『カレンダー』
「ん?」
馴染みの古本屋で掘り出し物のミステリーを探していた私は、1冊の本を手に取り首を傾げた。
色褪せた文庫本はおよそ300ページ。そのちょうど真ん中辺りに1枚の紙が挟んであった。
最初は前の持ち主が栞代わりにでも挟んだのだろうかと思ったのだが、どうも腑に落ちなかった。
紙といってもメモ用紙やコピー用紙でもなければ、スーパーのチラシやレシートなんかでもないのだ。
4つ折りにされた紙を開いて私は思った。
一体、誰がなぜカレンダーを本に挟んだのだろうか……
上の方が大雑把に引きちぎられたようになった1ページ分のカレンダーは9月の日付で、いつの年のものかは書かれていないものの、日付と曜日の組合わせからして今年のものに間違いなさそうだった。
このカレンダーはおそらく毎月ページを切り離してめくるタイプのカレンダーだ。だから、いらなくなった前の月のページを咄嗟に栞代わりにしたというのなら分からないでもない。
だが、これはそういうことではない。
なぜなら今は9月、しかも今日は9月が始まってまだ5日目なのだ。
私は思わず、そのカレンダー付きの古本を店主のいるレジへ持っていった。どちらにしろ、ちらりと見た感じでその本自体に興味を惹かれていたのだ。まあ確かに、決め手は謎のカレンダーの存在だったのだが。
店を出て家に帰る道を行きながら、再び本の間から先程のカレンダーを引っ張り出した。
このカレンダーの持ち主は、まだ始まったばかりの今月をカレンダーなしで過ごすのだろうか。今の時代、スマートフォンがあればそう困ることもないのだろうが、そうまでしても本の栞になるものを必要としていたというのだろうか。
ふつふつと疑問が湧き出すものの、答え合わせの方法は検討もつかない。
ミステリー好きの性だろうか。店を出てからもずっとその謎が頭から離れなかった。
いっそのこと、古本屋の店主にこの本の前の持ち主のこと聞いてみたいと思ったが、私がそれなりにあの店の常連とはいえ、さすがにただの客に個人情報を教えてくれるわけもないだろう。そもそも、まったく他の客がカレンダーだけを適当な本に挟んで店を去った可能性もあるのだ。
ぐるぐると頭の中で考えを巡らせていたせいか、最短で家に帰るために曲がるべき角をいつの間にか通り過ぎていた。
だが、そのお陰で私はあることに気がついた。
古い家が並ぶ入り組んだ路地を抜けた先の大通りで、今まで隠れていた太陽が頭上に現れ、手元のカレンダーを照らす。
あれ? と思った。
カレンダーの9月12日——ちょうど今日から1週間後の欄に、わずかだが何か文字が消されたような跡がある。
心臓が一度ドクンと強く打った。ようやく謎を紐解く手がかりを見つけたかもしれない。
急いた気持ちで足がもつれそうになりながらも、できる限りの早足で私は家へと急いだ。
本やドラマではよく見たことがあるが、実際に試すのは初めてだ。
何かの景品でもらった新品の鉛筆を探してきて、唯一家にあった色鉛筆用の鉛筆削りで先をがりがりと削る。そして、元々何かが書かれていたであろうカレンダーの1か所をそっとなぞった。
だが、なぜだろうか。いくら鉛筆を動かしても思ったように文字が現れない。それどころか、白い部分がただただ深い灰色に塗られていくばかりだった。
私は静かに肩を落とした。
どうせ文字が現れたところで何が起こるわけでもないのだ。落ち込んでも仕方がない。
これも誰かにもらった新品の消しゴムの封を開け、鉛筆で塗った部分を綺麗に消しながらまた考える。
その時ふと、買ったばかりの古びた本のタイトルが目に入った。
「——なるほど、その手があったか」
それから1週間が経った9月12日の午前10時50分。私は駅前にいた。
駅前の広場には私の他に待ち合わせと思われる人々が数人いて、彼らはスマホをいじりながら、時々誰かを探すように顔を上げた。
私は空いていた広場のベンチに1つに腰を下ろし、カバンから例の古本を取り出す。
買った日に1度読み終わり、その余韻のままその日に所々読み返したので、これでおよそ3周目ということになる。
