『麦わら帽子』
街の雑踏の中に彼女の姿を見つけた気がした。
この夏1番の暑さだという今日のこの陽炎のせいだろうか。それとも無意識に夏の景色に彼女の姿を重ね合わせてしまっていたのだろうか。
人混みに目を凝らしてもう一度彼女の姿を探してみたものの、もうその姿はどこにも見当たらなかった。
今はもう取り壊されてしまったデパートの屋上。中3の夏休みが始まったばかりの頃、僕はそこで彼女と出会った。
「君、どうしてここに?」
突然後ろからそう声がした。
「え!?」
驚いて振り返った僕を見て、彼女はおかしそうに笑みを浮かべる。
白い無地のTシャツにジーパンで、足元は素足にサンダルというシンプルな格好。長い髪は上の方で無造作にポニーテールをしていて、年はそう離れてなさそうなのに、仕草や話し方のせいかどことなく大人っぽい雰囲気が漂っていた。
「えっと、ちょっと参考書を見に本屋に行った帰り、なんとなくふらっと……」
「へぇー、真面目だね」
「いや、そんなことは……」
実際僕は受験勉強から逃げ出す言い訳として、大きな書店の入るこのデパートに来たのだ。目的の書店を出たあと、もう少し時間を潰したいと思った僕は本当になんとなくふらっと屋上に足を運んだ。
僕の答えを聞いた彼女は、明らかに残念そうな表情を浮かべた。
「なぁ〜だ、私はてっきり──まぁいっか」
"てっきり"何なんだろうか。
僕はそう思ったものの、彼女の興味はもうすでに他のことに向いているようだった。
彼女の視線を追うと、このデパートの隣にある別館の周りをいくつもの重機が取り囲んでいるのが目に入った。
「もうあっちは取り壊されるんだ」
ひとり言ともとれる彼女の言葉に、僕は静かに頷いた。
僕が生まれる前からずっとあるこのデパートは、夏休みが終わるタイミングで閉店することが決まっている。ここ数年は長いこと経営不振だったとは聞いていたが、いよいよ立ち行かなくなったらしい。
隣の別館は本館に先駆けて先日閉店したのだが、もう取り壊しが始まるようだ。
慣れ親しんだ店がなくなってしまうことに胸が痛まないでもないが、そのおかげで閉店セール価格で参考書が買えたのはラッキーだった。
「あとちょっとでこの景色ともお別れかぁ」
屋上の手すりを両手で掴み、彼女が体を乗り出すように遠くを眺める。小さい頃はこのデパートがこの辺で1番高い建物だったが、いつの間にか近くのビル群にあれよあれよと追い越されてしまった。
「あの……よくここ来るんですか」
「うん。まぁここ最近だけどね」
そんなにこのデパートに思い入れがあるのだろうか、と僕が考えていると、彼女がふいに口を開いた。
「君、中3? 橋高受験するんだ」
「え、どうして!?」
なぜ彼女がそれを知っているのだろうか、と驚きが顔に出る。
「だってほらそれ」
彼女が指差したのは僕が手にしている半透明の袋。さっき参考書と一緒に買った橋高の過去問の表紙が、書店の袋の下に薄っすらと透けて見える。
「あぁ、なるほど。えっと、今の所ですが、そのつもりです」
「そっか。じゃあこれから勉強大変だ──いや、全然余裕って人もいるのか」
「それは……正直言うと、全然なんです。今まで部活ばっかやってたので、橋高は難しいかもって言われてます」
初対面の人に話すことでもなかったな、と言ってから思った。でも、プライドが邪魔をして友人たちにはこのことを打ち明けそびれていたので、口にしたことで少し心が軽くなった。
「じゃあ提案なんだけど──私が教えてあげようか、勉強」
「え……?」
「私、ちょうどこの夏休みを持て余してたんだよね。こう見えて、教えるの得意なんだ」
「えっと、それはすごくありがたい話ですけど……でもその、僕お小遣いそんなもらってなくて、お金とかは払えないので……」
