今宵

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4/8/2024, 6:58:01 PM

『これからも、ずっと』


 それは、お昼ご飯を食べ終えた私が休憩室の時計を眺めながらぼんやりしていた時のことだった。
「畑野さんって、音楽やってたんですか?」
「え!?」と咄嗟に振り返ると、同僚の斎藤さんが後ろに立っていた。肩までの茶髪を傾けた彼女がこっちを見る。
「えっと……どうしてですか?」
「いやぁそれ、ちょくちょく見かけるなと思って」
 斎藤さんが机の上に置かれた私の両手に視線を移した。
 何を言ってるのか分からないといった表情をした私に、彼女が続ける。
「それって、ピアノでこの曲弾いてるんですよね? 私はちっちゃい頃にほんの少し習ってた程度なので詳しくないですけど、畑野さんってもしかしてピアノすごくお上手なんじゃないですか?」
 私はハッとした。
 私が事務として勤めるこの整骨院では、BGMにクラシックのCDを流している。仕事中は業務に集中しているためおそらくこんなことはしてないはずだが、気が抜けている休憩中には曲に合わせて勝手に指が動いていたらしい。それもおそらく今日が初めてではなく、度々。
「そんなそんな。私も昔ピアノやってだけです。今はもう全然弾いてないですし。今のも無意識でした。すみません」
 申し訳ない気持ちといたたまれない気持ちで頭を下げる。
「何で謝るんですか。すごいことじゃないですか。私なんて指が動くどころかこの曲の名前すら覚えてないんですよ。ピアノ習わせてくれた親には申し訳ないくらいです」
 斎藤さんはそう言って苦笑いを浮かべた。
 そこに、「何の話?」と院長が休憩室に入ってきた。
「畑野さんが昔、ピアノを習ってたって話ですよー」
 斎藤さんが答える。「そうなの?」と興味を示す視線が私の方に飛んでくる。
 そんな状況から今すぐにでも逃げ出したくてたまらない私の頭に、思い出したくない記憶が蘇ってきた。

「──ダメだった……」
 そう両親に告げたあの日、私はピアノをやめた。高校3年生の夏休みのことだ。
 3歳からピアノを習い始めた私は、すぐに音楽に夢中になった。毎日何時間もピアノの前に座り、友達と遊ぶよりピアノを弾いてる時間の方がずっと長い幼少期を過ごした。
 だんだんと上達する自分が誇らしくて、家族やうちを訪れた人々には積極的に演奏を披露した。あの頃の私は、みんなに褒めてもらえるのがたまらなく嬉しかったのだ。
 小さい頃の私はピアノのことがとにかく大好きで、その分上達も早かった。小学校低学年の時に初めて参加したコンクールでも賞をとったし、それからも小さな大会ばかりとはいえ、コンクール上位の常連組の一人となった。そして、将来の夢もピアニストになった。
 ただ、そんな日は長く続かない。
 歳を重ねるごとになかなか思うように上達しなくなり、中学生の頃には音楽を楽しめなくなっていた。成長しないから楽しくないのか、楽しめないから成長しないのか。
 ただはっきりしていたことは、自分は今全然楽しくないということだった。
 それでもこれまで続けてきたピアノを辞めてしまう勇気はなく、高校に入ってもピアノは続けた。
「お前の音を聴いていても楽しくない」
 中学から指導を受けていた先生にそう言われた時、私は怒りや悲しみというより、妙に納得した気持ちになった。そりゃそうだろう、だってこっちも楽しくないんだから、と。
「このコンクールで賞とれなかったら、ピアノ辞める」
 高3になってすぐ、私はそう宣言した。
 学業をおろそかにしてまでも、私は最後の意地で練習に励んだ。結果次第では、今までの人生がすべて無駄になるような気がした。怖かった。
 そんな恐怖と不安に追い立てられるように、私は毎日ピアノに向き合った。
 これで最後だと決めたコンクール、私の結果は惨敗だった。
 その時、糸が切れた音がした。胸の中でぷつりと。
 次の日から、私は目標を受験勉強に切り替えた。すべての感情を取り払うように、私は無心で手を動かして受験勉強に励んだ。