想像以上にこの本はとにかく面白かった。いや、それ以前に私の好みにどストライクだった。
これが特に知られた作家の知られた作品というわけでもないことを考えると、カレンダーの持ち主とはもしやさぞ気が合うのではないかと思ったことも、私が今日ここに来た理由の1つだった。
こうして来てはみたものの、本当に誰かが現れるかどうかは正直賭けだ。それに誰かが現れたとして、自分が何をしたいのかも実のところよく分からない。
ただどうしても気になって、いても立ってもいられなくなってここまでやって来てしまった。
緊張で速くなる息を整えようと、カレンダーを挟んだ本を一旦閉じ、顔を上げる。
その瞬間、一人の男性と視線が合った。
いや、正確に言うと、私は彼を見ていたが彼は私の持つ本を見ていた。そして元からまん丸い目を、より一層まん丸くした。
ああ、この人がこの本にカレンダーを挟んだ人なのだ、と直感した。
『氷の摩擦』と書かれた本のタイトルと一緒に、ここに来る前に買ってきた『こすると消えるペン』を男性に見せると、彼は表情を崩して可笑しそうに笑みをこぼし、それから頷いた。
この本のタイトルをカレンダーの謎と結びつけて考えなければ、私はここまで辿り着くことができなかっただろう。
この類のペンで書いた文字は、摩擦で消えてしまったとしてもある程度冷やすことで元に戻るというトリックを以前他の小説で読んだことがある。
それを思い出したのでカレンダーを一晩冷凍庫で冷やしてみたところ、予想通り文字が現れていた。
タイトルが明らかにヒントになっていることからしても、誰かが意図的にこの謎を作って他の誰かに解かせようとしているのだろうと思った。
当然怪しく思わなかったわけではなく、ここに来ることにまったく抵抗がなかったと言えば嘘になる。だが、謎を解きたいという気持ちの方が遥かに上回ってしまったのだ。
「もし、その本を気に入っていただけたのなら」
大きく1歩くらいの距離まで近づいた時、彼は言った。
ズボンの後ろポケットから彼が1冊の本を取り出す。
「僕とお茶をしませんか——」
何度も読み込んだのであろう彼の手にある本と、これからもっと読み込んでいく私の手の中の本。
本を胸の前に抱いた私はそこから小さく1歩踏み出す。
「——はい、ぜひ」
『鏡』
仕事を終え、スーパーで割引シールの貼られたお弁当を1つ買った私は家路を急いだ。金曜の夜だからといって寄り道はしない。
駅から歩くこと10分。単身向けの2階建てアパートであるここ、「壽荘(ことぶきそう)」に住み始めたのはつい先月のことだ。
「ただいまー」
玄関を上がり、真っ暗な部屋に明かりをつける。
不動産屋で築40年と聞いた時は身構えたが、数年前にリフォームされたという部屋は築年数ほどに古い印象はなかった。1番の心配だった水回りも同様に綺麗にリフォームされており、風呂とトイレが別でこの家賃というのはとても魅力的だった。今思えば、その魅力的すぎる条件を少しは疑うべきだったと思う。
「随分と遅かったな」
ひとり暮らしの部屋、本来なら聞こえるはずのない声が聞こえる。もちろん、今この部屋には誰もいない。
「すみません、来週の会議の準備でバタバタしてて」
「それはご苦労だったな。それはそうと、例の物の場所は分かったかい?」
「はい。大家さんに住所のメモをもらいました」
カバンの中のファイルから1枚のメモを取り出した私は、鏡台の前に腰を下ろした。
以前は畳だったという床には、今はフローリングが敷かれている。数着しか服の入っていないクローゼットも、元は押し入れだったらしい。すっかり洋風に生まれ変わったこの部屋に、このいかにも和風な鏡台は明らかに馴染んでいない。
「明日、この住所に行ってみます」
目の前の鏡に向かってメモを見せながら、そう口にする。
他の人が見たら間違いなく奇妙な行動––––いや頭のおかしい人の行動に見えるだろう。
だが、私の頭は正常のはずだし、私は至って真剣なのだ。