「いやいや、もちろんそんなのいらないよ。夏休みの間、私は君に勉強を教える。その代わり君は私の持て余した時間をもらってくれる──どう? いい考えだと思わない?」
夏の太陽の下でそうやって笑う彼女の笑顔は、太陽に負けず劣らず眩しかった。
どうせ家にいても勉強は捗らない。だったら──
それから僕は夏休みの間、家族には図書館に行くと嘘をついて実際はデパートの屋上に通った。
夏の屋上は日陰といえども暑かったが、屋上の入り口のドアを少し開けると、中の冷気が漏れ出てちょっとだけ涼むことができた。他にいくらでも涼しく勉強できる場所はあっただろうが、不思議と他の場所に行こうという話にはならなかった。
初めの頃はノートを挟んで向かい合っていた僕らはいつしか隣に並ぶようになり、その距離はだんだんと縮まっていった。ある日彼女の肘と僕の肘が触れ合った時、僕は自分の感情に気がついた。それと同時に、その瞬間を彼女も意識したような気がした。
彼女の方ももしかしたら──
そんな淡い期待を胸に抱いた僕は、夏休みの最後の日、彼女に思いを告げようと決意した。
その日、僕が屋上の扉を開けると彼女は屋上の手すりに片肘をつき、どこか遠くを眺めていた。髪の毛は珍しく下ろしていて、頭には初めて見る麦わら帽子をかぶっている。
「それ、すごく夏って感じですね」
彼女の後ろ姿にそう声をかけると、彼女は振り返って「でしょ?」と笑ってみせた。
「まぁもうすぐ夏も終わっちゃうんだけどね」
再びこちらに背中を向けた彼女の隣に僕も並ぶ。
「これこんなにかわいいのに、どんなに値段下げられてもまだ、今日まで売れ残ってたんだよ。誰かふさわしい人に買ってもらえるといいなって思いながら毎日見守ってたんだけど、それも叶いそうになくてさ。しょうがないから私が買っちゃった」
横目で見る彼女の笑みがいつもと違って寂しそうで、胸がドキっとした。
たった今まで照りつけていた日差しが一瞬雲に隠れ、屋上全体に影が差す。
「その……よくお似合いです」
「お世辞でも嬉しい。ありがと」
「いや、お世辞では──」
沈黙の中では、けたたましく鳴る心臓の音の方が先走って何かを伝えてしまいそうで、僕はすぐに続ける言葉を探した。
だが沈黙を破ったのは彼女が先だった。
「ほんと、あっという間だったね。先生がいいからか、成長も早いしびっくりだよ」
彼女が得意気かつ大げさに頷く。
「それ、自分で言うんですか」
「君が先に言ってくれれば言わずに済んだんだよ」
「すみません。僕が至らないばっかりに」
ここでこうやって冗談を言い合いながら話すのも、今日で最後になる。このデパートは今日の夕方、僕の人生よりもずっと長い歴史に幕を閉じる。
僕にはなぜか、この場所がなくなってしまったら、彼女と会える場所自体もなくなってしまうように思えてしかたがなかった。
「あの……」
やっとの思いで彼女に気持ちを伝えようとした時、僕の声を遮るように彼女が口を開いた。
「今までありがとね、私のわがままに付き合ってくれて」
「わがまま、なんて……僕の方こそ勉強に付き合ってもらって──」
「最後に、君と出会えて良かった」
「え、今なんて……」
思ってもみなかった言葉に、僕は頭を重たい何かで殴られたようだった。今までたくさん考えてきた言葉が散り散りになって、"最後"という言葉の響きだけが取り残された。
「今日でここは最後。だから私たちも今日で最後なんだよ」
彼女は淡々と言う。
「ま、待ってください! このデパートがなくなるからって僕たちも終わりだなんて! ここじゃない別の場所だって──」
「ないよ」
そう言い切った彼女に対して、僕は食い下がろうと横を見て、そして悟った。