 あれから私は、音楽から距離を置いて生きてきた。
 大学でも就職してからも、何かを演奏することはもちろん音楽を聴くことすらほとんどない。
 ただ、街中で知っている曲が流れて来ると、無意識に耳がそれを追ってしまう。頭の中に、昔何度も練習した譜面が自然と思い浮かんでくる。その思考を止めることはできなかった。
「──ねぇ畑野さん。もし良かったらお願いできないかな」
 顔を上げると、2人がこちらに注目していた。
「えっと……」
 一体何の話だろうかと、頭の上に疑問符が浮かぶ。
「来月やる開業10周年記念の音楽会で、畑野さんも何か演奏してくれないかな」
「えっ!?」
 あまりの驚きに声が裏返る。
「小さな集まりの予定なんだけど、僕の下手くそなバイオリンだけじゃ来てくれる人に申し訳なくってさ」
「でも、私もう何年もピアノ触ってないんです。なのに人前で弾くだなんてとても……」
「そっか。そうだよね……でも残念だな」
 これで何とか断れそうだと思った矢先、斎藤さんが口を開いた。
「じゃあ練習しましょうよ!」
「──え!?」
「だって、今でもあれだけ指が動くんですもん! 1ヶ月練習すればきっと弾けるようになりますよ!」
 なぜか自信満々な彼女がこちらを見た。私は必死に断る理由を探す。
 だが、私がそれを見つける前に院長が笑顔を作った。
「そうなの? じゃあぜひ弾いてよ。畑野さんのピアノ、楽しみだな」
 院長のその言葉でどうにも断ることができなくなった私は、途端に心の中に不安が襲ってきて、音を立てないように深くその場に息を吐いた。

 本番当日。音楽会用に飾り付けた院内に、いつも通ってくれる患者さんや職員の家族が十数人ほど集まった。
 始めて1年ちょっとだという院長のバイオリンの演奏に盛大な拍手が送られたあと、私の出番がやってきた。
 院長がどこからか手配してきたアップライトピアノに手を乗せる。
 あのコンクール以来、初めて人前で演奏する。胸が破れそうなくらいに強く鼓動を打つ。
 小さく息を吸って鍵盤を押す。
 練習して分かったことだが、曲を覚えていたのは頭ではなく何度も練習したこの指先の方だった。今もこうして緊張で真っ白になった頭に変わって、指先が自然とメロディを奏でていく。体に染み込んだメロディが弦を伝って、空気を振動させる。
 それは懐かしい感情だった。楽しい。音楽って楽しいんだ。
 そうやって心が弾むと同時に音が弾んだ。
 そんな感情で胸がいっぱいになっていた私にとって、それは本当にあっという間だった。
 椅子から立ち上がり後ろを振り返ると、その場の観客たちの拍手が私を包み込んだ。院長や斎藤さんをはじめとする同僚たち、患者さんや今日初めましての人でさえも私の方にこぼれんばかりの笑顔を向けていた。
 その光景を、滲んでいく自分の目の中にしっかりと焼き付ける。そしてその感情を、私は心の中にしっかりと刻み込んだ。


 きっと私は、この数年の間も決して音楽を嫌いにはなれなかった。むしろ嫌いになろうとしても、私は音楽の側からずっと離れられなかった。
 なぜなら、私が音楽に出会ったあの時から、音楽は私のこの中にずっとあったから。
 そして──これからもずっと、私の中にあり続ける。