翌日、朝早くに家を出た私はメモの住所を目指して電車に飛び乗った。1時間ほどで着くらしい。
生まれてこの方、私は私のことを凡人の中の凡人だと思ってきた。育った環境や経験してきたこと、容姿やスペックや性格。特に秀でるものもなければ劣るものもなく、人並みに幸せと不幸を繰り返してきた。
そんな凡人である私にとって、不思議なものとの縁というのは今までにあるはずもなかった。だから、鏡台の鏡の中から幽霊の声がした時の私は、今までにないほど驚いた。
「君は、わしの声が聞こえているのかい」
その声は明らかに部屋の中、いや鏡の中から聞こえていて、隣の部屋の声という感じではなかった。
「聞こえるなら返事をしてくれんか。悪いことはせんと約束する」
聞こえないフリをするべきか迷っていた私だったが、その言葉に恐る恐る頷いた。
「そうかそうか。やっと話の通じる相手がここに来たか」
「あの、えっと……」
「あぁ、すまんすまん。わしは名を彦三郎。歳は100といくつだったか……いや、幽霊が歳を言っても仕方がないな」
「ゆ、幽霊……?」
「あぁ、そうだ。あの世に行くこともできず、こうして鏡に閉じ込められた情けない幽霊さ」
信じられないような出来事に言葉を失う私に向かって、彦三郎さんはこう言った。
「ここは1つ、哀れな年寄りの幽霊に手を貸すと思って、わしの頼みを聞いてくれないだろうか」
電車を降りてからは、地図を頼りに歩いた。約束の時間にはどうにか間に合いそうだ。
彦三郎さんに探してほしいものがあると頼まれた私は、電車に乗ってこうしてここまでやってきた。今から向かうのは、あの鏡台の元々の持ち主の息子さんの家だ。
鏡台は持ち主であるおばあさん──光枝さんが亡くなったあとも、鏡台はずっとあの部屋に置かれたままになっていた。引き取り手もおらず、処分するにはもったいないような立派なものなので、住人が自由に使えるようにと大家さんがそのままにしたらしい。
彦三郎さん曰く、死んだあと幽霊としてあの部屋に棲みついた彼は、光枝さんと彼女が雇ったという霊媒師の手によって鏡の中に閉じ込められてしまった。鏡から出るには鏡を割るか、彦三郎さんを鏡に閉じ込めるのに使ったという小さな箱が必要なのだという。
あの部屋に住人が変わる度に彦三郎さんは声をかけたり、音を立てて存在を知らせようとした。きっとそのせいで家賃が格安になっているのだろう。
なぜか第六感があるわけでもないのに彦三郎さんと話ができた私に向かって、彼は鏡を割ることだけは絶対にしたくないと言った。そこで私は、光枝さんの遺品を管理する彼女の息子、幸彦さんを訪ねることになった。
「初めまして、田代と申します。生前、光枝さんには大変お世話になりました」
「そうでしたか。ご丁寧にありがとうございます」
本当は光枝さんとの面識は全くない。だが、見ず知らずの人の遺品から物を探すわけにもいかないので、彼女に預けたものを取りに来たという体で話を通すことにした。
申し訳ない気持ちでいっぱいだが、ここは彦三郎さんのためにも腹を括るしかない。
「それで、母が預かっていたものとは」
「はい。あの、小さな桐の箱なんですが、紙で封がしてあって」
彦三郎さんから聞いた情報を伝える。
「あぁ、そういえば。見た覚えがあります。母の物はほとんど捨てずに2階に置いてますので、今探してきますね」
幸彦さんは私の話に疑いを持つ素振りもなく、とても親切で、すぐにその箱を探して持ってきてくれた。
「これで間違いないですか」
彼の手にある箱は彦三郎さんの行った通りの大きさ形で、紙で封がしてあることから言っても間違いなさそうだった。
「はい、そうです。ありがとうございます」
「いえいえ。こちらこそ生前の母と親交のある人が訪ねてきてくれてありがたいです。実を言いますと、亡くなる少し前の頃は母のことが少し心配でね」
苦笑いを浮かべる彼に、「え?」という表情を返す。
「いやぁ、おかしな話だと思われるかもしれないんだけど——」
20年ほど前、光枝さんは当時一緒に暮らしていた旦那さんとともに災害に見舞われた。幸い彼女は一命を取り留めたが、旦那さんと、その旦那さんと長年住み続けた家を一度に失うことになった。