こちらを見る彼女の視線はいつものようにからかうでも冗談でもなくて、迷いすらもなくて、僕がどうしたって揺るぎようのない本気の目だった。
「だから、ごめん」
何に対して「ごめん」なのだろうか。僕はまだ何も伝えられてないじゃないか。
たちまち崩れていく表情を隠すためにうつむく。唇を噛みしめ、目頭に力を入れる。
うつむいたまま顔を上げない僕の頭に、彼女が何かを乗せた。
情けない僕の顔を隠すように、麦わら帽子のつばが視界を遮る。
彼女の優しさに気づいて、余計に涙が止まらなくなった。
「あのさ、わがままついでにもうひとつだけ私のわがまま聞いてくれる?」
しゃくり上げる僕の肩に彼女の手がそっと置かれる。
「明日の朝10時、駅前に来て。この帽子、結構気に入ってるんだよね。今日は貸しとくからさ、明日、持ってきてくれないかな」
彼女の表情は分からない。彼女の本心も分からない。
今にもどこか遠くに行ってしまいそうな彼女を繋ぎ止められるのならとの思いで、僕は黙って頷いた。
あのデパートが取り壊されたあと、その跡地に新しいショッピングモールが建った。中の店舗はがらりと代わり、客層もおそらくいくらか若返った。どこを見ても、昔のデパートの面影はまるでない。
当初、このショッピングモールには人の出入りが自由な屋上も設計されていたらしい。だが、直前になってその設計は変更になった。
だから今のモールには屋上はない。あの事故があったから──いや、あれがそうでなかったことくらい僕には嫌というほど理解できた。
きっと彼女は最初からもう決めていた。あそこでずっと最後の日を待っていたのだと思う。
彼女はあの時何を思っていたのだろうか。僕の存在は少しも彼女を止める役には立たなかったのだろうか。
夏が来る度に彼女の笑顔を思い出す。
彼女と過ごした夏は幻だったのではないかと振り返る度に思うが、実家の押し入れの中には今も確かに自分には到底似合わない麦わら帽子が大事にしまってある。
あの日僕はどうするべきだったのか、ずっと答えが出せないままだ。
『朝日の温もり』
朝7時。校門はすでに開いていた。
鍵を開けるのは教頭先生の仕事だと聞いたことがあるが、こんなに早くから学校に来るなんて大変な仕事だなと他人事のように思う。
人のいないグラウンドの横を通り、静まり返った校舎に足を踏み入れた。
普段は通り過ぎるだけの他クラスの靴箱を、今日はさりげなく覗き込んでみる。そして心の中で小さく「よし」と呟いた。
当然と言えば当然だが、靴箱には上履きの背だけが並んでいる。
満足した気持ちで自分の靴箱の前に立った私は、通学用の運動靴を脱ぎ、それと入れ替えに履き古した上履きを足元にパタンと落とした。
教室まで続く廊下を歩いていると、窓の外から鳥の鳴き声が聞こえてきた。
うちの中学校は小高い丘の上にあって、辺りは木に囲まれている。鳥の声が聞こえてきても何ら不思議ではないはずなのに、なんだかすごく新鮮に思えた。
だが、考えてみればそうかもしれない。普段、学校に来た時にはすでにどの教室からも賑やかな声が聞こえてくる。そのため、小さな鳥のさえずりは自分の耳に届く前に容易にかき消されてしまうのだろう。
廊下を歩く自分の足音が、この広い校舎全体に響き渡っているような気がして、何となく気を遣いながら歩いた。
私は朝が苦手だ。夜更かしをして朝起きられなくなる、早寝早起きとは真逆の生活を送っている。
そのため、登校の時間がギリギリになってしまうことも度々あった。そんな時は足音を気にするどころか、同じように登校の遅い生徒と一緒になって廊下を小走りで行くことになる。
そんな私にとって、こんな時間に学校に来るなんてことは入学して以来初めてのことだった。
