今宵

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『麦わら帽子』


 街の雑踏の中に彼女の姿を見つけた気がした。
 この夏1番の暑さだという今日のこの陽炎のせいだろうか。それとも無意識に夏の景色に彼女の姿を重ね合わせてしまっていたのだろうか。
 人混みに目を凝らしてもう一度彼女の姿を探してみたものの、もうその姿はどこにも見当たらなかった。

 今はもう取り壊されてしまったデパートの屋上。中3の夏休みが始まったばかりの頃、僕はそこで彼女と出会った。
「君、どうしてここに?」
 突然後ろからそう声がした。
「え!?」
 驚いて振り返った僕を見て、彼女はおかしそうに笑みを浮かべる。
 白い無地のTシャツにジーパンで、足元は素足にサンダルというシンプルな格好。長い髪は上の方で無造作にポニーテールをしていて、年はそう離れてなさそうなのに、仕草や話し方のせいかどことなく大人っぽい雰囲気が漂っていた。
「えっと、ちょっと参考書を見に本屋に行った帰り、なんとなくふらっと……」
「へぇー、真面目だね」
「いや、そんなことは……」
 実際僕は受験勉強から逃げ出す言い訳として、大きな書店の入るこのデパートに来たのだ。目的の書店を出たあと、もう少し時間を潰したいと思った僕は本当になんとなくふらっと屋上に足を運んだ。
 僕の答えを聞いた彼女は、明らかに残念そうな表情を浮かべた。
「なぁ〜だ、私はてっきり──まぁいっか」
 "てっきり"何なんだろうか。
 僕はそう思ったものの、彼女の興味はもうすでに他のことに向いているようだった。
 彼女の視線を追うと、このデパートの隣にある別館の周りをいくつもの重機が取り囲んでいるのが目に入った。
「もうあっちは取り壊されるんだ」
 ひとり言ともとれる彼女の言葉に、僕は静かに頷いた。
 僕が生まれる前からずっとあるこのデパートは、夏休みが終わるタイミングで閉店することが決まっている。ここ数年は長いこと経営不振だったとは聞いていたが、いよいよ立ち行かなくなったらしい。
 隣の別館は本館に先駆けて先日閉店したのだが、もう取り壊しが始まるようだ。
 慣れ親しんだ店がなくなってしまうことに胸が痛まないでもないが、そのおかげで閉店セール価格で参考書が買えたのはラッキーだった。
「あとちょっとでこの景色ともお別れかぁ」
 屋上の手すりを両手で掴み、彼女が体を乗り出すように遠くを眺める。小さい頃はこのデパートがこの辺で1番高い建物だったが、いつの間にか近くのビル群にあれよあれよと追い越されてしまった。
「あの……よくここ来るんですか」
「うん。まぁここ最近だけどね」
 そんなにこのデパートに思い入れがあるのだろうか、と僕が考えていると、彼女がふいに口を開いた。
「君、中3? 橋高受験するんだ」
「え、どうして!?」
 なぜ彼女がそれを知っているのだろうか、と驚きが顔に出る。
「だってほらそれ」
 彼女が指差したのは僕が手にしている半透明の袋。さっき参考書と一緒に買った橋高の過去問の表紙が、書店の袋の下に薄っすらと透けて見える。
「あぁ、なるほど。えっと、今の所ですが、そのつもりです」
「そっか。じゃあこれから勉強大変だ──いや、全然余裕って人もいるのか」
「それは……正直言うと、全然なんです。今まで部活ばっかやってたので、橋高は難しいかもって言われてます」
 初対面の人に話すことでもなかったな、と言ってから思った。でも、プライドが邪魔をして友人たちにはこのことを打ち明けそびれていたので、口にしたことで少し心が軽くなった。
「じゃあ提案なんだけど──私が教えてあげようか、勉強」
「え……?」
「私、ちょうどこの夏休みを持て余してたんだよね。こう見えて、教えるの得意なんだ」
「えっと、それはすごくありがたい話ですけど……でもその、僕お小遣いそんなもらってなくて、お金とかは払えないので……」
「いやいや、もちろんそんなのいらないよ。夏休みの間、私は君に勉強を教える。その代わり君は私の持て余した時間をもらってくれる──どう? いい考えだと思わない?」
 夏の太陽の下でそうやって笑う彼女の笑顔は、太陽に負けず劣らず眩しかった。
 どうせ家にいても勉強は捗らない。だったら──

 それから僕は夏休みの間、家族には図書館に行くと嘘をついて実際はデパートの屋上に通った。
 夏の屋上は日陰といえども暑かったが、屋上の入り口のドアを少し開けると、中の冷気が漏れ出てちょっとだけ涼むことができた。他にいくらでも涼しく勉強できる場所はあっただろうが、不思議と他の場所に行こうという話にはならなかった。
 初めの頃はノートを挟んで向かい合っていた僕らはいつしか隣に並ぶようになり、その距離はだんだんと縮まっていった。ある日彼女の肘と僕の肘が触れ合った時、僕は自分の感情に気がついた。それと同時に、その瞬間を彼女も意識したような気がした。
 彼女の方ももしかしたら──
 そんな淡い期待を胸に抱いた僕は、夏休みの最後の日、彼女に思いを告げようと決意した。

