今宵

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『夢を描け』


「ほら手が止まってるぞ、ヒロ」
 階段の下から、タロ先生の声が飛んできた。
 コンクリートで造られた校舎、階段横の壁は僕の前だけ灰色のままだ。
 隣で描いているユカも、その向こうで描いているキミタカも、もう描きたいものは決まっていて、順調に絵の具を広げている。
「うーん……」
 腕を組み、眉をひそめながら考える。
 僕の夢って、何だろう——
 
 来年の春、僕らの小学校は廃校になる。
 最後の卒業生となる6年生は、僕を入れて3人。頭が良くて頼れるキミタカ、ちょっとおせっかいなとこもあるけど優しいユカ、そして何てことのない平凡な僕。僕たちは入学した時からずっと、3人で一緒に過ごしてきた。
 これから、キミタカは私立の中学校を受験することになっていて、ユカと僕は中学校では校区が違う。卒業すれば、3人とも別々の学校に通うことになる。
 下級生のみんなは、来年度から他の学校に転校することに決まっているらしい。
 最後の思い出に何かできないか、と担任のタロ先生が言った時、校舎に絵を描きたいと言ったのは僕自身だった。
 それにキミタカもユカも賛成してくれて、他の学年の子もみんな一緒に、別れを告げるこの校舎に絵を描くことになった。
 そして、そのテーマが〝夢〟だった。

「まぁ、いきなり『夢を描け』なんて言われても困るよね」
 ふぅ、と額の汗を体操服の袖で拭ったユカが、こっちを見てそう言った。
「あたしもホントは困るんだ。だって、あたしの夢なんて、こんなちっちゃな場所には収まりきらないもん」
 そうやって得意気に言うユカを、僕は心の中で羨ましく思う。
「あたし女優さんになるって決めてるんだけど、最近ちょっとパイロットもかっこいいなって思い始めてさ。あ、でも世界的なデザイナーになるっていうのもアリなんだよなぁ」
「さすがユカの夢はどれも大きいんだな。態度と同じくらい」
 キミタカがユカにちょっかいをかける。
「はぁ!? ちょっと、今なんて言ったの!」
「別にー」
 キミタカは笑いながらも、手は黙々と動かし続けている。
 そういうキミタカの夢は、昔からずっと同じだ。
「キミタカはいいよなぁ、医者になるって決まってて」
 どんどん夢を描き進めるキミタカを見ていると、ついそう口に出してしまった。
「別に決まってなんかない。親が医者だからって、努力しなきゃ医者にはなれない。でも俺はどれだけ大変でも、父さんのような医者になりたいし、医者として誰かの役に立ちたいから」
「うん、だよね……ごめん」
 キミタカの前では、自分がとてもちっぽけで情けなく思えてしまう。
「そんな謝るなよ。ヒロにだって、なりたいものとかやりたいことがきっとあるはずなんだから」
「そう……かな」
 そうつぶやいた小さな声が消えてしまったあと、僕は再び目の前の壁に向き合った。
「——自由に描けばいいさ」
 その声に驚いて振り返ると、すぐ後ろにタロ先生が立っていた。
「夢なんてのは、別に大きくなくていいし、立派でなくてもいい。誰にだって心の中にあるもんで、それに従って突き進めばいつかは辿りつけるもんなんだ」
「じゃあ……先生の夢は?」
「ん、俺のか?」
 一瞬天井を見上げたタロ先生が、視線を戻してニカッと口角を上げた。
「俺の夢はお前らが無事に卒業すること。あと、俺の生徒たちみんなが夢を叶えること。その手伝いをするのが先生っていう仕事だからな」
 そうやって笑うタロ先生は、時々怖いこともあるけど、やっぱりすごくかっこいい先生だ。
「じゃあ、タロ先生の夢を叶えるために僕も夢を叶えなくちゃいけないってことか」
「そうなるな! 頼んだぞ、ヒロ!」
 大きな口で笑うと、先生は僕のもとを離れて、また階段を降りていった。
 僕はまっさらなコンクリートに手を触れてみた。ひんやりとした温度が手のひらに広がる。
 目を閉じると、ざわめきが聞こえてくる気がした。子どもの笑い声や生徒を叱る先生の声、チャイムの音、「おはよう」「さよなら」の挨拶……まだここを、たくさんの生徒たちが行き交っていた時代の声だ。
 今は大きくなったその生徒たちも、たくさんの生徒を見守ってきたこの校舎も、きっと僕らと同じくらい寂しくて切ない気持ちでいっぱいだろう。

「入学したばっかりの頃、覚えてる?」
 しばらく集中して作業をしていたユカが突然口を開いた。
「あたし、あの頃ほんとはすっごく緊張しててさ。2人は幼稚園から一緒だったのに、あたしだけはじめましてだったから」
 確かに最初はそうだった。でもユカはこの性格だから、あっという間に僕たちと打ち解けたはずだ。
「休み時間に、ヒロがあたしの机にノートを持ってきたことがあったでしょ?」
「ノート?」
「あ、もしかしてヒロの自由帳? そういえば、昔はよく描いてたな」
 キミタカが懐かしそうに言う。
「そう。そこに、ヒロが絵を描いてくれたの」
「え、そうだっけ?」
 思い出そうとしてみても、全く思い出せない。
「そうだよ! あたしの絵を描いてくれたの!」
「やるな、ヒロ」
「そんなんじゃないから!」
 すかさず否定する。
「別に何でもいいけどさ。でも、あれがなかったらあたし、今みたいに2人と仲良くなれてなかったかもしれないって思う」
「そんなことないでしょ」
「そんなことあるの。これでも感謝してるんだから、あたし」
 こっちを見るわけでもなく、ユカはつんとした口調でそう言った。
「あの絵を見て笑顔になったあたしに、ヒロは言ってくれたんだ。『ユカちゃん、初めて笑ったね。僕、この絵を描いてよかった』って」
 その瞬間、僕はやっと思い出した。初めて見たユカの笑顔。ユカは僕の下手くそな絵を見て、すごく喜んでくれた。
「ほら、描きなよ」
 ユカが自分の筆を僕の目の前に差し出した。
「何でもいいから、とりあえず描いてみなよ」
 ユカと目が合って、僕はユカの筆を静かに手に取った。
 筆先にはユカが選んだピンクの絵の具。僕はひと思いにその筆で大きく壁に1本の線を描いた。灰色の壁に、ピンク色の山なりの線が1筋生まれる。
 僕の、夢……
 この場所には数え切れないほどの思い出がある。みんなとここで過ごした時間は、これからもきっと忘れることはない。
 僕は、そんな学校を寂しい場所で終わらせたくなくて、ここに絵を描きたいと思った。みんなが笑顔になれるような絵を、僕らがいた証を、ここに残したかったんだ。
「見つけた……かもしれない」
 2人の方を見ると、2人もこっちを見ていた。僕が頷くと、2人がそれに答える。
「——よし」

 この場所いっぱいに僕の大切なものを描こう。
 教室の窓から見える景色、通学路に咲く花、いつの間にか口ずさんでしまう校歌、一緒に笑ったり泣いたり喧嘩もした友達、忘れ物には厳しいけどいつも褒めてくれる先生、そして毎日通った僕らの学び舎––––
 この壁の前を通るみんなが、最後まで笑顔でいられるような。いや、この先もずっと思い出す度に笑顔になるような絵。
 そんな絵が、僕に描けるだろうか。ううん、とにかくやってみよう。
 この先のことはまだ分からないけど、今の僕の夢はきっと、これなんだ。

5/9/2025, 7:36:33 PM