今朝、めずらしくスッキリ目が覚めたなとスマホを見ると、いつも起きる時間までまだ1時間以上もあった。
いつもならここで二度寝をするところだが、今日はなぜか再び目を閉じてみても眠気が来ず、冴えた頭で、どうせならたまには早く学校に行ってみようかと思い立った。
誰もいないはずの自分の教室に入った私は驚いた。
窓際の席、前から2番目。机に顔を伏せているクラスメイトがいた。クラスメイトと言っても、春にクラスが変わってから1、2度業務連絡のような会話をしたことがあっただろうか、という程度の関わりしかない男子だ。
心の中で、私は少しがっかりしていた。今日一番に登校してきたのは自分だと思っていたからだ。
だが、どうやら彼に先を越されていたらしい。彼の靴箱は確か、クラスの中で左上の方なので、さっきは見落としていたのだろう。
彼は机の上に置いた両腕に頭を乗せ、顔を窓の方に向けている。
「おはよう」と声をかけるべきか迷ったが、どうやら彼は眠っているようだったので、私は彼を起こさないようにそっと自分の席に向かった。
彼の後方で、窓から2列目にある私の席には、窓からの淡い光が差し込んでいる。
静かに腰を下ろして机の上にカバンを乗せると、机に触れた手にじんわりと温かみを感じた。
木製の机が、朝日の温もりを帯びている。
私はふと、彼の真似をしてみたくなった。この温かい机の上で眠ったら、きっと気持ちいいんだろうなと思ったのだ。
カバンを机の横に掛けて彼のように机に顔を伏せる。そして、そっと目を閉じる。
顔を照らす温もりが心地いい。たまには早く学校に来るのも良いものだな。
そんなことを思ってるうちに、私はぼんやりと温かい夢に包まれた。
『あの頃の私へ』
――あなたは今、幸せですか?
ボールペンで書かれた筆圧の強い字。インクが滲んだ跡が、十数年の月日を経てもなお、まだくっきりと残っている。
書きなぐったその1文は、文字の羅列というより感情の羅列という方がふさわしいようで、当時の感情が激しく何かを訴えかけてくるようだった。
私は古い日記帳の1行をそっと指でなぞる。
過去に味わった辛さは、辛かったという事実だけを残し、いつの間にか時間とともに心の中で薄らいでいるものだ。
大人になった私は、そう思うようになった。擦りむいて出来た傷が、1日、また1日と癒えていくように。やがてはその傷痕すら目立たないほどに、見た目はほとんど元通りになる。
でも、その痛みを忘れてしまうことはきっとない。あの日々を思い出すと、今でも確かに心がきりっと痛む。雨の日に古傷が痛むように、痛んだことでその傷の存在を思い出すのだ。
「幸せ……か」
小学生の頃から日記をつけることが習慣になっていた。毎年1冊ずつ買い替えてきた日記帳は、もう今年で二十冊目を数える。
よくこんなに続けられたな、と我ながら思う。
この日記の中には、自分の人生が詰まっている。それは私が、それだけの年月を生き続けてきたという証でもあるのだ。
人生を投げ出してしまいたいと思ったことは、一度や二度じゃない。
あの頃はそう。学校に行けなくて、みんなみたいに普通になれなくて、将来が見えなくて。それが悔しくて、苦しくて、どうしようもなく不安で。息をするたびの苦しさから逃れたいと何度も思った。
でも、そんな日々の先に〝今〟があった。あの時、そういう選択をしていたならば、〝今〟はないのだ。
「あれ、りっちゃん。何してるの?」
後ろから私を名前を呼ぶ声がした。
「うん、ちょっと。押入れ片付けてたら懐かしいものが出てきて、ついいろいろ考えちゃった」
Tシャツの袖で目元を拭う。
「え、泣いてるの!? どうしたの!?」
慌てた様子で、夫が顔を覗き込んでくる。
「ううん。何でもないよ、大丈夫」