4/7/2024, 7:27:42 PM

『沈む夕日』


 私には秘密がある──。


「ねぇ! テストも終わったことだし、パーッと飲み行こうよ!」
 こちらを振り返って後ろ向きに歩くマキが、ほんのりオレンジ色に染まりかけた空に勢いよく腕を伸ばした。
「あのねぇ、そんなこと誰かに聞かれたら、なんか良くないことしてるみたいじゃん」
 マキの提案にカエデがつっこみをいれる。
「いいじゃん、いいじゃん。学生だって、たまには息抜きも必要ってもんよ」
「あんたはいつも息抜きばっかでしょ?」
 呆れた表情のカエデに対して、マキはとぼけたように斜め上に目線を上げた。
「んー、そうだっけ? まぁ細かいことは置いといて、私たち未成年は健全にジュースで乾杯しましょうよっ」
 マキが屈託のない笑顔を浮かべて、前に向き直る。
「もぉ、まったくしょうがないなぁ。だったら会場はカラオケね。あたし、ここんとこ歌が足りてなかったんだよねー」
「えー! カエデとカラオケ行っても全然歌わせてもらえないじゃん」
「そんなことないよ。今日はちゃんとマイク渡すからさ。ねぇ、ミカもカラオケがいいよね?」
 カエデが私の方を振り返って尋ねる。
「えっと……私は……」
 2人の視線がまっすぐにこっちを見る。
 喉のすぐそこまで「私も行きたい」と出かかっていた。
 通り沿いの店の看板がカチカチっと音を立てて明かりを灯した。
「ごめん! うち門限厳しいから、今日はパスで!」
 顔の前で両手を合わせ、目をぎゅっとつむる。
「あ、そっか。ミカんち厳しいんだっけ? でもさ、今日くらいダメなの? テスト頑張ったご褒美だしさー」
 マキが唇を尖らせてそう言う。
「私もすっごく行きたいんだけどさ……」
 私がそううつむくと、肩にポンとカエデの手が乗せられた。
「じゃあさ、日曜に改めておつかれ会しようよ。部活は午前中までだから、それが終わってからミカの門限まで。もちろん会場はカラオケね」
 カエデがニッと私に笑いかけた。それを見て、まだ少し不満げだったマキが小さくため息をつく。
「わかった、じゃあ今日はやめよ。カラオケは3人で行った方が楽しさ100倍だしね」
 そう言って笑顔に戻ったマキが、私の肩に腕を回した。
「そうそう。じゃあ決まりで」
 カエデが満足そうに大きく頷いた。
 夕暮れの空のオレンジ色は待ってくれるような素振りもなく、みるみるうちに鮮やかに変化していく。
「ありがと」と私が呟くと、マキが「いいってことよ」と笑った。

「じゃあまた明日」
「うん、またね!」
「また!」
 ちょうど3人の家への分かれ道で、私たちはいつもそう挨拶をしてから別れる。
 少し行ったところで私は振り返った。それぞれに歩く2人の背中の向こうで、太陽が真っ赤に染まって落ちていく。
 2人の姿が完全に見えなくなる頃、太陽もそのほとんどが建物の向こうに隠れてしまった。
 私は急いで辺りを見回し、人目につかなそうな路地に駆け込む。そして、しゃがみ込み、小さく丸まった。


「あ、黒猫さんだ!」
 道を照らす街灯の下で、お母さんに手を繋がれた小さな子どもがそう声を上げた。
 私はその横をスッと走り抜ける。
「──あ、行っちゃった……」
 そう呟く声が後ろの方から聞こえた。
 さっきまでは"昼"の街だったのに、あっという間に街並みが"夜"の雰囲気を醸し出す。
 どっちが本当の姿なんてことはない。どちらも合わせて一つなのだ。
 通りを抜けて少し進むと、足元にピンク色の花びらが一枚落ちていることに気づいた。
 パッと顔を上げて左右を見渡しても、桜の木はどこにも見当たらない。この花びらは一体どこから来たのだろうか。
 そんなことを考えながら、足先で花びらをつつく。
 もうすぐ春も終わる。そうすれば、次は夏だ。
 すっかり陽の沈んでしまった黒い空を、私はゆっくりと見上げた。明日はきっともう少し長く──。


 私には秘密がある──、誰にも知られてはいけない秘密が。
 そんな私は最近、夏を心待ちにしている。

4/5/2024, 8:26:11 PM

『星空の下で』


 星空の下で彼女と出会った。
 その冬一番の澄んだ空には見たこともないほどの数多の星が浮かんでいて、彼女はその空を僕と同じように見上げていた。
 吐く息は白く、陶器のような白い肌は鼻先だけが微かに赤い。僕が着ているのよりもずっと薄いコートを羽織り、両手を温めるように擦りながら、彼女はじっと夜の星を眺めていた。
 僕は自分の両手を見つめた。飾り気のない自分の灰色の手袋を。
「良かったらこれ」
 考えるより先にそう話しかけていた。
 突然差し出された手袋を見て、彼女がきょとんとした表情でこっちを見る。僕は慌てて言葉を続ける。
「今宵は一段と空気が冷たいようです。僕はこの通り温かくしてきたので、手袋一つくらいなくても平気です」
 身につけた帽子とマフラー、そして重たいコートにボアのついたブーツを順に見下ろして、最後に彼女の目を見る。
「──いいんですか?」
 その瞬間に初めて聞いた彼女の声は、僕が漠然と思い描いていた彼女の声そのものだった。薄いガラスのように繊細で透明な声。
「ご迷惑じゃなければ、ですが……」
「ご親切にありがとうございます。では少しだけお借りします」
 喜びを含んだような笑みを浮かべた彼女が、僕が差し出した手袋に手を伸ばす。
 その瞬間、微かに彼女の手が僕の指先に触れた。
 僕は咄嗟に首をすぼめた。彼女の手の冷たさに驚いたからなのか、それとも不意に肌が触れたことに戸惑ったからなのかは分からない。
 こんなに冷えて風邪をひいてしまわないだろうか、という僕の心配をよそに、彼女はそのまま手袋をつける。
「あったかいです、とても」
「それはよかった。ですが──それだけではまだ寒いでしょう。このマフラーもよければ……」
 僕が首元に手をかけると、彼女は小さく首を振った。
「それはいけません。それではあなたが風邪をひいてしまいますし、こう見えて私、寒さには強いんです」
 鼻の頭を真っ赤にした彼女がそう言って微笑む。
 その言葉で心配が拭えるはずはなかったものの、僕は出かかった言葉を飲み込んで首に伸ばした手をゆっくりと下ろした。

