『あの頃の私へ』
――あなたは今、幸せですか?
ボールペンで書かれた筆圧の強い字。インクが滲んだ跡が、十数年の月日を経てもなお、まだくっきりと残っている。
書きなぐったその1文は、文字の羅列というより感情の羅列という方がふさわしいようで、当時の感情が激しく何かを訴えかけてくるようだった。
私は古い日記帳の1行をそっと指でなぞる。
過去に味わった辛さは、辛かったという事実だけを残し、いつの間にか時間とともに心の中で薄らいでいるものだ。
大人になった私は、そう思うようになった。擦りむいて出来た傷が、1日、また1日と癒えていくように。やがてはその傷痕すら目立たないほどに、見た目はほとんど元通りになる。
でも、その痛みを忘れてしまうことはきっとない。あの日々を思い出すと、今でも確かに心がきりっと痛む。雨の日に古傷が痛むように、痛んだことでその傷の存在を思い出すのだ。
「幸せ……か」
小学生の頃から日記をつけることが習慣になっていた。毎年1冊ずつ買い替えてきた日記帳は、もう今年で二十冊目を数える。
よくこんなに続けられたな、と我ながら思う。
この日記の中には、自分の人生が詰まっている。それは私が、それだけの年月を生き続けてきたという証でもあるのだ。
人生を投げ出してしまいたいと思ったことは、一度や二度じゃない。
あの頃はそう。学校に行けなくて、みんなみたいに普通になれなくて、将来が見えなくて。それが悔しくて、苦しくて、どうしようもなく不安で。息をするたびの苦しさから逃れたいと何度も思った。
でも、そんな日々の先に〝今〟があった。あの時、そういう選択をしていたならば、〝今〟はないのだ。
「あれ、りっちゃん。何してるの?」
後ろから私を名前を呼ぶ声がした。
「うん、ちょっと。押入れ片付けてたら懐かしいものが出てきて、ついいろいろ考えちゃった」
Tシャツの袖で目元を拭う。
「え、泣いてるの!? どうしたの!?」
慌てた様子で、夫が顔を覗き込んでくる。
「ううん。何でもないよ、大丈夫」
「ほんとに?」と尋ねる夫に、「ほんとに」と頷いてみせる。
「ほんとのほんと?」
まるで自分に何か悲しいことがあったみたいに眉を下げる夫の顔を見て、私の頬は自然と緩んだ。
「うん、ほんとのほんと」
「よかった。よしじゃあ、りっちゃん。ご飯にしよ」
そういえばキッチンの方からいい匂いがしている。
「うん、ありがと」
あの頃、この道の先には何も続いてなんかいないと思っていた。
でも——
日記帳を両腕に抱える。
——あの頃の私へ。私は今、幸せな未来を生きています。だから、大丈夫。そのまま進んだその道の先で、私はあなたを待っています。
あの頃の自分をそう言って抱きしめてあげられない代わりに、私はあの頃の記憶を力いっぱい抱きしめた。
5/24/2024, 8:27:57 PM