「ほんとに?」と尋ねる夫に、「ほんとに」と頷いてみせる。
「ほんとのほんと?」
まるで自分に何か悲しいことがあったみたいに眉を下げる夫の顔を見て、私の頬は自然と緩んだ。
「うん、ほんとのほんと」
「よかった。よしじゃあ、りっちゃん。ご飯にしよ」
そういえばキッチンの方からいい匂いがしている。
「うん、ありがと」
あの頃、この道の先には何も続いてなんかいないと思っていた。
でも——
日記帳を両腕に抱える。
——あの頃の私へ。私は今、幸せな未来を生きています。だから、大丈夫。そのまま進んだその道の先で、私はあなたを待っています。
あの頃の自分をそう言って抱きしめてあげられない代わりに、私はあの頃の記憶を力いっぱい抱きしめた。
『真夜中』
時計の針が深夜2時を回った。
外に出て見上げた空には、ちょうど半分こした月がぼんやりとした雲の合間から見え隠れしている。
「さて、今日は何を作ろうかな」
光の当たらないもう半分の方の月に目を凝らしながらそう呟くと、店主は店に明かりを灯した。
昼間は人通りの多いこの通りも、この時間になると人っ子1人、猫1匹見当たらない。
店の明かりも家の明かりも落ち、耳を澄ませばどこかの誰かの寝息さえも聞こえてくるような静けさに、辺りが包まれている、
街灯が等間隔に照らすレンガ造りの通りを、男は顔も上げずに歩いていた。
頭の奥でまだカンカンカンと踏切の音がしていた。電車が通った風が鼻先を掠めた感覚も、まだ鮮明に残っている。
どこをどう歩いてここまで来たのだろうか。
男はふと足を止めた。明かりを灯しているはずの街灯が1本、男の足元だけを暗くしている。周りを見ても、暗いのはそこだけだ。
ただ電球がきれてしまっただけで、そんなことはよくあることだと頭では理解していても、込み上げてきたものを抑え込めるほど心は冷静ではなかった。八つ当たりの感情を拳に込めて、そのまま電灯の柱にぶつける。
ぶつけた怒りや悔しさや情けなさは、あとからじわじわと痛みとなって増していった。足元の暗闇が滲んでいくのが男には分かった。
そんな時、どこからか風が吹いた。それもただの風ではない。気にする余裕もなかった空腹を否応なしに思い出させるような、おいしい匂いを乗せた風だった。
ぎゅっと両目をかたく瞑り顔を拭った男は、その風に導かれるように再び歩き始めた。
「いらっしゃいませ。お好きなお席にどうぞ」
〝お好きな〟といっても、カウンターだけの店内に椅子は3つだけだ。手前から、丸いクルクルと回る橙色の椅子、低い背もたれのある木製の椅子、そして滑らかな光沢のある古い革製の椅子の順に並んでいる。
虚ろな目を赤くした男性客は一瞬考える素振りをしたあと、入り口に一番近い橙色の椅子に控えめに腰を下ろした。
「この時間、外は冷えたでしょう。これは紅茶なんですが、ほんの少し生姜を入れました。よろしければ」
俯き加減の男性の視界に入るように、店主はそっとカップを差し出す。
立ち上がる湯気をしばらくぼんやりと見つめていた男性だったが、やがておもむろに目の前のカップに手を伸ばした。
強張っていた男性の表情が、紅茶を口に入れた瞬間少しだけ和らいだ。
「何か食べていかれますか」
2杯目の紅茶を注ぎながら、店主は尋ねた。
「……あの……この匂いって」
男性が遠慮がちにカウンターの中を見回す。
「あぁ、これですかね──」
店主は鍋の蓋を開けて、カウンターの向こうに見えるように少し傾けた。
「さっきとったばかりのお出汁です。いい香りでしょう。うちの店の料理は基本、これを使って作ります。よろしければ、これを使って何か軽めのお食事でも作りましょうか」
店主の言葉に一瞬間を置いた後、男性は小さく頷いた。