その後、今私が住んでいる壽荘に住まいを移した光枝さんだったが、しばらくして息子である幸彦さんにおかしなことを言い始めたらしい。
「家に幽霊がいて、あまりに騒がしくされて困る。誰かいい人を紹介してくれないだろうか——」
「しょうがないんで知り合いのツテを頼って詳しい人を紹介してみたら、そのあとから母はピタリとそういうことを言わなくなりまして」
「そうなんですね……」
話を聞いた私はおおよそのことを理解した。彼が頼んだというその人が、彦三郎さんを鏡に閉じ込めたという"霊媒師"なのだろう。
「父が亡くなったのも突然のことでしたし、何しろ2人は仲が良すぎるぐらいでしたから。母はさぞかしショックを受けていたと思います。唯一手元に残った父との思い出の鏡台は、亡くなるまでずっと大切にしてたと聞きましたし……」
「あの、その鏡台なんですが。実は今、私が使わせてもらってます」
「そうでしたか。それは良かった。私が使えるものでもないので、あなたのような人に使ってもらえて母も、それから父も喜んでいると思います」
「そう言っていただけて嬉しいです。大事に使わせていただきます」
「あの、1つお聞きしてもいいですか」
箱を受け取った帰り際、私は最後に尋ねた。
「お父様のお名前って……」
「あぁ、父の名前は————」
「ただいま」
「おかえり。あれはその、見つかったかい」
「はい。これです」
桐の箱を鏡に向ける。
「あぁ、あったかい。そうかい。ついにこの時が来たんだね」
嬉しそうで、でもどこか寂しそうな声。
「あの、彦三郎さん。この箱を開けたら、彦三郎さんは鏡から出られるんですか」
「あぁ」
「そうなったら……そうなったとしたら、彦三郎さんはどうなるんですか」
「わしはそうだな——」
彦三郎さんが考える間、静かな部屋に音はない。
「もうこの世に未練はない、だろうな」
「それはこの世にもう光枝さんがいないから……ですか」
「な、なんでそれを……いや、そうか。そりゃ分かるだろうな。まぁ本当はあいつと一緒にあの世に行くはずだったんだ。だがそれを待つ間、ここで誰にも気づかれないのは暇でな。それであいつにちょっかいを出すようになったらこのザマだ」
彦三郎さんが声を上げて笑う。
「光枝は得体のしれない幽霊をその箱に閉じ込めたと思っているだろうが、実際は何の手違いか鏡台の鏡に俺を閉じ込めたんだからな。まぁちょうどいい冥土の土産話だな」
「——やっと光枝さんに会えるんですね」
「あぁ。そうだな」
この部屋で、彦三郎さんの存在に気づかないままの光枝さんにちょっかいを出し続ける姿を思い浮かべると、微笑ましさと切なさで胸がキュッとした。
「箱、開けていいですか」
「ああ、頼むよ」
封を切り、桐の箱開けると、眩い光が部屋に広がった。一瞬、鏡に反射した光に思わず私は目を閉じる。
ふと彦三郎さんの声がした気がした。光枝さんを呼ぶような声だった。
目を開けた私の前には、光枝さんの鏡台。丁寧に磨かれた鏡台は彦三郎さんに対する彼女の愛そのものなのだろう。
いつか私も二人のような非凡な恋ができるのだろうか。
鏡台に映る自分を眺めながら、私は未来の自分の姿を探した。
『麦わら帽子』
街の雑踏の中に彼女の姿を見つけた気がした。
この夏1番の暑さだという今日のこの陽炎のせいだろうか。それとも無意識に夏の景色に彼女の姿を重ね合わせてしまっていたのだろうか。
人混みに目を凝らしてもう一度彼女の姿を探してみたものの、もうその姿はどこにも見当たらなかった。
今はもう取り壊されてしまったデパートの屋上。中3の夏休みが始まったばかりの頃、僕はそこで彼女と出会った。
「君、どうしてここに?」
突然後ろからそう声がした。
「え!?」
驚いて振り返った僕を見て、彼女はおかしそうに笑みを浮かべる。
白い無地のTシャツにジーパンで、足元は素足にサンダルというシンプルな格好。長い髪は上の方で無造作にポニーテールをしていて、年はそう離れてなさそうなのに、仕草や話し方のせいかどことなく大人っぽい雰囲気が漂っていた。