 彼女が再び空に視線を戻した後も、僕はたびたび彼女の横顔を見つめた。
 彼女は今、何を思ってこの今にも吸い込まれてしまいそうなほどの美しい星空を眺めているのだろうか。


「──ねぇ、何を考えているの?」
 あの日を思い出していた僕に彼女がそう尋ねた。
「何って、君のことに決まってるじゃないか」
 僕がそう言うと「ほんとかしら」と彼女が僕の目を覗き込む。
「本当さ。ここで君と出会った時の、君の真っ赤な鼻先を思い出していたんだよ」
 少し驚いたように息を呑んだ彼女は、すぐに頬をふくらませて、ふいっとそっぽを向いた。
 そのいじけた表情を見て、僕は「冗談だよ」と笑う。
「本当はあの時の君の冷たい手を思い出していたのさ」
 僕はそう言って彼女の手を握る。
 だが、今日は彼女の手の冷たさを感じることはない。僕も彼女も今日は手袋をしているのだ。
 僕はあれからずっと大事にしてきた灰色の手袋を。そして、彼女は真新しい濃紺の手袋を。
 あの日みたく寒さに凍えないようにと今日のために用意したその手袋は、彼女が好きな夜空の色を僕が選んだ。
「──だってあの日は特別寒い夜だったから……ちょうど今日のように」
 彼女が空を見上げるので、僕もあとに続く。
「それに私だって気づいてたのよ。あなたがこの美しい星空を差し置いて、こっちばかり見つめてたって」
「えっと、それは……」
 焦る僕の隣で彼女がくすっと笑う。
「せっかくこんなにも美しい星の下にいるっていうのに、私ったらそればかりに気を取られてしまったわ」
「それは知らなかったよ……」
 何気なく彼女の方を伺い見ると、自然と目があった。途端に笑いがこみ上げてくる。
 その時、後ろからシャッターをきる音がした。
「なかなかいい写真が撮れたよ。ほら見てごらんよ、主役のおふたりさん」
 そこに切り取られた満天の星の下には、特別な純白の衣装に、不似合いな防寒具を身をつけた2人が幸せそうに笑いあっていた。
「素敵……」
「ああ、本当に」
「じゃあもう一枚。次はみんなで」
 その言葉を合図にして、散らばっていた人々が僕たちを取り囲むように集まってくる。家族、友人、どこを見ても大切な人たちばかりだ。
「──はい、撮りますよ! 3、2、1 ……」


 この日。星空の下で、僕たちは2人の未来を星に誓った。

4/2/2024, 8:31:03 PM

『大切なもの』


「これからあなたは、大切なものを毎日少しずつ失っていきます」
 そう言われたのは昨年、年の瀬のことだった。職場の同僚に半ば強引に誘われて占いに出向いた時に告げられた言葉だ。
「え、大切なものって……」
「あなたにとって、とても大切なもののはず。何かってところまでは──そうね、今はまだ分からないですが」
 いかにもな怪しいベールで顔を覆った占い師は、これまたいかにもなセリフを平然とした口調で述べた。
 彼女が指し示した手元のカードの意味は私にはよく分からなかったが、そのイラストが平和な絵ではないことは一目瞭然だった。
「じゃあ、私はどうしたらいいんですか」
 曖昧な忠告に、私は若干苛立ちながらそう尋ねる。
「うーん。もしかしたら何かそれに気づくきっかけがあるかもしれないですね。例えば──そうね、誰かとの出会いとか」
「え〜! それって男の人ですかぁ〜?」
 占い好きだという同僚が甘い声で嬉しそうにそう尋ねる。
 まだ微かながらその場に残っていた私の興味は、その時点でその次に控えるちょっとお高いランチへと焦点を移した。