「何か食べたいものはございますか」
その問いに男性が首を横に振る。そして掠れた声で「おまかせします」と呟いた。
それを聞いた店主の口元に笑みが浮かぶ。
「承知しました」
玉ねぎを切る音が心地よく耳に響いた。冷蔵庫から取り出された卵が、ボウルの中で手際よくかき混ぜられていくのをぼんやり眺める。
紅茶を飲んで身体が温まり、気が抜けたからか、さっきからたびたびお腹が鳴る音がしている。
男は2杯目の紅茶を飲み干し、空腹を紛らわせる。
思えば朝から何も食べていなかった。どうりで腹もへるわけだ。
そうこうしていると、どこからか一風変わった鍋が出てきた。大きなお玉に鍋の取っ手が付けられたような、不思議な作りだ。
その上で煮込まれた具材の上に、溶いた卵がたらりと回し入れられる。そんな店主の手際の良さに見とれていると、あっという間に小ぶりの丼ぶりが目の前に置かれた。
「今日は卵料理の気分でしたので、親子丼にしてみました。熱いので、気をつけてお召し上がりください」
「──いただきます」
輝くような半熟卵に待ちきれず、冷まさないままに口に運ぶ。案の定、口の中で具材を転がして熱さを逃がさなければならなかった。
食べる間、男は一言も喋らなかった。ボロボロと頬を伝う雫がカウンターに落ちるのにも構わず、男はただ口に丼をかき込み続けた。
そんな男を見ても店主は何も言わなかった。ただ、空になっていた男のカップに3杯目の紅茶をそっと注いだ。
「ごちそうさまでした」
そう机に置かれた丼ぶりには、米ひと粒も残っていない。
「本当においしかったです」
「ありがとうございます」
店主が微笑むと、男性も少しぎこちない笑みを返した。
きっと今夜はもう大丈夫だろう。
わずかに上がっていた肩を、店主はひっそりと下ろした。
「また食べに来てもいいですか」
「もちろんです。またお待ちしております」
心からの願いを込めて、店主は微笑んだ。
店を出て、男は再び明かりの消えた街灯の下で足を止めた。そして、頭上の空を仰ぐ。
暗い街灯の向こうに月が見えた。ちょうど半分に割ったような月が小さく浮かんでいる。
こうして月を見上げたのはいつ振りだろうか。街灯の光がないおかげか、月の欠けた部分もうっすらと見てとれた。
男は、店に入る前の出来事をすごく遠くのことのように感じた。
ただ、それと同じくらい、この先の未来もずっと遠くにある気がした。
男は深く長い息を吐く。
身体の中を空っぽにしてしまった男は、先の見えない暗がりの中に、1歩踏み出し歩き始めた。
『後悔』
ふらりと立ち寄ったお店は、異国の匂いがした。
例えようのないエキゾチックな匂い。8年前、空港を出て最初に街を歩いた時に嗅いだ匂いと同じ。
あの時の景色が唐突にまぶたに浮かんだ。
行き交う異国の人々、飛び交う異国の言葉。初めて海外を1人で訪れた私は、活気溢れる市場の中で瞬く間に熱気と人混みに呑まれた。
漠然と憧れていた海外への一人旅を計画したのは、大学最後の夏休みことだ。計画と言ってもほとんど勢いで決めたようなものだったので、旅行に必要な最低限の準備と受験レベルの最低限の英語だけで、私はその国に乗り込んだ。
今にしてみれば、あれは本当に自分のとった行動なのだろうかと疑ってしまうほどだ。きっと若さ故の行動力だったのだろう。
私は目新しいものばかりのその市場を、あちこち夢中で見て回った。
その国独特の暑さと人の多さにもだんだんと慣れた私は、身振り手振りを交えながらのお店の人とのやりとりにも挑戦した。
そうして目についたお店を次々に渡り歩いていた時、反対側から歩いてきた現地の人らしき男と身体がドンとぶつかった。
私は咄嗟に「すみません!」と日本語で謝る。
