『後悔』
ふらりと立ち寄ったお店は、異国の匂いがした。
例えようのないエキゾチックな匂い。8年前、空港を出て最初に街を歩いた時に嗅いだ匂いと同じ。
あの時の景色が唐突にまぶたに浮かんだ。
行き交う異国の人々、飛び交う異国の言葉。初めて海外を1人で訪れた私は、活気溢れる市場の中で瞬く間に熱気と人混みに呑まれた。
漠然と憧れていた海外への一人旅を計画したのは、大学最後の夏休みことだ。計画と言ってもほとんど勢いで決めたようなものだったので、旅行に必要な最低限の準備と受験レベルの最低限の英語だけで、私はその国に乗り込んだ。
今にしてみれば、あれは本当に自分のとった行動なのだろうかと疑ってしまうほどだ。きっと若さ故の行動力だったのだろう。
私は目新しいものばかりのその市場を、あちこち夢中で見て回った。
その国独特の暑さと人の多さにもだんだんと慣れた私は、身振り手振りを交えながらのお店の人とのやりとりにも挑戦した。
そうして目についたお店を次々に渡り歩いていた時、反対側から歩いてきた現地の人らしき男と身体がドンとぶつかった。
私は咄嗟に「すみません!」と日本語で謝る。
顔を日除けのような布で覆ったその男は、そんな私に目もくれず早足で人混みの中へ消えていく。
そこに後ろから別の男性の声が飛んできた。
英語ではない現地の言語で、何と言っているかは分からない。だが、明らかに怒っているような強い口調だった。
最初は私に対してではなく、私にぶっかってきた男に対して放っていた言葉だったが、今度は私の方に何かを訴えかけてきた。
私が困惑してるのを見て言葉が通じないと悟ったのか、彼はキュッと口を結ぶと、去っていった男の後を追って全速力で走って行った。
私は訳も分からずただ呆然とそこに立ち尽くした。
二人が消えていった人混みの中をどれくらい見つめていたのか。しばらくすると、ふいに後ろから誰かに肩をポンポンと叩かれた。
振り返ると、そこには後を追っていった方の男性が両肩で息を整えながら立っていた。そして彼は、よく見慣れた財布を私の目の前に掲げた。
それを見てハッとした。すぐに肩に掛けた斜め掛けのバッグに視線をやると、チャックが全開になっている。
やってしまった。そう思った。
海外では珍しくないと聞いていた。だからこそ気をつけているつもりだった。でもいろんなものに夢中になって何度も財布を出し入れする中で、おそらくバッグの口を閉め忘れてしまった。そして、そこを狙われた。
私にぶつかってきたあの男が盗った財布を、この人は走って取り返してきてくれたのだ。
私は男性に何度も頭を下げてお礼を言った。英語と日本語、そして唯一知っていた単語を使って現地語でもお礼を言った。
彼はおそらく"気にしないで"とでも言っていたと思う。そう言いながら、何度も頭を下げる私を見て少し困ったように笑っていた。
狭い店内には、鮮やかな発色のカラフルな雑貨が所狭しと雑多に並んでいる。奥にあるレジのカウンターには店の人の気配はない。
しばらく忘れていた記憶に懐かしさが蘇った後、少し胸がキュッとした。
あの後、彼は私に街を案内してくれた。
1人にしておくには頼りないと思ったのだろう。英語を話せないらしい彼はついてきて、という仕草をすると、言葉がほとんど通じない私をいろんな場所に連れて行ってくれた。
旅行ガイドで見たような有名な観光地はサラッと通り過ぎ、地元の人しか知らないであろうおすすめのレストランや、丘の上から眺める美しい景色を紹介してくれた。
そんな彼にどうお礼をしたらいいか分からなかった私は、バッグから一枚のポストカードを取り出した。地元の空港を出発する前、何気なく買ったポストカード。裏には今も住み続けている故郷の景色。
「プレゼントフォーユー」
そう言って彼に差し出すと、彼は驚いた表情で首を傾げた。
私はもう一度同じように言って、その日のお礼の気持ちを込めてポストカードを手渡した。
それと一緒に、もう何度言ったか分からないほどの"ありがとう"という言葉を彼に告げると、受け取ったポストカードから視線を上げた彼も"ありがとう"と私に笑顔を向けた。
その日私をホテルまで送ってくれた彼は、別れ際、一生懸命私に何かを伝えようとした。何を言っているのか私も必死に読み取ろうとしたが、その戸惑いが表情に出ていたらしい。