 そんな出来事を何気なく思い出したのも、職場での部署移動が決まり、今の部署に残るその同僚ともしばらく顔を合わせることはないんだろうな、などと考えていたからだろう。
 年度末最終日の午前中、お世話になった部署の面々に簡単に挨拶をすませた私は、引き継ぎのために新しい部署を訪れた。
「すみません……」
 そう声をかけると、一人の男性が入り口の方までやってきた。
「もしかして百瀬さんですか?」
 男性が私にそう尋ねる。
「あ、はい。そうです。百瀬です」
「僕は田口といいます。百瀬さんに業務を引き継いでもらう予定の者です」
 そう名乗った彼は今年度で退職が決まっており、そのためにちょうど私物をダンボールに詰めているところらしかった。
 シャツのボタンは一番上を一つ開け、袖は肘までまくっている。
「あ、そうでしたか。お忙しいところすみません」
「こちらこそまだ片付いてなくてすみません。引き継ぎにいらしたんですよね。散らかってますが、どうぞ中へ」

 引き継ぎ内容はすでに彼によって丁寧にデータにまとめられていて、それについて質問を交えながら分かりやすく説明がなされた。
「ざっとですが、大体はこんな感じです」
 ふとパソコンから視線を上げて壁掛け時計をさり気なく見上げると、時刻はもうすでにお昼の1時を回ろうとしていた。
 そんな私の視線に気がついたのだろうか。彼がハッとした表情を浮かべる。
「もしかして、お昼まだでしたか? すみません。そこまで気が回らなくて」
「大丈夫です、そんなにお腹すいてないですし。それにこれが終わったらもう今日は上がりなので、あとで下のコンビニにでも寄って何か買って帰ります」
「あ。──あの、サンドイッチお好きですか?」
「え……?」
「いやその、近くにおいしいサンドイッチのお店があって。ご存知ですか?」
「いえ……知らない、と思います」
「じゃあ、もしお嫌いじゃなければですが。僕の業務を引き継いでもらうお礼に、ランチ奢らせてもらえたりしませんか」
 いきなりの申し出に私は目を見開いた。
「えっと、サンドイッチは好きですけど、そんな奢ってもらうなんて……」
 慌てて大きく首を振る。
「僕も今日で当分はこの辺に来ることもなくなりますし……そうだ、これも引き継ぎですよ。おいしいランチのお店の引き継ぎ」
 そうもまっすぐな笑顔で言われて断るに断れなかった私は、まぁ今日ぐらいはいいか、という気持ちなりその提案を受け入れた。

 建物を出ると外はすっかり春めいていた。朝着てきた上着は羽織らずに手に持つくらいでちょうどいい、過ごしやすい気温だ。
 同じようなことを考えていたのか「春ですね」と彼が言い、「そうですね」と私が返す。
 会社から歩いて5分ほど行ったところ、少し路地に入った場所にその店はあった。
 彼は慣れた様子で注文をする。
「僕はオリジナルサンドイッチとアイスコーヒーで。百瀬さんはどうしますか?」
 メニューにさっと目を通す。メニューに添えられた写真のサンドイッチはどれもおいしそうで、値段も思ったより手頃だ。
「じゃあ私も同じものを」
「はい。では、オリジナル2つとアイスコーヒー2つですね。店内で召し上がっていかれますか」
 店員さんがこっちを見る。私が隣に視線を送ると、彼は少し考えたあと前を向き微笑んでこう答えた。
「テイクアウトでお願いします」

「あの、どこに行くんですか?」
 お店でサンドイッチを受け取ったあと、「せっかくだからちょっと歩きましょうか」と彼は言い、どこかへ向かって歩き始めた。
「もう見えてきますよ──ほら!」
 彼の視線の先を見ると、ベンチとブランコが1つずつあるだけの小さな公園があった。そしてその真ん中に大きな桜の木が薄桃色の花びらをいっぱいにつけて咲き誇っていた。
「うわー!」
 ちょうど満開で見頃を迎えた美しい桜に、私は言葉を失った。
「どうでしょう、この桜。綺麗でしょう。ここ、僕のおすすめランチスポットなんです。いつ来てもあのベンチは空いてるのでおすすめなんです」
 彼がいたずらな笑みを浮かべる。
「さぁ、そこに座ってお花見しながらサンドイッチ食べましょう」

