『夫婦』
「——はい、全て問題なくご記入いただけてますね。では、こちらを受理いたします」
カウンター越しに見えるのは初々しく微笑み合うカップル。そしてたった今、この瞬間から彼らは夫婦になる。
「おめでとうございます」
私がそう言うと、2人は息ぴったりに「ありがとうございます」とこれでもかというほどに幸せな笑顔をこちらに向けた。
手を繋ぎ立ち去る彼らの背を確認すると同時に、私は次のカップルを呼び出す番号を画面に表示させた。
世界中どこの国でも、単なる語呂合わせで験を担いだりするものなのだろうか。
少なくとも、11月22日で〝いい夫婦〟なんてものは日本語でしか通じないわけで、世界中でこの日をわざわざ選んで結婚するのはおそらく日本人だけだろう。
縁起の良い日に結婚したいというならばまだ分かる。現に、この窓口がいつもより忙しくなる大安などの吉日は、大昔から今に至るまでの長きに渡って人々に受け継がれてきたもので、現代でも冠婚葬祭を中心に重要とされている。
一方、それに比べたら〝いい夫婦の日〟などと決められたのはごくごく最近のことだ。大方、誰かが思いつきで勝手に決めただけの1日だろう。
だが、私が何を思おうと、毎年11月22日になればこうして忙しさを極めるのが現実なのだ。
「おめでとうございます」
これで今日何度目か数えるのも気が遠くなるほど、今朝から何度もこの言葉を口にしている。
本当のところは、それを言う決まりがあるわけではない。単に手続きが終われば、「お疲れ様でした」で済ましてしまうことも出来る。
だが、私はこう口にすることを自分の中で決めていた。ここに異動になって以来ずっとそうしてきたのだ。
だから、今さらそれを変えるのはプライドが許さない。
——本当は私だって……
顔には何も出さない。私の今日がどんな日であったとしても、彼らにとっては今日という1日が最高の日でなければならない。
「おめでとうございます」
そう言って何度だって繰り返すこの言葉は、おそらく彼らにとっては人生でたった1度の言葉になるのだ。
「三橋さん、お昼行ってきて。僕、代わるよ」
「あ、はい。ありがとうございます」
そう言えば、この早瀬さんも数年前の今日結婚したのではなかっただろうか。きっと今日の夜はあの綺麗な奥さんと結婚記念のお祝いをするのだろう。
思えば、今日のような分かりやすい日に結婚をすれば、結婚記念日を忘れて大喧嘩——みたいな修羅場も世の中から減るのかもしれない。
そんなことを考えながら階段を登り、食堂のある階まで上がる。
今日は普段より遅い昼食になってしまったので、手頃な値段でいつも人気な日替わり定食は当然のように売り切れていた。
割高にはなるが、仕方なく他のメニューを注文する。
弁当にすれば少し食費が浮くのだろう。だが、弁当を1人分だけ作る気にはなれない。
昔はよく弁当を作っていた。私の分と、彼の分の2つ。
彼が転勤して今のように遠距離になってからは、私の分も作らなくなった。あれからもう3年が経つ。
私だってこう捻くれたくて捻くれているわけではない。あの頃はまだ素直に人の幸せを喜ぶことが出来た。
当時だって、彼と付き合ってからもう5年は経っていたはずだ。なかなかの長い付き合いだった。
だが、すでに2人で一緒に暮らしていて、結婚はもうすぐそこだと思っていた。そんなふうだから、心にはまだどこか余裕があったのだと思う。
「転、勤……?」
「うん。最低でも2年はこっちに戻らないと思う」
ある日、彼は私にそう話を切り出した。その時の私にとって、彼の言う2年という月日は途方もなく思えた。
「——私は……?」
「それは、もちろん瑠衣の仕事のこともあるし、瑠衣の決断を尊重したい」
本当はその時、私は彼の意見が聞きたかった。実際にどうするかは別として、彼に「一緒に付いてきてほしい。だから結婚しよう」と言って欲しかった。
「仕事は……辞めたくない」