「えっと、ちょっと参考書を見に本屋に行った帰り、なんとなくふらっと……」
「へぇー、真面目だね」
「いや、そんなことは……」
実際僕は受験勉強から逃げ出す言い訳として、大きな書店の入るこのデパートに来たのだ。目的の書店を出たあと、もう少し時間を潰したいと思った僕は本当になんとなくふらっと屋上に足を運んだ。
僕の答えを聞いた彼女は、明らかに残念そうな表情を浮かべた。
「なぁ〜だ、私はてっきり──まぁいっか」
"てっきり"何なんだろうか。
僕はそう思ったものの、彼女の興味はもうすでに他のことに向いているようだった。
彼女の視線を追うと、このデパートの隣にある別館の周りをいくつもの重機が取り囲んでいるのが目に入った。
「もうあっちは取り壊されるんだ」
ひとり言ともとれる彼女の言葉に、僕は静かに頷いた。
僕が生まれる前からずっとあるこのデパートは、夏休みが終わるタイミングで閉店することが決まっている。ここ数年は長いこと経営不振だったとは聞いていたが、いよいよ立ち行かなくなったらしい。
隣の別館は本館に先駆けて先日閉店したのだが、もう取り壊しが始まるようだ。
慣れ親しんだ店がなくなってしまうことに胸が痛まないでもないが、そのおかげで閉店セール価格で参考書が買えたのはラッキーだった。
「あとちょっとでこの景色ともお別れかぁ」
屋上の手すりを両手で掴み、彼女が体を乗り出すように遠くを眺める。小さい頃はこのデパートがこの辺で1番高い建物だったが、いつの間にか近くのビル群にあれよあれよと追い越されてしまった。
「あの……よくここ来るんですか」
「うん。まぁここ最近だけどね」
そんなにこのデパートに思い入れがあるのだろうか、と僕が考えていると、彼女がふいに口を開いた。
「君、中3? 橋高受験するんだ」
「え、どうして!?」
なぜ彼女がそれを知っているのだろうか、と驚きが顔に出る。
「だってほらそれ」
彼女が指差したのは僕が手にしている半透明の袋。さっき参考書と一緒に買った橋高の過去問の表紙が、書店の袋の下に薄っすらと透けて見える。
「あぁ、なるほど。えっと、今の所ですが、そのつもりです」
「そっか。じゃあこれから勉強大変だ──いや、全然余裕って人もいるのか」
「それは……正直言うと、全然なんです。今まで部活ばっかやってたので、橋高は難しいかもって言われてます」
初対面の人に話すことでもなかったな、と言ってから思った。でも、プライドが邪魔をして友人たちにはこのことを打ち明けそびれていたので、口にしたことで少し心が軽くなった。
「じゃあ提案なんだけど──私が教えてあげようか、勉強」
「え……?」
「私、ちょうどこの夏休みを持て余してたんだよね。こう見えて、教えるの得意なんだ」
「えっと、それはすごくありがたい話ですけど……でもその、僕お小遣いそんなもらってなくて、お金とかは払えないので……」
「いやいや、もちろんそんなのいらないよ。夏休みの間、私は君に勉強を教える。その代わり君は私の持て余した時間をもらってくれる──どう? いい考えだと思わない?」
夏の太陽の下でそうやって笑う彼女の笑顔は、太陽に負けず劣らず眩しかった。
どうせ家にいても勉強は捗らない。だったら──
それから僕は夏休みの間、家族には図書館に行くと嘘をついて実際はデパートの屋上に通った。
夏の屋上は日陰といえども暑かったが、屋上の入り口のドアを少し開けると、中の冷気が漏れ出てちょっとだけ涼むことができた。他にいくらでも涼しく勉強できる場所はあっただろうが、不思議と他の場所に行こうという話にはならなかった。
初めの頃はノートを挟んで向かい合っていた僕らはいつしか隣に並ぶようになり、その距離はだんだんと縮まっていった。ある日彼女の肘と僕の肘が触れ合った時、僕は自分の感情に気がついた。それと同時に、その瞬間を彼女も意識したような気がした。
彼女の方ももしかしたら──