顔を日除けのような布で覆ったその男は、そんな私に目もくれず早足で人混みの中へ消えていく。
そこに後ろから別の男性の声が飛んできた。
英語ではない現地の言語で、何と言っているかは分からない。だが、明らかに怒っているような強い口調だった。
最初は私に対してではなく、私にぶっかってきた男に対して放っていた言葉だったが、今度は私の方に何かを訴えかけてきた。
私が困惑してるのを見て言葉が通じないと悟ったのか、彼はキュッと口を結ぶと、去っていった男の後を追って全速力で走って行った。
私は訳も分からずただ呆然とそこに立ち尽くした。
二人が消えていった人混みの中をどれくらい見つめていたのか。しばらくすると、ふいに後ろから誰かに肩をポンポンと叩かれた。
振り返ると、そこには後を追っていった方の男性が両肩で息を整えながら立っていた。そして彼は、よく見慣れた財布を私の目の前に掲げた。
それを見てハッとした。すぐに肩に掛けた斜め掛けのバッグに視線をやると、チャックが全開になっている。
やってしまった。そう思った。
海外では珍しくないと聞いていた。だからこそ気をつけているつもりだった。でもいろんなものに夢中になって何度も財布を出し入れする中で、おそらくバッグの口を閉め忘れてしまった。そして、そこを狙われた。
私にぶつかってきたあの男が盗った財布を、この人は走って取り返してきてくれたのだ。
私は男性に何度も頭を下げてお礼を言った。英語と日本語、そして唯一知っていた単語を使って現地語でもお礼を言った。
彼はおそらく"気にしないで"とでも言っていたと思う。そう言いながら、何度も頭を下げる私を見て少し困ったように笑っていた。
狭い店内には、鮮やかな発色のカラフルな雑貨が所狭しと雑多に並んでいる。奥にあるレジのカウンターには店の人の気配はない。
しばらく忘れていた記憶に懐かしさが蘇った後、少し胸がキュッとした。
あの後、彼は私に街を案内してくれた。
1人にしておくには頼りないと思ったのだろう。英語を話せないらしい彼はついてきて、という仕草をすると、言葉がほとんど通じない私をいろんな場所に連れて行ってくれた。
旅行ガイドで見たような有名な観光地はサラッと通り過ぎ、地元の人しか知らないであろうおすすめのレストランや、丘の上から眺める美しい景色を紹介してくれた。
そんな彼にどうお礼をしたらいいか分からなかった私は、バッグから一枚のポストカードを取り出した。地元の空港を出発する前、何気なく買ったポストカード。裏には今も住み続けている故郷の景色。
「プレゼントフォーユー」
そう言って彼に差し出すと、彼は驚いた表情で首を傾げた。
私はもう一度同じように言って、その日のお礼の気持ちを込めてポストカードを手渡した。
それと一緒に、もう何度言ったか分からないほどの"ありがとう"という言葉を彼に告げると、受け取ったポストカードから視線を上げた彼も"ありがとう"と私に笑顔を向けた。
その日私をホテルまで送ってくれた彼は、別れ際、一生懸命私に何かを伝えようとした。何を言っているのか私も必死に読み取ろうとしたが、その戸惑いが表情に出ていたらしい。
それを見た彼は、伝えようとした何かを諦めたような複雑な表情で少しだけ笑った。
そして私たちはそのまま別れた。
ホテルの部屋に入り、ベッドの上に寝そべりながらその日の出来事を思い返していた時、私は彼の連絡先を聞きそびれたことに気づいた。
あぁ、きっと彼はさっきこの事を言いたかったんだ。
そう気づいた時にはもう遅かった。次の日、もう一度会えないかとホテルの前にしばらく立っていてみたり、彼と出会った市場に再び足を運んでみたりした。だが、彼と会うことはもうできなかった。