「——分かった……うん、そうだよね」
彼はそう小さく微笑むと、カバン1つの荷物だけを手に、ここから遠く離れた場所に行ってしまった。
そうして私が〝結婚〟の文字を自分から口にすることが出来ないうちに、彼との遠距離生活が始まった。
それからは2、3か月に1度、お互いに交互に会いに行くようになった。前回は私が彼の住む街に行った。お盆休みを使って行ったので、8月に会ったのが最後だ。
久しぶりに会うとはいえ何か特別なことをするわけでもなく、大抵はお互いの家で近況報告をしながらご飯を食べて終わる。
この前はちょうどお盆休みだったので、珍しく私が彼の家に2泊することになり、久しぶりに2人で映画を観て、外食もした。
どうせならと彼が予約してくれたのは検索した写真通りの雰囲気のいいレストランで、私は少し気合いを入れておしゃれをしてみた。
ただ結局は、雰囲気がいいのはレストランだけで、私達の雰囲気はいつもと何1つ変わらなかった。
そんなシチュエーションでさえ話に上がらないのだから、私はもう彼の口から〝結婚〟という言葉を聞くことを半ば諦めかけている。
だからと言って、誰かの結婚を妬むのは間違っていると分かっている。この仕事なら尚更、公私ははっきりさせなければならない。
だから私は今日も淡々と祝福を口にするのだ。
私は食べ終えた後の食器を手に立ち上がり、午後の業務へと向かった。
午前のうちにピークは越えたものの、やはり午後も婚姻届の受理を待つ列が途絶えることはなかった。
そしてこういう日は特に、閉庁間際にも滑り込んでくる人も多い。
「すみません!」
急ぐ足音と共に聞こえた声に、ほら来た、と思いながら顔を上げる。
「まだ間に合いますか!?」
この辺りで着るにはまだ早いダウンコートのせいで額に大粒の汗を浮かべ、どこから走ってきたのか大きく肩で息をしている。
「——なんで……」
カウンターに置かれた書類と、目の前に見る久しぶりの愛する人の顔を見比べる。
「だって今日は〝いい夫婦の日〟でしょ。僕は瑠衣といい夫婦になりたい。だから……この婚姻届を受理してください!」
そう勢い良く頭を下げる彼に圧倒されて、私は言葉に詰まった。
だって、今まで1度もそんな素振り見せなかったじゃん。しかもよりによって今日なの? もっと良い日は他にいくらでも……
思うことはたくさんあった。
でも、言いたいことは1つしかない。
「——はい」
私の返事を待つように、いつの間にか沈黙が流れていたその場に大きな拍手と歓声が沸き上がった。
嬉しさと恥ずかしさが入り混じって、顔が火照っていくのが分かる。
「あの、三橋さん」
まだあちこちにざわめきが残る中、後ろから声がした。
「え、あ、はい」
振り返ると早瀬さんがとぼけたような顔でこちらを見ている。
「もうすぐ本日の受付終了時間なんですが……見たところそちらの婚姻届には不備があるようです」
そう言われてハッとした。すぐさま腕時計で時間を確認する。
今日付で受理するには、あと10分も残されていない。
「ここは私が代わりますので、三橋さんはそちらの方の対応をお任せしてもいいですか」
およそ半分が空白のままの婚姻届を手に、彼が丸い目をキョロキョロさせながらこちらの様子をうかがっている。
「ありがとうございます!」
カウンターを抜け出して彼の手を取った私は、記入台に向かって駆け出す。
「はい、全て問題ないようです。ではこちらを受理いたします」
早瀬さんの言葉に、彼が胸を撫で下ろすのが隣にいて分かった。
手元から顔を上げた早瀬さんがこちらに微笑む。
「おめでとうございます」
何度も繰り返したうちの1つだったはずのその言葉が、今の瞬間、私達にとってたった1度だけの言葉になった。
私が少し視線を横に向けると、彼が優しく頷いた。
そして、私達は揃って再び前を向いた。
「——ありがとうございます」
11/22/2024, 8:17:34 PM