『泣かないで』
妻が飲酒運転の車にはねられた。
電話口で警察官にそう告げられた俺は、急ぎの仕事を投げ出し、すぐに彼女が運ばれた病院へと向かった。
「——残念ですが」
だが駆けつける間もなく、彼女は死んだ。医師が言うには、おそらく即死だったという。
その瞬間、目の前が真っ暗になった。
「ねぇパパ、ママどこ?」
クローゼットの奥から引っ張りだして着てきた喪服の裾を、息子の小さな手が引っ張る。
無邪気に尋ねる息子のハルキを見て、葬儀に参列した人々からいたたまれないというような視線が飛んでくる。
「ハルくん、パパは今忙しいからばぁばとお外で遊ぼうか」
俺と、隣に座る義母に気を遣ったのだろう。訃報を聞いて遠方から駆けつけた母が息子の手を引いて外に向かう。
その姿を俺は虚ろな目で捉えた。
あれは……春に入園式で来た服か。
今さらながら息子の格好に気がつく。そして、その時の記憶が蘇った。
「ねぇ何してるの! 早くして!」
「うん、あとちょっと。もうすぐカメラの充電終わるから……」
「え!? まだ充電なんかしてるの!? 式、遅刻しちゃうよ!」
入園初日の朝からそんなやり取りで妻に怒られながらも、どうにか式には間に合った。
ついこの前まで赤ん坊だった息子が、照れながらも大人の顔負けの小さなスーツ姿で歩く様子を見て、感動の涙が止まらなかったのは妻ではなく俺の方だった。
「ちょっと、しっかりしてよ」と小声で呟く妻に、「ごめん」と鼻水まじりの声で返す。
そんな俺を見て、妻は半分呆れながらも綺麗にアイロンのかかった淡い水色のハンカチを俺に差し出した。
「ありがど」
そのハンカチで涙を拭きながら撮った息子のビデオは、ピントも中心もめちゃくちゃで、後で見返した時に妻からこっぴどく叱られることになった。
その日の帰り道、彼女が言った。
「——ほんと、よかった」
「うん、最高の入園式だった。こんなふうにあっという間に大きくなっていくんだな」
「それはもちろんそうだけど、それだけじゃなくてさ」
「あ、朝ギリギリだったから? その件は本当に……」
「もう、そうじゃなくて! 保育園のこと、あらためてここに入れて本当に良かったなって」
「あぁうん、だね」
家計のために共働きをすると決めていた俺達にとって、息子の通う保育園がなかなか決まらないことは、とても深刻な問題だった。
このまま預け先が決まらなければ、どちらかが仕事をセーブしなければならないと話し始めた矢先、少し遠くの保育園に空きが出た。
正直、本当はもっと家やお互いの職場に近いところが良かった。だが、贅沢は言っていられない。
話し合った末、きっと大変なことも多いだろうけど、2人でどうにか協力してそこに通わせようと決めた。
曜日ごとに保育園にお迎えに行く決まりを作ったはいいものの、それを実現するのはなかなかに大変だった。
上司や同僚に頭を下げて早く帰らせてもらう代わりに、持ち帰ることの出来る仕事は持ち帰って、家で仕事をした。
だが夜がどんなに遅かったとしても、朝も早く起きなければ仕事に間に合わない。
仕事復帰直後にも関わらず同じく忙しそうな妻も同様に、心も身体もギリギリの日々がずっと続いていた。
『今日どうしても仕事で抜けられなくて、お迎え間に合いそうにないです。申し訳ないけど、代わりに頼めませんか』
妻が亡くなった当日、俺は彼女にメッセージを送った。
『そんなこと急に言われても、私だって困るんだけど』
そう言いながらも、彼女が俺の代わりにハルキを迎えに行ってくれることになった。
そして、その道中で彼女は事故に合った。
どうして妻が——
何度そう問いかけても、妻は帰ってこない。
加害者への深い憎しみと同時に、俺は自分自身も許せなかった。
自分が迎えに行けば彼女は死なずに済んだ。まだ小さな息子から母親を奪ったのは俺自身なのだ。
あの瞬間から、世界はずっと暗闇の中にある。
隣ですすり泣く義母に掛ける言葉もなく、自分は泣くことも許されない。
悲しみと憤りに包まれた葬儀場で、手を引かれ遠ざかる息子の背中に視線を送る。
これからもっと大きくなるだろうあの背中を、妻はもう見られない。誰よりも見たかったはずなのに。
そう思うともう息子の方を見ることも出来なかった。俯いて感情を押し殺すように唇を噛みしめる。
音も、光も、何もかも届かない。
いっそこのままそんな場所に閉じこもってしまいたい。
そう思った瞬間、目の前に一筋の光が現れた。
驚いて顔を上げると、そこには心配そうに顔を歪めた息子の姿があった。
「パパ、泣かないで」
自分の方こそ泣きそうな顔をした息子がこっちを見て言う。
「ほら、泣かないで」
もう一度そう言った息子の手には、水色のハンカチが握りしめられていた。入園式で妻が貸してくれたあの淡い水色のハンカチ。
ハンカチを差し出す息子に、妻の面影が重なる。
必死に堪えた涙も、もう止めることが出来なかった。
「ありがとう」
そう言ってせきを切ったように泣き出した俺を見て、息子も声を上げて泣き始めた。
俺はその泣きじゃくる小さな体をきつく抱きしめた。それは情けない父親に出来る精一杯のことだった。
「ハルキ、ごめんな。ママとはもう会えないんだ。でもね」
息子の頬を伝う涙を妻のハンカチで拭う。
「でも、もうパパ、泣かないから」
真っ暗な闇の中を照らすこの大切な光を守れるのは、もう俺しかいない。妻が残したこの優しさを、俺が守るのだ。
12/1/2024, 10:46:12 AM