その事は帰国してからもずっと心残りだった。あの時、連絡先を聞かなかったことを何度も悔やんだ。せめてもう少し現地の言葉を勉強して行けばよかった。何度もそう思った。
店の中をゆっくり一周見て回る。あの時市場で買って、今も家に飾っているのと似たような物が売られていた。店主は現地で買い付けをしているのだろうか。
伝統的な工芸品をいくつか手に取って眺めた私は、せっかくだからと思い、その中の1つを手に会計に向かった。
「すみませーん」
店の奥に向かってそう声を出すと、すぐに「はーい」と男性の声が返ってきた。
「お待たせしました」
流暢な日本語で最初は気づかなかったが、顔立ちからすると日本の人ではないのだろうと思った。どことなくその顔を見たことがあるような気がするのは、きっと彼が昔訪れたあの国にルーツを持つからだろう。
最近はこの辺りでも外国人をよく見かけるようになったが、この人はどうして日本で、しかもこんな田舎でお店を開くことにしたのだろうかとふと考える。
「ありがとうございます」
そう商品を手渡されながら、私は何気なくあの言葉を思い出した。そして、ぼそっと口にした。帰国後に一時期本で勉強して覚えたいくつかの単語も、結局今はこの単語しか覚えていないことに、心の中で少し可笑しくなる。
この発音で合っていただろうかと思いながら、私があの国の言葉で"ありがとう"呟くと、彼はひどく驚いた顔をした。
そのまま彼が私の顔を凝視する。そんな顔を見つめ返しながら、私もハッとした。
「──もしかして」
私は忘れもしない彼の名前を呟く。
それを聞いた彼は一瞬間を置いた後、大きな声を出して笑い始めた。何がそんなに面白いのだろうかと私は困惑する。
「間違いない。確かにあなたはあの時の」
そう言いながらもまだ笑いが込み上げている。
それを不思議に思いながら眺める私に彼が言う。
「あの時もあなたは私をそう呼んでいました。私が何度か口にした私の故郷の街の名前を、あなたはやはり私の名前だと勘違いしていたんですね」
「え……街の、名前?」
ぽかんと口を開ける私に向かって、彼が笑いながら深く頷いた。途端に身体の中が熱くなってきた。同時にこらえられない笑いが私にも込み上げてきた。
彼は私に小さな椅子を持ってくると、昔一緒に飲んだ不思議な味の癖になる飲み物を出してくれた。そしてこれまでの話をしてくれた。
私と別れた後、連絡先を聞けず落ち込んだこと。また会いに行きたかったけど、仕事があって行けなかったこと。あの時、言葉が通じなかったことを悔やんで必死に語学を勉強したこと。私が彼に言った日本語の"ありがとう"から、私が日本人だったと気づいたということ。私がプレゼントしたポストカードから、ここまで辿り着いたこと。
「3年前、やっとあのポストカードの景色を探し当てました。そしてすぐにここを訪れました。この街を歩きながらあなたを探したけど、それはとても難しいことでした」
私はカップに入った飲み物に口をつけながら、そんな彼を想像して小さく頷く。
「でも私はこの街がとても気に入りました。なので去年、ここにお店をオープンしました。大好きな故郷のものを、大好きなこの街の人に紹介したかったので」
彼が店の中を見回しながら嬉しそうに笑う。
「そしたら今日、あなたにまた会うことができました。ずっとあなたに言いたいことがあったんです。ようやく言えます」
私の方に向き直った彼が、私をじっと見る。
「ありがとう」
たった一言。それがよく知った言語だという以前に、私はその言葉の意味が本当の意味で通じた気がした。
胸を詰まらせながら私は静かに首を振る。
「こちらこそ──ありがとう」
そう笑みが溢れた瞬間、遠く異国の地に残した後悔が1つ、私の中にじんわりととけた。