そんな淡い期待を胸に抱いた僕は、夏休みの最後の日、彼女に思いを告げようと決意した。
その日、僕が屋上の扉を開けると彼女は屋上の手すりに片肘をつき、どこか遠くを眺めていた。髪の毛は珍しく下ろしていて、頭には初めて見る麦わら帽子をかぶっている。
「それ、すごく夏って感じですね」
彼女の後ろ姿にそう声をかけると、彼女は振り返って「でしょ?」と笑ってみせた。
「まぁもうすぐ夏も終わっちゃうんだけどね」
再びこちらに背中を向けた彼女の隣に僕も並ぶ。
「これこんなにかわいいのに、どんなに値段下げられてもまだ、今日まで売れ残ってたんだよ。誰かふさわしい人に買ってもらえるといいなって思いながら毎日見守ってたんだけど、それも叶いそうになくてさ。しょうがないから私が買っちゃった」
横目で見る彼女の笑みがいつもと違って寂しそうで、胸がドキっとした。
たった今まで照りつけていた日差しが一瞬雲に隠れ、屋上全体に影が差す。
「その……よくお似合いです」
「お世辞でも嬉しい。ありがと」
「いや、お世辞では──」
沈黙の中では、けたたましく鳴る心臓の音の方が先走って何かを伝えてしまいそうで、僕はすぐに続ける言葉を探した。
だが沈黙を破ったのは彼女が先だった。
「ほんと、あっという間だったね。先生がいいからか、成長も早いしびっくりだよ」
彼女が得意気かつ大げさに頷く。
「それ、自分で言うんですか」
「君が先に言ってくれれば言わずに済んだんだよ」
「すみません。僕が至らないばっかりに」
ここでこうやって冗談を言い合いながら話すのも、今日で最後になる。このデパートは今日の夕方、僕の人生よりもずっと長い歴史に幕を閉じる。
僕にはなぜか、この場所がなくなってしまったら、彼女と会える場所自体もなくなってしまうように思えてしかたがなかった。
「あの……」
やっとの思いで彼女に気持ちを伝えようとした時、僕の声を遮るように彼女が口を開いた。
「今までありがとね、私のわがままに付き合ってくれて」
「わがまま、なんて……僕の方こそ勉強に付き合ってもらって──」
「最後に、君と出会えて良かった」
「え、今なんて……」
思ってもみなかった言葉に、僕は頭を重たい何かで殴られたようだった。今までたくさん考えてきた言葉が散り散りになって、"最後"という言葉の響きだけが取り残された。
「今日でここは最後。だから私たちも今日で最後なんだよ」
彼女は淡々と言う。
「ま、待ってください! このデパートがなくなるからって僕たちも終わりだなんて! ここじゃない別の場所だって──」
「ないよ」
そう言い切った彼女に対して、僕は食い下がろうと横を見て、そして悟った。
こちらを見る彼女の視線はいつものようにからかうでも冗談でもなくて、迷いすらもなくて、僕がどうしたって揺るぎようのない本気の目だった。
「だから、ごめん」
何に対して「ごめん」なのだろうか。僕はまだ何も伝えられてないじゃないか。
たちまち崩れていく表情を隠すためにうつむく。唇を噛みしめ、目頭に力を入れる。
うつむいたまま顔を上げない僕の頭に、彼女が何かを乗せた。
情けない僕の顔を隠すように、麦わら帽子のつばが視界を遮る。
彼女の優しさに気づいて、余計に涙が止まらなくなった。
「あのさ、わがままついでにもうひとつだけ私のわがまま聞いてくれる?」
しゃくり上げる僕の肩に彼女の手がそっと置かれる。
「明日の朝10時、駅前に来て。この帽子、結構気に入ってるんだよね。今日は貸しとくからさ、明日、持ってきてくれないかな」
彼女の表情は分からない。彼女の本心も分からない。
今にもどこか遠くに行ってしまいそうな彼女を繋ぎ止められるのならとの思いで、僕は黙って頷いた。
あのデパートが取り壊されたあと、その跡地に新しいショッピングモールが建った。中の店舗はがらりと代わり、客層もおそらくいくらか若返った。どこを見ても、昔のデパートの面影はまるでない。
当初、このショッピングモールには人の出入りが自由な屋上も設計されていたらしい。だが、直前になってその設計は変更になった。
