
初めて使う万年筆に最初は戸惑ったが、試し書きを何度かしたためか失敗はしなかった。
お世辞にも綺麗とは言えない真っ黒い文字が、変えようのない事実を心に刻み込んでいくようで、書きながら私の胸はギリギリと痛んだ。
あの時の孝太の悲しみに満ちた表情が蘇る。都会での新しい生活に舞いあがって、孝太に手紙を書くのを忘れていた私。あんな顔をさせたのは、私なのだ。
思えば、孝太は電話が嫌いだった。気恥ずかしいからだと本人が言っていた。いつも直接話してばかりいた私たちには、 メッセージを通して話をする習慣もなかった。
だから孝太は手紙を書いてほしいと言ったのだ。それなのに私は筆を執るどころか、もらった万年筆とインクさえ、一度だって使ってみることはなかった。
「ごめんって孝太。向こう帰ったら手紙書くから」
大学1年生の夏休み、帰省した私は軽い調子でそう口にした。
「そう言ってまた忘れるでしょ、どうせ。ケイちゃん、いつもそうだよね」
「そりゃ私が悪かったかもだけどさ、別にそんなに怒らなくてもいいじゃん」
「別に怒ってない。手紙、嫌なら嫌でいい。勝手に押しつけたことだし」
「だから嫌とかじゃないって。ちょっと忙しかっただけ」
私がそう弁解すると、孝太は私に背を向けた。
「そう。よかったじゃん、忙しくて。充実してそうで何よりだよ。ほんと、余計なことだった。向こうで話し相手いないだろうと思ったから、こっちは親切に手を差し伸べてあげたのに」
「何それ、そんなの私頼んでない」
「うん、だから余計だった。もう全部忘れてくれていいから。その程度だったんだし」
「ねぇ、孝太今日おかしいよ。なんか変わった?」
「なんで、変わったのはケイちゃんでしょ。もういい、じゃあね」
「ちょっと待って!」
立ち去ろうとした孝太の腕を掴んで引き止めた。
そして目に映った孝太の顔は、涙で濡れていた。
「……全部捨ててくれていいから。何もかも忘れて」
それっきり、私と孝太の長い付き合いは途切れてしまった。
封筒に入れた手紙は、翌朝ポストに投函した。最後まで送るのをやめようかどうか迷ったが、最後は手紙が手から滑り落ちるようにポストに入っていった。
その瞬間、私は小さく息を吐いて気持ちに区切りをつけた。泣くのは昨日が最後。もう前に進むしかない。
それからの私は、すべてのことを頭から振り払うように仕事に打ち込んだ。
そうやって時間が経ったある日、仕事帰りに家の郵便受けをのぞいた私は、とっさに息をのんだ。
手紙が1通。封筒には孝太の名前があった。
家に帰ってもなお、私はその封筒を開けられなかった。中身を見るのが怖かった。
孝太はまだ怒っているかもしれない。私は嫌われているかもしれない。私になんか祝われたくなかったかもしれない。
そんな考えが頭の中でぐるぐる回って、私は一晩中ほとんど寝つけなかった。
朝になって外が明るくなり、私はようやく布団から出て、手紙を開いた。
そこには懐かしい孝太の文字が、かすかに光を反射するようななめらかなインクで綴られていた。朝の光に照らされたその深い青色の文章を見て、私は言葉を失った。
——ケイちゃん。お久しぶりです。手紙、とても驚きました。
ケイちゃんはお元気ですか。僕は元気です。
あの時のこと、僕の方こそごめんなさい。
あの時、僕はケイちゃんに八つ当たりをしました。都会で楽しそうにやっているケイちゃんを見ると、自分が情けなく馬鹿らしく思えて、ケイちゃんにその感情をぶつけてしまいました。そして、そのまま引くに引けず意固地になってしまいました。あとから、何度後悔したか分かりません。
そして、もう一つ言いたいことがあります。
せっかくお祝いしてもらって申し訳ないのですが、残念ながら僕はまだ独り身です。まだ結婚していません。きっとどこかで間違った噂が伝わったのだと思います。
僕は昔、大失恋をしました。正直今でも引きずっています。なので、今後も結婚は難しいかなと思います。
ケイちゃんは今、幸せですか?
