今宵

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『大切なもの』


「これからあなたは、大切なものを毎日少しずつ失っていきます」
 そう言われたのは昨年、年の瀬のことだった。職場の同僚に半ば強引に誘われて占いに出向いた時に告げられた言葉だ。
「え、大切なものって……」
「あなたにとって、とても大切なもののはず。何かってところまでは──そうね、今はまだ分からないですが」
 いかにもな怪しいベールで顔を覆った占い師は、これまたいかにもなセリフを平然とした口調で述べた。
 彼女が指し示した手元のカードの意味は私にはよく分からなかったが、そのイラストが平和な絵ではないことは一目瞭然だった。
「じゃあ、私はどうしたらいいんですか」
 曖昧な忠告に、私は若干苛立ちながらそう尋ねる。
「うーん。もしかしたら何かそれに気づくきっかけがあるかもしれないですね。例えば──そうね、誰かとの出会いとか」
「え〜! それって男の人ですかぁ〜?」
 占い好きだという同僚が甘い声で嬉しそうにそう尋ねる。
 まだ微かながらその場に残っていた私の興味は、その時点でその次に控えるちょっとお高いランチへと焦点を移した。

 そんな出来事を何気なく思い出したのも、職場での部署移動が決まり、今の部署に残るその同僚ともしばらく顔を合わせることはないんだろうな、などと考えていたからだろう。
 年度末最終日の午前中、お世話になった部署の面々に簡単に挨拶をすませた私は、引き継ぎのために新しい部署を訪れた。
「すみません……」
 そう声をかけると、一人の男性が入り口の方までやってきた。
「もしかして百瀬さんですか?」
 男性が私にそう尋ねる。
「あ、はい。そうです。百瀬です」
「僕は田口といいます。百瀬さんに業務を引き継いでもらう予定の者です」
 そう名乗った彼は今年度で退職が決まっており、そのためにちょうど私物をダンボールに詰めているところらしかった。
 シャツのボタンは一番上を一つ開け、袖は肘までまくっている。
「あ、そうでしたか。お忙しいところすみません」
「こちらこそまだ片付いてなくてすみません。引き継ぎにいらしたんですよね。散らかってますが、どうぞ中へ」

 引き継ぎ内容はすでに彼によって丁寧にデータにまとめられていて、それについて質問を交えながら分かりやすく説明がなされた。
「ざっとですが、大体はこんな感じです」
 ふとパソコンから視線を上げて壁掛け時計をさり気なく見上げると、時刻はもうすでにお昼の1時を回ろうとしていた。
 そんな私の視線に気がついたのだろうか。彼がハッとした表情を浮かべる。
「もしかして、お昼まだでしたか? すみません。そこまで気が回らなくて」
「大丈夫です、そんなにお腹すいてないですし。それにこれが終わったらもう今日は上がりなので、あとで下のコンビニにでも寄って何か買って帰ります」
「あ。──あの、サンドイッチお好きですか?」
「え……?」
「いやその、近くにおいしいサンドイッチのお店があって。ご存知ですか?」
「いえ……知らない、と思います」
「じゃあ、もしお嫌いじゃなければですが。僕の業務を引き継いでもらうお礼に、ランチ奢らせてもらえたりしませんか」
 いきなりの申し出に私は目を見開いた。
「えっと、サンドイッチは好きですけど、そんな奢ってもらうなんて……」
 慌てて大きく首を振る。
「僕も今日で当分はこの辺に来ることもなくなりますし……そうだ、これも引き継ぎですよ。おいしいランチのお店の引き継ぎ」
 そうもまっすぐな笑顔で言われて断るに断れなかった私は、まぁ今日ぐらいはいいか、という気持ちなりその提案を受け入れた。