だから今のモールには屋上はない。あの事故があったから──いや、あれがそうでなかったことくらい僕には嫌というほど理解できた。
きっと彼女は最初からもう決めていた。あそこでずっと最後の日を待っていたのだと思う。
彼女はあの時何を思っていたのだろうか。僕の存在は少しも彼女を止める役には立たなかったのだろうか。
夏が来る度に彼女の笑顔を思い出す。
彼女と過ごした夏は幻だったのではないかと振り返る度に思うが、実家の押し入れの中には今も確かに自分には到底似合わない麦わら帽子が大事にしまってある。
あの日僕はどうするべきだったのか、ずっと答えが出せないままだ。
『朝日の温もり』
朝7時。校門はすでに開いていた。
鍵を開けるのは教頭先生の仕事だと聞いたことがあるが、こんなに早くから学校に来るなんて大変な仕事だなと他人事のように思う。
人のいないグラウンドの横を通り、静まり返った校舎に足を踏み入れた。
普段は通り過ぎるだけの他クラスの靴箱を、今日はさりげなく覗き込んでみる。そして心の中で小さく「よし」と呟いた。
当然と言えば当然だが、靴箱には上履きの背だけが並んでいる。
満足した気持ちで自分の靴箱の前に立った私は、通学用の運動靴を脱ぎ、それと入れ替えに履き古した上履きを足元にパタンと落とした。
教室まで続く廊下を歩いていると、窓の外から鳥の鳴き声が聞こえてきた。
うちの中学校は小高い丘の上にあって、辺りは木に囲まれている。鳥の声が聞こえてきても何ら不思議ではないはずなのに、なんだかすごく新鮮に思えた。
だが、考えてみればそうかもしれない。普段、学校に来た時にはすでにどの教室からも賑やかな声が聞こえてくる。そのため、小さな鳥のさえずりは自分の耳に届く前に容易にかき消されてしまうのだろう。
廊下を歩く自分の足音が、この広い校舎全体に響き渡っているような気がして、何となく気を遣いながら歩いた。
私は朝が苦手だ。夜更かしをして朝起きられなくなる、早寝早起きとは真逆の生活を送っている。
そのため、登校の時間がギリギリになってしまうことも度々あった。そんな時は足音を気にするどころか、同じように登校の遅い生徒と一緒になって廊下を小走りで行くことになる。
そんな私にとって、こんな時間に学校に来るなんてことは入学して以来初めてのことだった。
今朝、めずらしくスッキリ目が覚めたなとスマホを見ると、いつも起きる時間までまだ1時間以上もあった。
いつもならここで二度寝をするところだが、今日はなぜか再び目を閉じてみても眠気が来ず、冴えた頭で、どうせならたまには早く学校に行ってみようかと思い立った。
誰もいないはずの自分の教室に入った私は驚いた。
窓際の席、前から2番目。机に顔を伏せているクラスメイトがいた。クラスメイトと言っても、春にクラスが変わってから1、2度業務連絡のような会話をしたことがあっただろうか、という程度の関わりしかない男子だ。
心の中で、私は少しがっかりしていた。今日一番に登校してきたのは自分だと思っていたからだ。
だが、どうやら彼に先を越されていたらしい。彼の靴箱は確か、クラスの中で左上の方なので、さっきは見落としていたのだろう。
彼は机の上に置いた両腕に頭を乗せ、顔を窓の方に向けている。
「おはよう」と声をかけるべきか迷ったが、どうやら彼は眠っているようだったので、私は彼を起こさないようにそっと自分の席に向かった。
彼の後方で、窓から2列目にある私の席には、窓からの淡い光が差し込んでいる。
静かに腰を下ろして机の上にカバンを乗せると、机に触れた手にじんわりと温かみを感じた。
木製の机が、朝日の温もりを帯びている。
私はふと、彼の真似をしてみたくなった。この温かい机の上で眠ったら、きっと気持ちいいんだろうなと思ったのだ。
カバンを机の横に掛けて彼のように机に顔を伏せる。そして、そっと目を閉じる。
顔を照らす温もりが心地いい。たまには早く学校に来るのも良いものだな。
そんなことを思ってるうちに、私はぼんやりと温かい夢に包まれた。
『あの頃の私へ』
――あなたは今、幸せですか?