もしそうなら、僕の失恋も無駄じゃなかった。
手紙をありがとう。インクも使ってくれてありがとう。
手紙を読み終えた私は、しばらく呆然と便箋を握りしめた。
そしてハッと思い立ち、勢い良く立ち上がった。
スマホで連絡先を探す。見つけた番号を、躊躇なく呼び出す。
「——もしもし」
電話の向こうに懐かしい声がした。
「ケイちゃん、だよね」
「うん、そう」
「わぁ、ほんとにケイちゃんだ。久しぶり」
「久しぶり。あの……手紙ありがとう」
「あ……読んだ、よね。えっと……」
「私っ」
困ったような孝太の声を遮った。声が詰まって、数秒の沈黙が流れる。
「……幸せじゃないよ。つらかった。だって私……失恋したと思ったから」
「……え」
心臓の音が向こうにも聞こえてしまいそうなくらい、激しく鳴っている。
「孝太が結婚したって聞いて、初めて気づいた。私、ほんと馬鹿だよね。後悔しても、遅いのに……」
「——遅くないよ」
低く静かな声で孝太は言った。
「遅くなんかないよ……僕の方こそずっと後悔してた。ケイちゃんに好きだって言えばよかったって。だから手紙書いてほしかったって、忘れないでほしかったって。素直に言えばよかった、ずっとそう思い続けてきた」
私はようやくあの時の孝太の本心を知った。〝ずっと〟という言葉の意味の重さに、胸が苦しくなる。
「ケイちゃんから手紙もらって、最初は戸惑ったけど、これが最後のチャンスだと思った。気持ちを伝える二度とない機会。もう後悔したくないから。だから……」
私はスマホにじっと耳をすました。
「ケイちゃん、好きです。ずっと好きでした。もしまだ遅くないなら、もう一度ケイちゃんのそばに行ってもいいですか」
自分の頬を温かいものが伝うのが分かった。私も、もう後悔はしない。
「——うん」
テーブルの上の孝太からの手紙。一見黒のようなインクが、太陽の光を受けて深い青色にきらめく。
ふと、その隣で同じように反射する光に気がついた。
あの時もらったインクの瓶を手に取って、そっとひっくり返す。
裏のラベルには小さくこう記されていた。
『Midnight Blue』
『マグカップ』
気づけばいつも、私は人を観察している。
話し方や立ち振る舞いはもちろん、服装や持ち物が目に入ると、その人がどんな人物なのか無意識に考えてしまう。それが癖になっていた。
今日付けで異動してきたばかりの部署。部屋の片隅にある休憩スペースで、電気ポットの横に並んだマグカップを見た私は、またいつものように考え始めた。
これ、この間SNSで話題になった、カフェチェーンの季節限定マグ。流行りに敏感で目立ちたがりなこの人は、自己顕示欲高め。そして、こっちは陶器だ……たぶん、何焼きかもこだわって使ってる。こういうこだわりが強いタイプの人は、そう簡単には自分の意見を曲げない。逆に、こっちの百均にもありそうな普通のカップを使っているような、こだわりのないタイプの人は、他人の視線や評価を気にしない。これは、いい意味でも悪い意味でも。それから、こっちは——
1つのマグカップに、私は目を止めた。
真っ白い陶磁器のようなそのカップは、とてもシンプルなデザインなのに、1つだけ他と大きく違っていた。
——持ち手が……2つ?
右と左、それぞれに取っ手がついている。右利きでも左利きでも、どちらでも使えるようにだろうか。でもそれなら、普通のマグカップを回転させればいい。だとしたら……
このマグカップの持ち主は、何でも人と違うものが好きという個性派。言い換えるとしたら、そう、変人タイプ。
「平田さん、この資料のデータ入力頼める?」
「あ、えーっと……はい、大丈夫です」
この部署に来てから数日。まだまだ慣れないことが多くて、自分の抱えた仕事をこなすので正直手一杯だ。でも、無理だとは簡単には言えない。
重たい紙の束は、私のデスクの上にどっさりと積まれた。
「——僕、手伝おうか?」
私の余裕のなさに勘づいたのか、隣に座った戸塚さんが小声でそう声をかけてくれた。
「あ、いやでも……」
「いいのいいの。気にしないで」
目の前にできた山を崩すように、戸塚さんは資料を数回に分けて自分の机に運んだ。
「すみません、ありがとうございます……」
戸塚さんは、よく気がつくし、こうした気遣いができる人だ。歳は少ししか変わらないのだろうが、彼のような人が同じ部署にいるのは心強い。
そう思いながら視線を横にそらした時、私の目に戸塚さんのデスクの上のあるものが映った。
白いマグカップ。持ち手が左右に2つついている。私が変人タイプのものだと思った、あのマグカップだ。
その事実に、私は少なからず意表を突かれた。どうして彼はこんなマグカップを使っているのだろう。
そんな小さな引っかかりを覚えたまま就業時間になり、私はデスクを立つ前に、またさり気なく隣の様子をうかがった。