 建物を出ると外はすっかり春めいていた。朝着てきた上着は羽織らずに手に持つくらいでちょうどいい、過ごしやすい気温だ。
 同じようなことを考えていたのか「春ですね」と彼が言い、「そうですね」と私が返す。
 会社から歩いて5分ほど行ったところ、少し路地に入った場所にその店はあった。
 彼は慣れた様子で注文をする。
「僕はオリジナルサンドイッチとアイスコーヒーで。百瀬さんはどうしますか?」
 メニューにさっと目を通す。メニューに添えられた写真のサンドイッチはどれもおいしそうで、値段も思ったより手頃だ。
「じゃあ私も同じものを」
「はい。では、オリジナル2つとアイスコーヒー2つですね。店内で召し上がっていかれますか」
 店員さんがこっちを見る。私が隣に視線を送ると、彼は少し考えたあと前を向き微笑んでこう答えた。
「テイクアウトでお願いします」

「あの、どこに行くんですか?」
 お店でサンドイッチを受け取ったあと、「せっかくだからちょっと歩きましょうか」と彼は言い、どこかへ向かって歩き始めた。
「もう見えてきますよ──ほら!」
 彼の視線の先を見ると、ベンチとブランコが1つずつあるだけの小さな公園があった。そしてその真ん中に大きな桜の木が薄桃色の花びらをいっぱいにつけて咲き誇っていた。
「うわー!」
 ちょうど満開で見頃を迎えた美しい桜に、私は言葉を失った。
「どうでしょう、この桜。綺麗でしょう。ここ、僕のおすすめランチスポットなんです。いつ来てもあのベンチは空いてるのでおすすめなんです」
 彼がいたずらな笑みを浮かべる。
「さぁ、そこに座ってお花見しながらサンドイッチ食べましょう」

 ほとんど初対面の人間と、こうしてベンチで桜を見ながらお昼を食べていることがなんだかおかしく思えてきた。でも不思議と嫌な気持ちではない。
 春の心地に身を委ねると、時の流れが心なしかゆっくりに感じる。
「本当に綺麗ですね。それに何と言うか、すごく生命力を感じます。この今しかない美しさを存分に見てって言われてるような」
 私がそう言うと、彼もゆっくり頷いた。
「分かります。負けてられないって、僕も思います」
 その声のトーンは、さっきまでとどこか少し違うように感じた。さり気なく隣を見ると、彼の視線はただぼんやりと桜の木の方を見つめていた。
「桜、あと何日持ちますかね」
 静かに彼がそう尋ねるのと同時に、肌寒い風が吹いて、花びらをいくつか落とした。
「どうですかね、来週くらいまで持つでしょうか。もう新芽も開きそうですし」
「そうですね。でもやっぱり植物は強いですね。咲いて散っても、すぐに葉をつけてまた来年には咲く。ずっと何十年も何百年もそれを繰り返す。人間は散ったら終わり。もう咲くことはできない……生まれ変わったら僕も桜になろうかな」
 彼はそっと微笑んだ。風に散ってゆく花びらと同じくらい、儚げに。
 私は彼の言った言葉の意味を考えながら、ただ黙って満開の桜を眺めた。


 それから数カ月が経ち、朝礼で上司から話があった。
 数日前に彼が病院で息を引き取り、すでに近親者のみで葬儀を終えたという。
 後から聞いた話では、私が彼と桜を見ながらお昼ご飯を食べたあの時、もうすでに彼は病気で余命を告げられていたらしい。彼には自分の命の残り時間が分かっていたのだ。おそらくあれが最後に見る桜だということも。
 まだ若かったのに──などと弔えるほど私は彼のことを知らない。ただ彼と見た桜を、私はきっと一生忘れない。
 あれからふと考えることがある。前に占い師が言った言葉。
『これからあなたは、大切なものを毎日少しずつ失っていきます』
 人は生きていれば、当然日に日に残りの時間が短くなっていく。気づかないうちに、大切なものが少しずつ減っていくのだ。
 でもそのことに気づけば、もうそれはその時間を"失う"ことにはならない。残りの時間をどう使うか、何を得るか何を失うかは全て自分次第なのだ。

 私にそう気づかせてくれたのが彼だった。

4/2/2024, 8:31:03 PM