今宵

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『雨音に包まれて』


 校舎の窓をのぞくと、外は雨が降っていた。廊下も雨の日の匂いがする。
 梅雨のこの時期、毎日のように雨が降っているが、ついさっきまではまだ降っていなかった。
 ちょうど今頃、みんなはバスに乗り込んでいるのだろう、と手首の時計を見た。
 今日はテスト前でどの部活も休みになっている。本当なら、私もそのバスに乗って帰るはずだった。
 全国の高校生が出展する美術展に、うちの美術部で唯一、私だけが作品を出展することになった。実力を認められたのは嬉しい。でも正直、部活の中ではあまり居心地がいいとは言えない。私は誰かに認めてほしかったわけじゃない。ただ、唯一自分が熱中できる絵を、もっと上手くなりたかっただけだ。
 今日もこうして私だけが、部活のないはずの放課後に、一人、出展用の作業をしていた。そして、バスを逃してしまった。

 坂の上にある学校からバス停までは、少し歩かなければいけない。玄関に向かうと、湿度の高い空気が全身にまとわりついた。傘をさして玄関を出た私は、カバンを濡らさないように前に抱えながら、急な坂道を下った。
 次のバスまでは、あと30分以上ある。田舎は、バスも電車も本数が少ない。
 辺りにはもう、生徒の姿はない。徒歩や自転車など、バス通学以外の生徒も、とっくに下校してしまったらしい。当然、バス停にももう、生徒は誰もいないだろう。
 そう思っていたのに、見えてきたバス停の屋根の下には、人影があった。
——先輩だ。
 古い木のベンチの端で、腕を組み、トタンの壁に寄りかかるようにして目を閉じた先輩。
 だんだんと近づくにつれて、その造形の美しさに、胸がまたいつものように高鳴った。
 深山(みやま)先輩、という名前は知っている。でも、実際にそう呼んだこともなければ、会話をしたことすら一度もない。
 先輩とは毎朝バスで一緒になるだけだ。いつも私より先にバスに乗っていて、バスの中ではいつ見ても目を閉じて寝ている。まさしく今みたいに。
 先輩の美しい顔立ちは学校の中でも有名で、人気がある。バスの中で先輩が眠っている間、私は心の中でこっそりと、その顔の線をなぞった。影を足して、光を捉え、毎日1枚の絵として眺めた。それが私のひそやかな楽しみだった。
 でも、なぜ先輩はまだバスに乗っていないのだろうか。
 先輩の荷物はカバンだけで、傘はどこにも見当たらない。制服のシャツも、耳上までのまっすぐな髪も、どこもまったく濡れていない。
 時間通りなら、バスは雨が降り出してからここに来たはずだ。きっと先輩はその前からここにいたのだろう。もしかしたら、寝ていたせいで、さっきのバスに乗りそびれてしまったのかもしれない。
 私はそんなことを考えながら、先輩が座るベンチの反対側の端に、静かに腰を下ろした。

 トタンの屋根に雨が跳ね返る。その不規則な音が、他の音を遠ざける。
 私は山並みの霞を眺めながら、時々、視界の端に先輩の横顔を映した。そして、また前を向く。
 バスはあとどれくらいで来るだろう。何度目かの視線を往復したあと、私は腕時計を見つめた。
「——絵、上手なんだね」
 ふいに聞こえた声に、私はハッと横を見た。
「えっ……」
「見たんだ、君の絵。飾ってあったから」
 先輩がこっちを見ている。
「あ、あの……ありがとうございます」
 返した声は、自分でも分かるくらい、うわずっていた。
「それに描いてるところも。絵描くの、好きなんだね」
「はい! その、好き……です」
 初めて、先輩と視線が合った。柔らかな声に、静かなまなざし。会話はもちろん、目が合うのもこれが初めてで、たちまち顔がほてっていく。
 私は今まで、先輩を一方的に見ているつもりだった。先輩の視界の中に私がいたなんて、少しも考えたことがなかった。
 トン、パタン、トトン。次の言葉を待つかのように、雨音が鳴る。
「——毎日思ってた」
 先輩が屋根を見上げる。
「バスの中で、何を君はそんなに一生懸命見てるんだろうって」
 私はどきりとした。
「普段、いろんな人がこっちを見るからさ、自然と目を閉じておくことが多いんだ。そしたらほら、こっちからは見えないから」
 そこで私は初めて知った。先輩はいつもただ寝ていたわけじゃなかった。理由があって、目を閉じていたんだ。
 そんなことにも気づかず、私は毎朝のように……いや、さっきだって。私はずっと先輩を——
「すみません、私、先輩の気持ちも考えないで……」
 思わずこぼれた言葉に、先輩がこちらを向く。
「ただ……先輩のこと、描いてみたいなって思って。気づいたら、毎朝見てて……」
 言いながら、自分でも顔が熱くなるのが分かった。言うつもりじゃなかった。でも、本心から出た言葉だった。
 先輩は、少し目を見開いたように見えた。けれど、すぐにふっと目を細める。
「君の視線に気づいた時、なんだか他の人のとは違うって思った。上手く言えないけど、嫌な感じがしなかった」
 私は驚いて、視線を上げた。
「謝らなくていい。何なら、今描いてくれてもいいんだ。どうせバスが来るまで、まだ時間があるんだから」

 薄暗い空の下でも、その顔立ちには、はっきりとした陰影が浮かび上がっていた。
 おでこから滑るように眉へ、そこからくっきりと通った鼻筋に向かう。顎はシャープに首筋へとつながっている。
 直線と曲線だけでできているとは思えない立体的な横顔に、デッサン用の鉛筆がスケッチブックの上をなめらかに走った。
 ふぅ、と息をつき、私は手を止めた。
「……描けた?」
「まだ全然粗いんですが……」
「見ていい?」
「えっと……」
 私が小さくうなずくと、先輩は私の手元をのぞき込んだ。
「うわ……すごい……」
 自分の心音が耳元で聞こえる。雨の音が遠くに感じる。
「おれ、こんな顔してるんだ」
「……もっとです。もっと上手く描かないと先輩の顔にはかなわないから」
 自分の描いた絵を見ながら、客観的にそう思う。
「じゃあ——今度はもっと上手く描いて」
 その言葉に、一瞬、鼓動が強く脈を打つ。
 そこに、バスのヘッドライトが近づいてきた。
「あ、バス来た」
 隣で先輩が立ち上がる。
 雨をかき分けるようにやってきたバスが止まり、すぐにドアが音を立てて開く。
「行こう」
 カバンを手にした先輩がバスに向かうのを見て、私は慌ててスケッチブックをバッグにしまい、それから傘を手に立ち上がった。
 先にバスのステップに足を乗せた先輩が、ふと動きを止めた。
 雨の勢いが強くなる。バス停の屋根を出た先輩の背中が、雨に濡れる。
 私は先輩に傘をさそうか迷って、手元を見た。
「——バス、見送ってよかった」
 とめどなく降り続ける雨の音にまぎれて、そう聞こえた気がした。
「それって……」
 言おうとした言葉を飲み込む。
 顔を上げたとき、先輩はもうバスに乗り込んでいた。

6/11/2025, 9:59:06 PM