『マグカップ』
気づけばいつも、私は人を観察している。
話し方や立ち振る舞いはもちろん、服装や持ち物が目に入ると、その人がどんな人物なのか無意識に考えてしまう。それが癖になっていた。
今日付けで異動してきたばかりの部署。部屋の片隅にある休憩スペースで、電気ポットの横に並んだマグカップを見た私は、またいつものように考え始めた。
これ、この間SNSで話題になった、カフェチェーンの季節限定マグ。流行りに敏感で目立ちたがりなこの人は、自己顕示欲高め。そして、こっちは陶器だ……たぶん、何焼きかもこだわって使ってる。こういうこだわりが強いタイプの人は、そう簡単には自分の意見を曲げない。逆に、こっちの百均にもありそうな普通のカップを使っているような、こだわりのないタイプの人は、他人の視線や評価を気にしない。これは、いい意味でも悪い意味でも。それから、こっちは——
1つのマグカップに、私は目を止めた。
真っ白い陶磁器のようなそのカップは、とてもシンプルなデザインなのに、1つだけ他と大きく違っていた。
——持ち手が……2つ?
右と左、それぞれに取っ手がついている。右利きでも左利きでも、どちらでも使えるようにだろうか。でもそれなら、普通のマグカップを回転させればいい。だとしたら……
このマグカップの持ち主は、何でも人と違うものが好きという個性派。言い換えるとしたら、そう、変人タイプ。
「平田さん、この資料のデータ入力頼める?」
「あ、えーっと……はい、大丈夫です」
この部署に来てから数日。まだまだ慣れないことが多くて、自分の抱えた仕事をこなすので正直手一杯だ。でも、無理だとは簡単には言えない。
重たい紙の束は、私のデスクの上にどっさりと積まれた。
「——僕、手伝おうか?」
私の余裕のなさに勘づいたのか、隣に座った戸塚さんが小声でそう声をかけてくれた。
「あ、いやでも……」
「いいのいいの。気にしないで」
目の前にできた山を崩すように、戸塚さんは資料を数回に分けて自分の机に運んだ。
「すみません、ありがとうございます……」
戸塚さんは、よく気がつくし、こうした気遣いができる人だ。歳は少ししか変わらないのだろうが、彼のような人が同じ部署にいるのは心強い。
そう思いながら視線を横にそらした時、私の目に戸塚さんのデスクの上のあるものが映った。
白いマグカップ。持ち手が左右に2つついている。私が変人タイプのものだと思った、あのマグカップだ。
その事実に、私は少なからず意表を突かれた。どうして彼はこんなマグカップを使っているのだろう。
そんな小さな引っかかりを覚えたまま就業時間になり、私はデスクを立つ前に、またさり気なく隣の様子をうかがった。
まだパソコンに向き合っていた戸塚さんは、ようやく作業が終わったのか、「よし」とつぶやいてパソコンを閉じた。そして、机の上に転がっていたボールペンをペンケースにしまおうとする。
戸塚さんにつかまれたボールペンは、一瞬空中に持ち上げられたものの、次の瞬間には彼の手の中からこぼれ落ちていった。落ちた先で机の端にぶつかり、そのまま床まで落ちていく。
私はハッとして床のボールペンに手を伸ばした。
「あ、すみません」
「いえ。はい、どうぞ」
ペンを渡すと、戸塚さんは小さく礼を言いながら、それをペンケースにしまった。その指先に、私はどこかぎこちなさのようなものを感じた気がした。
ふぅ、と息をついた戸塚さんは、机の上のマグカップを見た。まだ中身が入ったままなのか、彼がカップを持ち上げる。
持ち手に両手の指を通し、包むように持って口元に運んだ。
それを見た瞬間、私は初めてこのマグカップの意味を理解した。
戸塚さんの表情は変わらない。ただ、いつも通りの穏やかな顔でコーヒーを飲んでいるだけだ。
私は何も言わずに視線をそらした。
何も見えてなんていなかった。見えていたのはただ、自分の中の思い込みだけだった。
それからしばらく経ち、先日、戸塚さんのマグカップはタンブラーに変わった。
タンブラーは、フタを開けるとストローが出てくるタイプのもので、持ち上げなくても飲み物を飲むことができる。あのマグカップは今、戸塚さんのデスクの引き出しの中にしまわれている。
「最初はただの疲れかと思ったんですけどね。でも、だんだんパソコンのキーボードが押しにくくなって、ボールペンだって何本落としたんだろう」
戸塚さんはそう言って、困ったように笑った。
「でも僕は恵まれてるんです。だって、こんなでもまだ働けてるんだから。働かせてもらえる間は、弱音なんか言う暇もなく精一杯働きます」
あの時の力強さは、今も私の中にずっと残っている。
この先、あとどれくらい一緒に働けるだろうか。そのことを考えると、胸が押しつぶされるように苦しくなる。
私は自分のマグカップを手に取った。
これを買った時のことを思い出す。普段から人のものについてあれこれ思うせいで、自分のものとなると、どう思われるか考えすぎて、なかなか決められなかった。
戸塚さんの目に、このマグカップはどう映っているのだろうか。彼からしてみれば、どんなマグカップもたいして違いはないのかもしれない。
ものの見え方は、人によって変わるのだと思う。同じ世界にいても、私の見ているものと、戸塚さんが見ているものはきっと重ならない。だから、私の見る世界がいつも正しいとは限らない。見ただけで分かることなんて、ほんのちょっとのことなのだ。
そのことに気づいた今、私の目には、戸塚さんのマグカップがあの時と違うように見えた。
6/15/2025, 11:43:10 PM