ボールペンで書かれた筆圧の強い字。インクが滲んだ跡が、十数年の月日を経てもなお、まだくっきりと残っている。
書きなぐったその1文は、文字の羅列というより感情の羅列という方がふさわしいようで、当時の感情が激しく何かを訴えかけてくるようだった。
私は古い日記帳の1行をそっと指でなぞる。
過去に味わった辛さは、辛かったという事実だけを残し、いつの間にか時間とともに心の中で薄らいでいるものだ。
大人になった私は、そう思うようになった。擦りむいて出来た傷が、1日、また1日と癒えていくように。やがてはその傷痕すら目立たないほどに、見た目はほとんど元通りになる。
でも、その痛みを忘れてしまうことはきっとない。あの日々を思い出すと、今でも確かに心がきりっと痛む。雨の日に古傷が痛むように、痛んだことでその傷の存在を思い出すのだ。
「幸せ……か」
小学生の頃から日記をつけることが習慣になっていた。毎年1冊ずつ買い替えてきた日記帳は、もう今年で二十冊目を数える。
よくこんなに続けられたな、と我ながら思う。
この日記の中には、自分の人生が詰まっている。それは私が、それだけの年月を生き続けてきたという証でもあるのだ。
人生を投げ出してしまいたいと思ったことは、一度や二度じゃない。
あの頃はそう。学校に行けなくて、みんなみたいに普通になれなくて、将来が見えなくて。それが悔しくて、苦しくて、どうしようもなく不安で。息をするたびの苦しさから逃れたいと何度も思った。
でも、そんな日々の先に〝今〟があった。あの時、そういう選択をしていたならば、〝今〟はないのだ。
「あれ、りっちゃん。何してるの?」
後ろから私を名前を呼ぶ声がした。
「うん、ちょっと。押入れ片付けてたら懐かしいものが出てきて、ついいろいろ考えちゃった」
Tシャツの袖で目元を拭う。
「え、泣いてるの!? どうしたの!?」
慌てた様子で、夫が顔を覗き込んでくる。
「ううん。何でもないよ、大丈夫」
「ほんとに?」と尋ねる夫に、「ほんとに」と頷いてみせる。
「ほんとのほんと?」
まるで自分に何か悲しいことがあったみたいに眉を下げる夫の顔を見て、私の頬は自然と緩んだ。
「うん、ほんとのほんと」
「よかった。よしじゃあ、りっちゃん。ご飯にしよ」
そういえばキッチンの方からいい匂いがしている。
「うん、ありがと」
あの頃、この道の先には何も続いてなんかいないと思っていた。
でも——
日記帳を両腕に抱える。
——あの頃の私へ。私は今、幸せな未来を生きています。だから、大丈夫。そのまま進んだその道の先で、私はあなたを待っています。
あの頃の自分をそう言って抱きしめてあげられない代わりに、私はあの頃の記憶を力いっぱい抱きしめた。