今宵

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『木漏れ日』


「スミマセン」
 ある日の午後、道を歩いていると一人の男性に声をかけられた。
 金髪にブルーの瞳。Tシャツにハーフパンツというラフな格好で背中には大きなバックパックを背負っている。明らかに外国人だ。
「あ、えっと……」
 これまでの人生でまともに外国人と話した経験などない。こんな場面、途端に私はパニックになってしまう。
 頭の中で必死に学生時代の記憶を呼び戻す。そして絞り出した答えが——
「わ、ワット?」
 彼はうろたえる私とは正反対に、余裕のある爽やかな笑みを浮かべた。
「ミチを教えてもらえマスか」
「ミチ?」
 ミチとは……? と思ったのも束の間、すぐに彼が手に紙の地図を持っていることに気づいた。
「あ、道! ロード! えっとそれじゃ、ウェ……ウェアードゥーユー……」
「あの、ワタシ、日本語スコシ分かります。日本語で、ダイジョウブです」
 そう言われて、あっ、と思った。
 思い返してみれば、彼は最初からずっと日本語を話している。それなのに私は、外国人を前に何とか英語を話さなくては、と一人で必死になっていた。
 その事実にたちまち恥ずかしくなって、顔に血が上っていく。
 それでも彼はそんな私の感情になど気づいていないようで、うつむいた私が視線だけ上げると、相変わらずの丁寧な笑顔をこちらに向けた。
 流暢に日本語を話す彼は、どうやらイギリスから旅行でこの辺に来たらしかった。
 私が生まれ育ったこの町は大して特徴もなく、海外からの旅行客が観光で来るには退屈すぎるはずの小さな田舎町だ。
 どうしてわざわざこんなところに来たのだろう。
 そう疑問に思い尋ねると、行きたい場所があるのだと彼は笑った。
 
 彼が行きたいと言った場所は地図を見ても分かりにくいような、田舎の中でもさらに奥まった場所にあった。
 ここから歩くとしたら、軽く40分はかかるだろう。途中まではバスで行けるが、田舎のバスは1日に数本しか出ていない。今の時間なら、おそらく歩いた方が早い。そもそも目的地は森を抜けた先なので、どちらにしても最終的には歩いてしかたどり着けないのだ。
「あの、よかったらそこまでご案内しましょうか」
 説明しているうちに、いつの間にかそう口に出ていた。
「ありがとうございマス! オー、あなたのお名前は?」
「あ、名前……私の名前はミオ、です」
「オー、ミオ! 私はルカです! ミオ、ありがとう!」
 目的の場所までの道中、ルカは一時も休まずに話し続けた。
 自分の名前の由来、家族構成に飼い犬の名前、そして日本に来た理由と今から行く場所に行きたい理由。
「ワタシは、日本語が好きです。愛しています。ワタシは昔、一人の日本人に出会いました。この本の中で」
 森の中をしばらく進んだ時、そう言って彼がリュックから取り出したのは、擦り切れた1冊の本だった。
 それは見るからに年季が入っていて、表紙には薄っすらとだがタイトルと著者名が見て取れる。
「ミオは彼を知っていますか?」
 ルカの問いに私は頷く。
「この辺りの人で彼を知らない人はいないです。地元では有名な人だから」
 ルカが持っていたのは、この辺りで生まれ育った俳人の句集だった。地元では有名とはいえ、日本全体ではほとんど知られていないはずだ。
「でも、どうしてこれを」
「偶然、古本屋でこの本に出会いました。最初は何が書かれているか、分からなかった。でも、なぜかとても読みたいと思った。だから勉強、しました。そして、日本語の素晴らしさを、知りました」
 ルカは立ち止まって、上を見上げた。
 森の中を風が吹いて、木々の隙間の光が揺れた。
「これが〝コモレビ〟」
 ゆっくりと深呼吸したルカは、そっと目を閉じた。私もルカにならって目を閉じる。
「コモレビ、というコトバは英語にはありません」
「え、そうなんですか?」
 とっさに隣に視線を向ける。目を閉じたまま、ルカは笑みを浮かべている。
「はい。訳すことはできても、その意味のコトバは、ないです。でも、日本人はこの光景に名前をつけました。コトバは必要とされた時、初めて生まれます」
「日本語って美しいでしょ?」とパッチリとした目を開いたルカがこちらを見た。
 今まで〝木漏れ日〟という言葉について深く考えたことはなかった。でも今、こうやって私が木漏れ日を感じられるのは、この木々からこぼれるあたたかな光を、美しいと思った誰かがいたからなのだ。その美しさに名前をつけたいと思うほどに。
 それを外国人のルカが教えてくれた。
 ルカの長いまつ毛が木漏れ日に透ける。その奥の瞳は光を通すと吸い込まれそうになほどに淡く美しい。
「ミオ?」
 ルカが不思議そうな顔でこちらを見ている。
「あ、ごめんなさい。あんまり綺麗でつい見惚れてしま……」
 思わず本音を口走ってしまう。
「あ、いや、そうじゃなくて」
「いえ、綺麗です」
「え……」
 ルカと視線が合う。
「美しいです」
 淡いブルーの視線に真っ直ぐに見つめられ、胸の辺りがドキっとした。
「そう、この本が教えてくれました! 世界は美しいって!」
 手に持った本をルカが嬉しそうに掲げる。
 うかつにも一瞬舞い上がりかけた自分の頬を心の中で張り倒す。
「日本に来て、よかった。日本の美しさ、この目で見れました。コモレビ、本当に美しいです。そして……」
 一瞬呼吸を置いたルカが、明後日の方を見る。
「——ミオも」
 今度こそ、本当に舞い上がってしまってもいいのだろうか。
 森に差し込む午後の光を浴びて、頬が熱を帯びる。
「さぁミオ、行きましょう! この先にも、美しい景色が待っています」
 バックパックを背負い直したルカが、ずんずんと森の奥に進んでいく。
 そんな背中を見て、私は笑みをこぼした。
「ルカ! そっちじゃない、こっちだよ!」

5/7/2025, 8:59:18 PM