今宵

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『真夜中』


 時計の針が深夜2時を回った。
 外に出て見上げた空には、ちょうど半分こした月がぼんやりとした雲の合間から見え隠れしている。
「さて、今日は何を作ろうかな」
 光の当たらないもう半分の方の月に目を凝らしながらそう呟くと、店主は店に明かりを灯した。

 昼間は人通りの多いこの通りも、この時間になると人っ子1人、猫1匹見当たらない。
 店の明かりも家の明かりも落ち、耳を澄ませばどこかの誰かの寝息さえも聞こえてくるような静けさに、辺りが包まれている、
 街灯が等間隔に照らすレンガ造りの通りを、男は顔も上げずに歩いていた。
 頭の奥でまだカンカンカンと踏切の音がしていた。電車が通った風が鼻先を掠めた感覚も、まだ鮮明に残っている。
 どこをどう歩いてここまで来たのだろうか。
 男はふと足を止めた。明かりを灯しているはずの街灯が1本、男の足元だけを暗くしている。周りを見ても、暗いのはそこだけだ。
 ただ電球がきれてしまっただけで、そんなことはよくあることだと頭では理解していても、込み上げてきたものを抑え込めるほど心は冷静ではなかった。八つ当たりの感情を拳に込めて、そのまま電灯の柱にぶつける。
 ぶつけた怒りや悔しさや情けなさは、あとからじわじわと痛みとなって増していった。足元の暗闇が滲んでいくのが男には分かった。
 そんな時、どこからか風が吹いた。それもただの風ではない。気にする余裕もなかった空腹を否応なしに思い出させるような、おいしい匂いを乗せた風だった。
 ぎゅっと両目をかたく瞑り顔を拭った男は、その風に導かれるように再び歩き始めた。

「いらっしゃいませ。お好きなお席にどうぞ」
〝お好きな〟といっても、カウンターだけの店内に椅子は3つだけだ。手前から、丸いクルクルと回る橙色の椅子、低い背もたれのある木製の椅子、そして滑らかな光沢のある古い革製の椅子の順に並んでいる。
 虚ろな目を赤くした男性客は一瞬考える素振りをしたあと、入り口に一番近い橙色の椅子に控えめに腰を下ろした。
「この時間、外は冷えたでしょう。これは紅茶なんですが、ほんの少し生姜を入れました。よろしければ」
 俯き加減の男性の視界に入るように、店主はそっとカップを差し出す。
 立ち上がる湯気をしばらくぼんやりと見つめていた男性だったが、やがておもむろに目の前のカップに手を伸ばした。
 強張っていた男性の表情が、紅茶を口に入れた瞬間少しだけ和らいだ。
「何か食べていかれますか」
 2杯目の紅茶を注ぎながら、店主は尋ねた。
「……あの……この匂いって」
 男性が遠慮がちにカウンターの中を見回す。
「あぁ、これですかね──」
 店主は鍋の蓋を開けて、カウンターの向こうに見えるように少し傾けた。
「さっきとったばかりのお出汁です。いい香りでしょう。うちの店の料理は基本、これを使って作ります。よろしければ、これを使って何か軽めのお食事でも作りましょうか」
 店主の言葉に一瞬間を置いた後、男性は小さく頷いた。
「何か食べたいものはございますか」
 その問いに男性が首を横に振る。そして掠れた声で「おまかせします」と呟いた。
 それを聞いた店主の口元に笑みが浮かぶ。
「承知しました」

 玉ねぎを切る音が心地よく耳に響いた。冷蔵庫から取り出された卵が、ボウルの中で手際よくかき混ぜられていくのをぼんやり眺める。
 紅茶を飲んで身体が温まり、気が抜けたからか、さっきからたびたびお腹が鳴る音がしている。
 男は2杯目の紅茶を飲み干し、空腹を紛らわせる。
 思えば朝から何も食べていなかった。どうりで腹もへるわけだ。
 そうこうしていると、どこからか一風変わった鍋が出てきた。大きなお玉に鍋の取っ手が付けられたような、不思議な作りだ。
 その上で煮込まれた具材の上に、溶いた卵がたらりと回し入れられる。そんな店主の手際の良さに見とれていると、あっという間に小ぶりの丼ぶりが目の前に置かれた。
「今日は卵料理の気分でしたので、親子丼にしてみました。熱いので、気をつけてお召し上がりください」
「──いただきます」
 輝くような半熟卵に待ちきれず、冷まさないままに口に運ぶ。案の定、口の中で具材を転がして熱さを逃がさなければならなかった。
 食べる間、男は一言も喋らなかった。ボロボロと頬を伝う雫がカウンターに落ちるのにも構わず、男はただ口に丼をかき込み続けた。
 そんな男を見ても店主は何も言わなかった。ただ、空になっていた男のカップに3杯目の紅茶をそっと注いだ。

「ごちそうさまでした」
 そう机に置かれた丼ぶりには、米ひと粒も残っていない。
「本当においしかったです」
「ありがとうございます」
 店主が微笑むと、男性も少しぎこちない笑みを返した。
 きっと今夜はもう大丈夫だろう。
 わずかに上がっていた肩を、店主はひっそりと下ろした。
「また食べに来てもいいですか」
「もちろんです。またお待ちしております」
 心からの願いを込めて、店主は微笑んだ。

 店を出て、男は再び明かりの消えた街灯の下で足を止めた。そして、頭上の空を仰ぐ。
 暗い街灯の向こうに月が見えた。ちょうど半分に割ったような月が小さく浮かんでいる。
 こうして月を見上げたのはいつ振りだろうか。街灯の光がないおかげか、月の欠けた部分もうっすらと見てとれた。
 男は、店に入る前の出来事をすごく遠くのことのように感じた。
 ただ、それと同じくらい、この先の未来もずっと遠くにある気がした。
 男は深く長い息を吐く。
 身体の中を空っぽにしてしまった男は、先の見えない暗がりの中に、1歩踏み出し歩き始めた。

5/17/2024, 10:03:48 PM