それを見た彼は、伝えようとした何かを諦めたような複雑な表情で少しだけ笑った。
そして私たちはそのまま別れた。
ホテルの部屋に入り、ベッドの上に寝そべりながらその日の出来事を思い返していた時、私は彼の連絡先を聞きそびれたことに気づいた。
あぁ、きっと彼はさっきこの事を言いたかったんだ。
そう気づいた時にはもう遅かった。次の日、もう一度会えないかとホテルの前にしばらく立っていてみたり、彼と出会った市場に再び足を運んでみたりした。だが、彼と会うことはもうできなかった。
その事は帰国してからもずっと心残りだった。あの時、連絡先を聞かなかったことを何度も悔やんだ。せめてもう少し現地の言葉を勉強して行けばよかった。何度もそう思った。
店の中をゆっくり一周見て回る。あの時市場で買って、今も家に飾っているのと似たような物が売られていた。店主は現地で買い付けをしているのだろうか。
伝統的な工芸品をいくつか手に取って眺めた私は、せっかくだからと思い、その中の1つを手に会計に向かった。
「すみませーん」
店の奥に向かってそう声を出すと、すぐに「はーい」と男性の声が返ってきた。
「お待たせしました」
流暢な日本語で最初は気づかなかったが、顔立ちからすると日本の人ではないのだろうと思った。どことなくその顔を見たことがあるような気がするのは、きっと彼が昔訪れたあの国にルーツを持つからだろう。
最近はこの辺りでも外国人をよく見かけるようになったが、この人はどうして日本で、しかもこんな田舎でお店を開くことにしたのだろうかとふと考える。
「ありがとうございます」
そう商品を手渡されながら、私は何気なくあの言葉を思い出した。そして、ぼそっと口にした。帰国後に一時期本で勉強して覚えたいくつかの単語も、結局今はこの単語しか覚えていないことに、心の中で少し可笑しくなる。
この発音で合っていただろうかと思いながら、私があの国の言葉で"ありがとう"呟くと、彼はひどく驚いた顔をした。
そのまま彼が私の顔を凝視する。そんな顔を見つめ返しながら、私もハッとした。
「──もしかして」
私は忘れもしない彼の名前を呟く。
それを聞いた彼は一瞬間を置いた後、大きな声を出して笑い始めた。何がそんなに面白いのだろうかと私は困惑する。
「間違いない。確かにあなたはあの時の」
そう言いながらもまだ笑いが込み上げている。
それを不思議に思いながら眺める私に彼が言う。
「あの時もあなたは私をそう呼んでいました。私が何度か口にした私の故郷の街の名前を、あなたはやはり私の名前だと勘違いしていたんですね」
「え……街の、名前?」
ぽかんと口を開ける私に向かって、彼が笑いながら深く頷いた。途端に身体の中が熱くなってきた。同時にこらえられない笑いが私にも込み上げてきた。
彼は私に小さな椅子を持ってくると、昔一緒に飲んだ不思議な味の癖になる飲み物を出してくれた。そしてこれまでの話をしてくれた。
私と別れた後、連絡先を聞けず落ち込んだこと。また会いに行きたかったけど、仕事があって行けなかったこと。あの時、言葉が通じなかったことを悔やんで必死に語学を勉強したこと。私が彼に言った日本語の"ありがとう"から、私が日本人だったと気づいたということ。私がプレゼントしたポストカードから、ここまで辿り着いたこと。
「3年前、やっとあのポストカードの景色を探し当てました。そしてすぐにここを訪れました。この街を歩きながらあなたを探したけど、それはとても難しいことでした」
私はカップに入った飲み物に口をつけながら、そんな彼を想像して小さく頷く。
「でも私はこの街がとても気に入りました。なので去年、ここにお店をオープンしました。大好きな故郷のものを、大好きなこの街の人に紹介したかったので」
彼が店の中を見回しながら嬉しそうに笑う。
「そしたら今日、あなたにまた会うことができました。ずっとあなたに言いたいことがあったんです。ようやく言えます」
私の方に向き直った彼が、私をじっと見る。
「ありがとう」
たった一言。それがよく知った言語だという以前に、私はその言葉の意味が本当の意味で通じた気がした。
胸を詰まらせながら私は静かに首を振る。
「こちらこそ──ありがとう」
そう笑みが溢れた瞬間、遠く異国の地に残した後悔が1つ、私の中にじんわりととけた。
5/16/2024, 9:56:45 AM