 その日、僕が屋上の扉を開けると彼女は屋上の手すりに片肘をつき、どこか遠くを眺めていた。髪の毛は珍しく下ろしていて、頭には初めて見る麦わら帽子をかぶっている。
「それ、すごく夏って感じですね」
 彼女の後ろ姿にそう声をかけると、彼女は振り返って「でしょ?」と笑ってみせた。
「まぁもうすぐ夏も終わっちゃうんだけどね」
 再びこちらに背中を向けた彼女の隣に僕も並ぶ。
「これこんなにかわいいのに、どんなに値段下げられてもまだ、今日まで売れ残ってたんだよ。誰かふさわしい人に買ってもらえるといいなって思いながら毎日見守ってたんだけど、それも叶いそうになくてさ。しょうがないから私が買っちゃった」
 横目で見る彼女の笑みがいつもと違って寂しそうで、胸がドキっとした。
 たった今まで照りつけていた日差しが一瞬雲に隠れ、屋上全体に影が差す。
「その……よくお似合いです」
「お世辞でも嬉しい。ありがと」
「いや、お世辞では──」
 沈黙の中では、けたたましく鳴る心臓の音の方が先走って何かを伝えてしまいそうで、僕はすぐに続ける言葉を探した。
 だが沈黙を破ったのは彼女が先だった。
「ほんと、あっという間だったね。先生がいいからか、成長も早いしびっくりだよ」
 彼女が得意気かつ大げさに頷く。
「それ、自分で言うんですか」
「君が先に言ってくれれば言わずに済んだんだよ」
「すみません。僕が至らないばっかりに」
 ここでこうやって冗談を言い合いながら話すのも、今日で最後になる。このデパートは今日の夕方、僕の人生よりもずっと長い歴史に幕を閉じる。
 僕にはなぜか、この場所がなくなってしまったら、彼女と会える場所自体もなくなってしまうように思えてしかたがなかった。
「あの……」
 やっとの思いで彼女に気持ちを伝えようとした時、僕の声を遮るように彼女が口を開いた。
「今までありがとね、私のわがままに付き合ってくれて」
「わがまま、なんて……僕の方こそ勉強に付き合ってもらって──」
「最後に、君と出会えて良かった」
「え、今なんて……」
 思ってもみなかった言葉に、僕は頭を重たい何かで殴られたようだった。今までたくさん考えてきた言葉が散り散りになって、"最後"という言葉の響きだけが取り残された。
「今日でここは最後。だから私たちも今日で最後なんだよ」
 彼女は淡々と言う。
「ま、待ってください! このデパートがなくなるからって僕たちも終わりだなんて! ここじゃない別の場所だって──」
「ないよ」
 そう言い切った彼女に対して、僕は食い下がろうと横を見て、そして悟った。
 こちらを見る彼女の視線はいつものようにからかうでも冗談でもなくて、迷いすらもなくて、僕がどうしたって揺るぎようのない本気の目だった。
「だから、ごめん」
 何に対して「ごめん」なのだろうか。僕はまだ何も伝えられてないじゃないか。
 たちまち崩れていく表情を隠すためにうつむく。唇を噛みしめ、目頭に力を入れる。
 うつむいたまま顔を上げない僕の頭に、彼女が何かを乗せた。
 情けない僕の顔を隠すように、麦わら帽子のつばが視界を遮る。
 彼女の優しさに気づいて、余計に涙が止まらなくなった。
「あのさ、わがままついでにもうひとつだけ私のわがまま聞いてくれる?」
 しゃくり上げる僕の肩に彼女の手がそっと置かれる。
「明日の朝10時、駅前に来て。この帽子、結構気に入ってるんだよね。今日は貸しとくからさ、明日、持ってきてくれないかな」
 彼女の表情は分からない。彼女の本心も分からない。
 今にもどこか遠くに行ってしまいそうな彼女を繋ぎ止められるのならとの思いで、僕は黙って頷いた。



 あのデパートが取り壊されたあと、その跡地に新しいショッピングモールが建った。中の店舗はがらりと代わり、客層もおそらくいくらか若返った。どこを見ても、昔のデパートの面影はまるでない。
 当初、このショッピングモールには人の出入りが自由な屋上も設計されていたらしい。だが、直前になってその設計は変更になった。
 だから今のモールには屋上はない。あの事故があったから──いや、あれがそうでなかったことくらい僕には嫌というほど理解できた。
 きっと彼女は最初からもう決めていた。あそこでずっと最後の日を待っていたのだと思う。

 彼女はあの時何を思っていたのだろうか。僕の存在は少しも彼女を止める役には立たなかったのだろうか。
 夏が来る度に彼女の笑顔を思い出す。
 彼女と過ごした夏は幻だったのではないかと振り返る度に思うが、実家の押し入れの中には今も確かに自分には到底似合わない麦わら帽子が大事にしまってある。
 あの日僕はどうするべきだったのか、ずっと答えが出せないままだ。

8/11/2024, 8:58:36 PM