 ほとんど初対面の人間と、こうしてベンチで桜を見ながらお昼を食べていることがなんだかおかしく思えてきた。でも不思議と嫌な気持ちではない。
 春の心地に身を委ねると、時の流れが心なしかゆっくりに感じる。
「本当に綺麗ですね。それに何と言うか、すごく生命力を感じます。この今しかない美しさを存分に見てって言われてるような」
 私がそう言うと、彼もゆっくり頷いた。
「分かります。負けてられないって、僕も思います」
 その声のトーンは、さっきまでとどこか少し違うように感じた。さり気なく隣を見ると、彼の視線はただぼんやりと桜の木の方を見つめていた。
「桜、あと何日持ちますかね」
 静かに彼がそう尋ねるのと同時に、肌寒い風が吹いて、花びらをいくつか落とした。
「どうですかね、来週くらいまで持つでしょうか。もう新芽も開きそうですし」
「そうですね。でもやっぱり植物は強いですね。咲いて散っても、すぐに葉をつけてまた来年には咲く。ずっと何十年も何百年もそれを繰り返す。人間は散ったら終わり。もう咲くことはできない……生まれ変わったら僕も桜になろうかな」
 彼はそっと微笑んだ。風に散ってゆく花びらと同じくらい、儚げに。
 私は彼の言った言葉の意味を考えながら、ただ黙って満開の桜を眺めた。


 それから数カ月が経ち、朝礼で上司から話があった。
 数日前に彼が病院で息を引き取り、すでに近親者のみで葬儀を終えたという。
 後から聞いた話では、私が彼と桜を見ながらお昼ご飯を食べたあの時、もうすでに彼は病気で余命を告げられていたらしい。彼には自分の命の残り時間が分かっていたのだ。おそらくあれが最後に見る桜だということも。
 まだ若かったのに──などと弔えるほど私は彼のことを知らない。ただ彼と見た桜を、私はきっと一生忘れない。
 あれからふと考えることがある。前に占い師が言った言葉。
『これからあなたは、大切なものを毎日少しずつ失っていきます』
 人は生きていれば、当然日に日に残りの時間が短くなっていく。気づかないうちに、大切なものが少しずつ減っていくのだ。
 でもそのことに気づけば、もうそれはその時間を"失う"ことにはならない。残りの時間をどう使うか、何を得るか何を失うかは全て自分次第なのだ。

 私にそう気づかせてくれたのが彼だった。

3/15/2024, 9:04:48 PM

『星が溢れる』


 流れ星たちは、これまで多くの願い事を託されてきた。
 星たちはその輝きで願いに光を当て、それが叶うように力を貸してくれる。だが残念なことに、必ずしもすべての願いが叶うわけではない。
 宿った願いが叶った星は役目を終えてその光を落とすが、願いが叶わないままの星は、流れ着いた場所で微かな光を残したまま、いつかその光が消える日がくるのををただずっと待ち続ける。
 願いを叶えられなかったそんな星々が辿り着く場所を、いつからか誰かが『星捨て場』と呼ぶようになった。

 誕生してから途方もないほどの長い年月を経た星たちは、最後の最後にそこに流れ着いた。そして、それからまた途方もないほどの年月をここで過ごしている。
 ここにある願いのほとんどがもう叶うことはない。叶わないならば、消えゆくこともできないのだ。

 幾年が過ぎ、星捨て場の星は時が経つにつれてその数を増やしていった。夜空の光が一つ、また一つと落ちていくたびに、その中から小さく寂しげな光がそこに集まっていく。
 そして、空の星のほとんどが願いとともに流れ落ちてしまった頃。最初は別々だった小さな光たちは、徐々に1か所に押し集められていた。
 だんだんと、だんだんと集まった光たちは大きくて明るい1つの光へと変わっていき、最期には目もくらむほどの眩い光を放って空に弾け散った。
 叶わなかった数多の願いは光となって空に散らばり、また幾千もの新しい星々が暗い夜空に誕生した。

 再び星でいっぱいになった空に、またすぐに願い事が託される。
 消えゆく光もあれば、消えることのできないままの光も確かにそこに存在する。星たちはただ、自分の運命をまっすぐに受け入れるのだ。


 一度からっぽになった星捨て場。でももしかしたら、すでにそこは再び流れ着いた次の世代の星々によって、僅かな光を帯びはじめているかもしれない。

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