まだパソコンに向き合っていた戸塚さんは、ようやく作業が終わったのか、「よし」とつぶやいてパソコンを閉じた。そして、机の上に転がっていたボールペンをペンケースにしまおうとする。
戸塚さんにつかまれたボールペンは、一瞬空中に持ち上げられたものの、次の瞬間には彼の手の中からこぼれ落ちていった。落ちた先で机の端にぶつかり、そのまま床まで落ちていく。
私はハッとして床のボールペンに手を伸ばした。
「あ、すみません」
「いえ。はい、どうぞ」
ペンを渡すと、戸塚さんは小さく礼を言いながら、それをペンケースにしまった。その指先に、私はどこかぎこちなさのようなものを感じた気がした。
ふぅ、と息をついた戸塚さんは、机の上のマグカップを見た。まだ中身が入ったままなのか、彼がカップを持ち上げる。
持ち手に両手の指を通し、包むように持って口元に運んだ。
それを見た瞬間、私は初めてこのマグカップの意味を理解した。
戸塚さんの表情は変わらない。ただ、いつも通りの穏やかな顔でコーヒーを飲んでいるだけだ。
私は何も言わずに視線をそらした。
何も見えてなんていなかった。見えていたのはただ、自分の中の思い込みだけだった。
それからしばらく経ち、先日、戸塚さんのマグカップはタンブラーに変わった。
タンブラーは、フタを開けるとストローが出てくるタイプのもので、持ち上げなくても飲み物を飲むことができる。あのマグカップは今、戸塚さんのデスクの引き出しの中にしまわれている。
「最初はただの疲れかと思ったんですけどね。でも、だんだんパソコンのキーボードが押しにくくなって、ボールペンだって何本落としたんだろう」
戸塚さんはそう言って、困ったように笑った。
「でも僕は恵まれてるんです。だって、こんなでもまだ働けてるんだから。働かせてもらえる間は、弱音なんか言う暇もなく精一杯働きます」
あの時の力強さは、今も私の中にずっと残っている。
この先、あとどれくらい一緒に働けるだろうか。そのことを考えると、胸が押しつぶされるように苦しくなる。
私は自分のマグカップを手に取った。
これを買った時のことを思い出す。普段から人のものについてあれこれ思うせいで、自分のものとなると、どう思われるか考えすぎて、なかなか決められなかった。
戸塚さんの目に、このマグカップはどう映っているのだろうか。彼からしてみれば、どんなマグカップもたいして違いはないのかもしれない。
ものの見え方は、人によって変わるのだと思う。同じ世界にいても、私の見ているものと、戸塚さんが見ているものはきっと重ならない。だから、私の見る世界がいつも正しいとは限らない。見ただけで分かることなんて、ほんのちょっとのことなのだ。
そのことに気づいた今、私の目には、戸塚さんのマグカップがあの時と違うように見えた。
『雨音に包まれて』
校舎の窓をのぞくと、外は雨が降っていた。廊下も雨の日の匂いがする。
梅雨のこの時期、毎日のように雨が降っているが、ついさっきまではまだ降っていなかった。
ちょうど今頃、みんなはバスに乗り込んでいるのだろう、と手首の時計を見た。
今日はテスト前でどの部活も休みになっている。本当なら、私もそのバスに乗って帰るはずだった。
全国の高校生が出展する美術展に、うちの美術部で唯一、私だけが作品を出展することになった。実力を認められたのは嬉しい。でも正直、部活の中ではあまり居心地がいいとは言えない。私は誰かに認めてほしかったわけじゃない。ただ、唯一自分が熱中できる絵を、もっと上手くなりたかっただけだ。
今日もこうして私だけが、部活のないはずの放課後に、一人、出展用の作業をしていた。そして、バスを逃してしまった。
坂の上にある学校からバス停までは、少し歩かなければいけない。玄関に向かうと、湿度の高い空気が全身にまとわりついた。傘をさして玄関を出た私は、カバンを濡らさないように前に抱えながら、急な坂道を下った。
次のバスまでは、あと30分以上ある。田舎は、バスも電車も本数が少ない。
辺りにはもう、生徒の姿はない。徒歩や自転車など、バス通学以外の生徒も、とっくに下校してしまったらしい。当然、バス停にももう、生徒は誰もいないだろう。
そう思っていたのに、見えてきたバス停の屋根の下には、人影があった。
——先輩だ。
古い木のベンチの端で、腕を組み、トタンの壁に寄りかかるようにして目を閉じた先輩。
だんだんと近づくにつれて、その造形の美しさに、胸がまたいつものように高鳴った。
深山(みやま)先輩、という名前は知っている。でも、実際にそう呼んだこともなければ、会話をしたことすら一度もない。
先輩とは毎朝バスで一緒になるだけだ。いつも私より先にバスに乗っていて、バスの中ではいつ見ても目を閉じて寝ている。まさしく今みたいに。
先輩の美しい顔立ちは学校の中でも有名で、人気がある。バスの中で先輩が眠っている間、私は心の中でこっそりと、その顔の線をなぞった。影を足して、光を捉え、毎日1枚の絵として眺めた。それが私のひそやかな楽しみだった。
でも、なぜ先輩はまだバスに乗っていないのだろうか。
先輩の荷物はカバンだけで、傘はどこにも見当たらない。制服のシャツも、耳上までのまっすぐな髪も、どこもまったく濡れていない。
時間通りなら、バスは雨が降り出してからここに来たはずだ。きっと先輩はその前からここにいたのだろう。もしかしたら、寝ていたせいで、さっきのバスに乗りそびれてしまったのかもしれない。
私はそんなことを考えながら、先輩が座るベンチの反対側の端に、静かに腰を下ろした。
トタンの屋根に雨が跳ね返る。その不規則な音が、他の音を遠ざける。
私は山並みの霞を眺めながら、時々、視界の端に先輩の横顔を映した。そして、また前を向く。
バスはあとどれくらいで来るだろう。何度目かの視線を往復したあと、私は腕時計を見つめた。
「——絵、上手なんだね」
ふいに聞こえた声に、私はハッと横を見た。
「えっ……」
「見たんだ、君の絵。飾ってあったから」
先輩がこっちを見ている。
「あ、あの……ありがとうございます」
返した声は、自分でも分かるくらい、うわずっていた。
「それに描いてるところも。絵描くの、好きなんだね」
「はい! その、好き……です」
初めて、先輩と視線が合った。柔らかな声に、静かなまなざし。会話はもちろん、目が合うのもこれが初めてで、たちまち顔がほてっていく。
私は今まで、先輩を一方的に見ているつもりだった。先輩の視界の中に私がいたなんて、少しも考えたことがなかった。
トン、パタン、トトン。次の言葉を待つかのように、雨音が鳴る。
「——毎日思ってた」
先輩が屋根を見上げる。
「バスの中で、何を君はそんなに一生懸命見てるんだろうって」
私はどきりとした。
「普段、いろんな人がこっちを見るからさ、自然と目を閉じておくことが多いんだ。そしたらほら、こっちからは見えないから」
そこで私は初めて知った。先輩はいつもただ寝ていたわけじゃなかった。理由があって、目を閉じていたんだ。
そんなことにも気づかず、私は毎朝のように……いや、さっきだって。私はずっと先輩を——
「すみません、私、先輩の気持ちも考えないで……」
思わずこぼれた言葉に、先輩がこちらを向く。
「ただ……先輩のこと、描いてみたいなって思って。気づいたら、毎朝見てて……」
言いながら、自分でも顔が熱くなるのが分かった。言うつもりじゃなかった。でも、本心から出た言葉だった。
先輩は、少し目を見開いたように見えた。けれど、すぐにふっと目を細める。
「君の視線に気づいた時、なんだか他の人のとは違うって思った。上手く言えないけど、嫌な感じがしなかった」
私は驚いて、視線を上げた。
「謝らなくていい。何なら、今描いてくれてもいいんだ。どうせバスが来るまで、まだ時間があるんだから」
薄暗い空の下でも、その顔立ちには、はっきりとした陰影が浮かび上がっていた。
おでこから滑るように眉へ、そこからくっきりと通った鼻筋に向かう。顎はシャープに首筋へとつながっている。
直線と曲線だけでできているとは思えない立体的な横顔に、デッサン用の鉛筆がスケッチブックの上をなめらかに走った。
ふぅ、と息をつき、私は手を止めた。
「……描けた?」
「まだ全然粗いんですが……」
「見ていい?」
「えっと……」
私が小さくうなずくと、先輩は私の手元をのぞき込んだ。
「うわ……すごい……」
自分の心音が耳元で聞こえる。雨の音が遠くに感じる。
「おれ、こんな顔してるんだ」
「……もっとです。もっと上手く描かないと先輩の顔にはかなわないから」
自分の描いた絵を見ながら、客観的にそう思う。
「じゃあ——今度はもっと上手く描いて」
その言葉に、一瞬、鼓動が強く脈を打つ。
そこに、バスのヘッドライトが近づいてきた。
「あ、バス来た」
隣で先輩が立ち上がる。
雨をかき分けるようにやってきたバスが止まり、すぐにドアが音を立てて開く。
「行こう」
カバンを手にした先輩がバスに向かうのを見て、私は慌ててスケッチブックをバッグにしまい、それから傘を手に立ち上がった。
先にバスのステップに足を乗せた先輩が、ふと動きを止めた。
雨の勢いが強くなる。バス停の屋根を出た先輩の背中が、雨に濡れる。
私は先輩に傘をさそうか迷って、手元を見た。
「——バス、見送ってよかった」
とめどなく降り続ける雨の音にまぎれて、そう聞こえた気がした。
「それって……」
言おうとした言葉を飲み込む。
顔を上げたとき、先輩はもうバスに乗り込んでいた。